大学の学生のレポートを読んでいると、しきりに音楽の「中毒性」という言葉が多く出てきて、首をかしげた。

「中毒性が高い」というのは、ネガティヴな言葉を用いた肯定表現である。

(「やばい」「えぐい」「えげつない」などと同類)

 

そうした口語表現を大学のレポートに用いること自体に疑問を感じる、ということは脇においておくとして、私が気になったのは、「中毒性が高い」ことをあたかも自明のことのように書いて、その理由も原因も何も記さない、ということである。

 

自分が好きなものは相手も好きで、自分が熱く語っていることは相手にも伝わっている、というかん違いは、ともすれば非常に傲慢な態度だともいえる。

この数年、そうした論理性がなく、説得力もなく、相手に理解を求めようともしていない、

感想文ですらないようなレポートが増えてきた。

 

しかし、あまり愚痴を書いても仕方がないので、あえて、ここで音楽の「中毒性」というものについて簡単に考えてみたい。

つまり、それだけ多くの学生が「中毒性」を音楽の評価基準に加えているのであれば、

それは一つの文化現象だともいえるのである。

 

 

まず、「中毒性」という言葉には、少なくとも2種類の考え方がある。

①「くり返し聞きたくなる」ということ、つまり、そればかり何度も聴いて、他の音楽や他のことに手がつかない、という状態である。

②「頭に残ってはなれない」ということ、つまり、何度も聴かなくても、頭の中で延々とループして消えない、という状態である。

 

レポートの書き手は、まずそのどちらの意味で用いているかを明確にしなければならない。

どちらも、などという煮え切らない態度はレポートではない。

もし、両者ともなら、それぞれの原因を書くべきなのである。

 

 

とりあえず、私自身の体験のうちから、この①,②にあてはまっていそうな例を考えてみたい。

 

少なくとも、②に関してはわりと思い当たる節がある。

先日、ベルリオーズの《幻想交響曲》を聴いたところ、

第4楽章の「断頭台への行進」が頭から離れず、数日間、延々と耳に残っていたのだ。

 

消したくても消えない、まさにイデー・フィクス(固定観念)のように

頭をぐるぐるとめぐるのである。

 

《幻想交響曲》の第4楽章は、1830年の初演でもアンコールで演奏されたというから、

「中毒性」を持っていた、ということもいえよう。

では、この「断頭台への行進」が頭に残る理由は何か、といえば、

それは短い単純なフレーズ(とリズム)と執拗な反復、そして、異質な響きにある。

 

「シ♭・シー♭・ド・レー」という一度聞けば覚えられる短い動機のみで、

この楽章が構成されていることで、私たちは否応なくそれを覚えている。

執拗な反復、というのはこの動機がずっと繰り返される、ということで、

やはり、私たちの記憶に訴えることになる。

 

そして、異質な響き、という点でいえば、ティンパニの6連符と、チェロ、コントラバスのピッツィカートという粗野な音のうえで、ホルンがゲシュトップ奏法でこの動機を吹く。

 

単に耳ざわりがよい音では印象に残らず、通り過ぎてしまう。

もちろん、軍楽隊のあまり上等ではない楽器の音を模した部分もあろうが、

この作品を聴いてきたなかで、とつぜん、こうした異質な響きが聞こえると、

人はそれを覚えるのである。

こうしたオーケストラの異質な響きによる印象づけは、マーラーの交響曲などにもよくみられる。

 

つまり、覚える仕組みがいくつか組み合わさっているのであり、

それゆえに、頭に残る、ということは言える。

 

この②の状態は、その音楽をずっと頭の中に置いておきたい、というよりは、

悪夢に近く、消したくても消えない、という状態である。

その点で、「中毒」という言葉の持つ本来の負の側面があらわれていると思うとよい。

もっとも、それと幸福感は紙一重ではあるのだが。

 

 

つぎに、①についてであるが、これはなかなか難しい。

まずそこには、その音楽を生みだす演奏者やアーティスト、歌手、アイドル、ボーカロイドに対する、偏愛的な関心があるからだ。

同じ作品でも、くり返し聞きたくなる演奏と、そうでない演奏がある。

それは、作品そのものに内在する要素ではなく、付加的な要素である。

 

おそらく、学生レポートのなかに頻出する「中毒性」は、作品そのものというよりも、

このアーティストに対する関心によるものであろう。

なぜそのアーティストに関心があるのかは、一口に言えるものではない。

顔やスタイル、ファッションといった見た目、声の質や歌唱力、ダンスや振付といったものに、「かっこいい」、「かわいい」、と言ったり、

デビューまでの苦労やオーディションなどを映す番組に感情移入しているというようなことが考えられる。

 

