『十蘭万華鏡』に収められた『少年』は、雑誌『新青年』の1944年11月号に掲載されました。
軍事色一色の中、久生十蘭が南方戦線を舞台にして、
語り手の掌工作長とお地蔵さんの綽名をもつ市村という少年整備兵の交流をメインにした小説です。

戦争の悲惨さを暗澹と語るでもなく、かといって無条件の戦争賛美でもない。
戦争の馬鹿馬鹿しさを、すべて二重の意味によって検閲をくぐりぬける、
レトリシャン久生十蘭の面目躍如。


のっけから、攻撃を仕掛けてきます。

「掌工作長、この寝台に寝ていられた川口兵曹長は、一昨日、前進基地で戦死されました」

着任当日に案内された兵室で、開口一番、整備兵の少年がつぶやくように伝えた言葉に
「おれは気を悪くし」た。
すなおに読めば「気を悪くする」とは死への恐れが見えています。
しかも、この少年兵が「郷里の高等科二年に通学しているおれの長男が、そこに立っているような錯覚を起して思わずどきりとした」と語ります。
この一文、そのままに読めば自分の息子は戦地に送らず、戦死の危険に合わせずに済ませていたのに、息子のような気がしたから「どきりとした」、これは明らかに非国民的発言でしょう。

十蘭はこの二つの危機をさらっと回避します。
この少年兵が兵曹長の死を伝えたのは「おれにこのB棟における最高の名誉を伝えようとしたのである」と後から考えて了解し、
少年兵が長男に見えたのは、長男に共通する「気品はあるが、どこか気力の足らない」表情を認めたとして、二つともはぐらかします。
書かれていることがすべてなら、この二つの弁解によって逃げられます。
しかし、冒頭の士官の感想は否応なく脳裏に残ります。
だからもう一度、語り手は戦地に送らなかった長男を思い出し、
「いまごろ国民学校の校庭で、蛙跳びでもして遊んでいるであろうおれの長男と、かれの差異を考えながら飯を喰う」と書き添えます。
これで弁明は立ちます、しかし、最初の強烈な提示が、あとに続くこうした言い訳がましい添加を、
まさしく言い訳にしてしまいます。

配膳の際、各上官の箸箱には名札を貼ることはできず、従兵はそれを覚えていなければ叱られる。
「これは従兵いじめではない。海軍の躾のひとつであって、やるべきことは飽迄やらせるという真の愛情なのである。」
このように書くことで、それが「いじめ」であることがはっきりします。
しかも、箸の配膳という些末な例を挙げることで、
表向きには海軍の箸にまで徹底した目配りと規律を与えていると見せておいて、
その裏では、不合理で時間の無駄だということ、
「真の愛情」など真っ赤な嘘で、単なる上官の嫌がらせであることを暴露します。
それが分かるのが、この「~なのではなく、~なのだ。」という否定と訂正のレトリックです。

そして、最も見事なレトリックが、語り手が出張でスラバヤに行くというので、
みなに買物を頼まれる中、従兵の「お地蔵さん」はこのようなメモを託します。

「トランク二個、靴二足、色鉛筆一打、「少年の友」五月号、財布、靴下……しかし、それはみな棒を引いて消してあって、最後にたった一行だけ残っている……チョコレート一個。」

表向きには次のように読めます。
前線の物資不足をうたい、少年兵のさまざまな我慢の美徳が示され、チョコレートを所望するところに少年らしいけなげないじらしさも見える、さあ、みんな戦地に物資を送ろう、自分たちは我慢すべし。

しかし、これは痛烈な皮肉です。
現代からみているからではありません。
列挙のレトリックは加算の効果があり、その加算効果をすべて消去する棒線の側に置く、
それによって消去する少年の悲しさの側にレトリックは加担します。
しかも、この前には士官室で戦闘機乗りたちが、麦酒六本、缶詰、清酒一升、麦酒豆、麦酒一打と次々に注文し、へべれけになって就寝する場面が描かれています。
「明日をも知れぬ戦闘機乗り」という末期の酒のイメージを添加しますが、その修飾語ひとつと列挙される品目の分量は、泥酔者たちへの弁護にはなりません。
彼らは麦酒を1ダース、命令一つで手にすることができる、しかし、彼は色鉛筆1ダースすら買うことはできない。
少年の消去した買い物リストは、大きいものから小さいものへとデクレッシェンドし、最後は無音の点のみになります。
物の列挙の手法の一つは、大小の順に並べることでクレッシェンドやデクレッシェンドの効果を持つことです。
それに対し、泥酔者たちの麦酒6本から麦酒1ダースへと波打ちながらクレッシェンドします。

強者と弱者の対比をあますところなく見事に描き、なおかつ、表向きには「明日をも知れぬ戦闘機乗り」と少年のけなげさを謳い、その批判をする。
それは普遍的なレトリックを駆使することで、後世においてもなおその批判が生き続けるようにした、十蘭の戦いです。

少年兵の綽名が「お地蔵さん」というのも意味深長ですね。
日本には「地獄に仏」という言葉がありますから。
地蔵菩薩が地獄に降りて、罪人を救うという話をこっそりと忍ばせているわけです。
そのお地蔵さんを、零戦のエンジンをかけるためのハンドルが折れたばかりに敵機の掃射の犠牲にする。
地獄の仏を葬る、それが戦争であるとレトリックを解する者に向けて説く。

戦争賛美とも悲惨さを伝えるルポルタージュとも異なり、
レトリックによる皮肉・批判は、それを理解しない者には全く意味を持ちませんが、
それを理解した途端、いかなるものよりも痛烈な一撃を食らわせる。
十蘭はこの時代にあって、針の穴ほどの微妙な抜け穴を正確にすり抜け、
なおかつ時代の変化を経ても、鮮やかな色を失わないでいられるのは、
レトリックのもつ普遍性です。

あまり関係のないエピソードを会話の中に延々と並べることでもたらされる飄味の後ろに、
実に実に鋭く際どい、白刃の切っ先がこちらに向かって突きつけられている、
恐ろしいですね、究極の達人の術を目の当たりにした気がします。