しかし、そうした偏愛と①の「中毒性」は少し異なるのではないかという気もする。

くり返し聴きたい、というのは、ある種の官能性と結びついているはずである。

つまり、そこに「快感」がともない、それを何度も繰り返したいという欲望である。

 

音楽の「快感」には、たとえば、発声に関することがあげられる。

のどをしめた細い声に切なさを覚えたり、力強く張りあげる声に気分が高揚したりすることがある。

前者は、嗚咽に似ているため、元気でないときには寄りそうような共感を見いだし、

逆に後者は、エールに似ているため、励まされるような、あるいはアーティスト自身が自分を鼓舞しているようにみえる。

そこに、②にあったような、短い単純なフレーズとくり返しをともなうことで、

聴く人の印象に残る、ということはありそうなことである。

 

もちろん、外見的な特徴やダンスのポーズと結びつくこともありえる。

その際には、動きのメリハリや、揃うタイミングというのが計算されているはずである。

ずれていたものが一致する瞬間があると、心地よさを覚える、その心地よさを何度でも反芻するために視聴することもあれば、それだけ見とれていればよい、ということもありうる。

 

また、ボーカロイドのような打ち込みによるものは、

機械的な強い音の反復によって、耳が麻痺していくということもある。

そして、激しいリズムと跳躍の多いメロディにめまいのような感覚を与える。

その麻痺やめまいの心地よさを「中毒性」と言いかえることもできるだろう。

 

あるいは、〈強風オールバック〉のようなものはどうなのだろう。

あれもまた、反復とその変化によって耳に残るというタイプのものである。

単純な反復にみえながら、映像に小さな差異をつけて反復していくことで、

視覚的な印象も強く残ることにあんる。

 

①にせよ、②にせよ、単純なフレーズの反復、そして耳につきやすい異質な音、

というのは少なくとも「中毒性」の条件であるように思う。

 

「中毒性」をもつ音楽、ということであれば、

せめてこのくらいは考えて、自分が言いたいのはどれにあたるのか、ということを言葉にしてくれなくては、レポートとはいえない。

 

 

最近、というよりもおそらくずっとそうなのですが、

炎上という現象の正体はなんだろうかといつも考えます。

 

フワちゃんが芸人のやす子にX上でした発言がとても炎上しているのもそのひとつでした。

おとなげない発言でしたし、完全に場所とタイミングを間違えていたのは確かなことです。

 

それよりも、今ふと思ったのは、このやりとりは、言葉の論理としておかしいのではないか、

という点です。

 

「やす子オリンピック 生きてるだけで偉いので皆優勝でーす」

に対して「おまえは偉くないので、死んでくださーい 予選敗退でーす」

という言葉は、論理として対応していない。

 

やす子は、「生きている」という理由で「偉い」と評価し、

そこに「優勝」という結果をもたらしています。

しかし、フワちゃんは、「偉くない」という理由で、「死んでください」としている。

論理的に整合性がとれているなら、「死んでいる」から「偉くない」となっているはずです。

「偉くない」から「死ぬ」という論理は成立しないはずなのです。

順序が逆なのです。

 

むしろ、この非論理性を問題にした方がよい。

ところが、ほとんど誰もこのことを問題にしていないのではないでしょうか。

逆に、やす子にたいしても「死んだ人は偉くないんかい」というくらいのツッコミをだれかしてもよかったと思います。

もちろん、これらはしょせん言葉遊びの範疇です。

 

それはともかく、私は炎上させる人たちに対する疑問のほうが大きいのです。

発言の内容というよりも、結局のところフワちゃんに対してふだんから面白くないと思っている人たちが、機会を得て叩いたにすぎず、やす子に対して心から同情しているわけでもないのではないか。

「死んでください」と言った人間に対して、「お前が死ね」「見たくない」「テレビから消えろ」という発言をする人間はどんぐりのせいくらべでしょう。

 

私などは、ああ、またやらかしたな、うまいことを言ったつもりでスベったな、

というくらいの感じです。

馬鹿をみて、馬鹿だな、といっていられるくらいの心の余裕があるほうがいいでしょうし、

自分だってその馬鹿からたいして違いはしないのです。

だいたい、私がフワちゃんに直接関わることはないのですから、他人事です。

私自身に関わることなら、言ったことを後悔させるために全力を尽くしますが。

 

***

 

この炎上というものを考えると、そこには言葉の一面的な判断がつきまといます。

たまたま、さっきネットニュースで女性のフリーアナウンサーが、「ご事情あるなら本当にごめんなさいなんだけど。夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる。常に清潔な状態でいたいので1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…」という投稿をして炎上し、事務所を解雇されたということで、気になったのでした。

 

これでなぜ異性の名誉棄損になるのか、私には理解できない。

きちんと「ご事情があるなら」と断っているし、「多くの男性」だから「すべての男性」という極端なものの言い方になっているわけでもない。

 

たとえば、世の中には病気や生来のものもあるでしょうし、

汗だくになる現場で働いている人もいます。

でもそういう人は「ご事情」のある人たちなのだから、この投稿の意図からは外れているのです。

 

あるいは、女性も含めて体臭を気にしろ、といえばよかったのでしょうか。

 

この発言に不快さを覚えた人たちを推し量るに、この言葉に「義務」を感じたからだろうと思います。

なぜ、そういう義務感を感じさせるかというと、私は体臭を気にして頑張っているのだから、

他の人もそうするべきだ、という比較がされていることにあります。

人と人を比較すると、だいたいろくなことになりません。

この場合は、「苦手すぎる」という主観をまず提示したうえで、比較し、自分を上位においた結果、対象となる「多くの男性」を見下したかのような印象を与えたということになります。

 

逆に、ここにかみつく人たちと言うのは、自分が比較され、下に見られたのだということへの反発であり、それは潜在的な男尊女卑の思想をもっているとも言えます。

 

これが問題になるというのなら、消臭剤や洗剤のCMも問題があることになるのではないでしょうか。

少年やお父さんの服や足跡がばい菌だらけで臭いの元になっていたり、

漂流して上陸した汚い芸人を、白衣のイケメン(?)が漂白してきれいにする、

といった内容はなぜ問題にならないのでしょうか。

 

こうしたCMの場合、その商品の購買者の過半数は女性だと思われます。

逆にいえば、同じように思っているから買うのです。

男性たちが、なぜこうしたCMに反発しないかというと、メッセージの着地点が異なるからです。

臭いや汚れが取れる○○という商品を売ることが目的のCMは、購買者にめがけてメッセージを発しています。

臭いの原因を作り、それを苦にしていない人は、これらの商品を買わないから、

メッセージが目と耳に入らない、ということです。

 

ここまできたら、私などは自分が汗臭くある権利を主張するよりも、

臭くならない努力をしているほうが、利点が大きい気がするのです。

 

***

 

ところで、膨大に発信されるXの言葉のほとんどが何の反応もなく、問題にもならない中で、

こうした言葉が問題になる、というのには内容よりも、論理とレトリックが関わっているのだなと実感させられます。

 

論理が破綻しているものをみると、どこがおかしいか言えないけれど、何かおかしい気がしている、というのがフワちゃんのケースです。

「おまえは偉くないので」といったときに、人は発信者のフワちゃんにたいして「おまえは偉いのか」とつっこみたくなっている。

ということはこれも比較が問題になっているのか、そうか。

 

フワちゃんはやす子に対して「おまえは偉くない」といえる立場に立っていることが、

言葉から分かるようになっている。

それに対する反感なのでしょう。

 

そして、アナウンサーのケースは、うかつに自分と他人を比較し、相手を下にしたことが、反感を買ったという例になります。

最近よく見かける「マウントをとる」ことになります。

比較するときは自分が下になるようにしておいたほうが、得が大きいことを知っておくべきでした。

自分より下になる人を示すのではなく、自分より上になる人を持ち上げたほうが得なのです。

 

こうして考えると、炎上のたいていは自分と他者の比較が含まれ、

そのときに自分が上に立っており、相手を下にみている、ということが原因になっていることがわかります。

フワちゃんもアナウンサーも謝罪していましたが、結局のところ、本質がどこにあるのか気づいていない。

比較なのです、そして、相手よりも自分に重きを置いたときに、炎上の火種がうまれる。

 

比較された方は、怒りだしてわざわざその比較の天秤に載りにいく。

そして、自分のほうが重いのだと言って、ふんぞりかえる。

 

私からしたら、どっちもどっちです。

わざわざ比較の天秤に載りに行くこともないのに、と思います。

ただ、わざわざ火種を作る必要もないのに、とも思います。

 

発信力のある人は、「比較」を発言の判断基準においてみると

リスクマネージメントにつながるのではないかと思います。

体操女子の五輪代表選手が、未成年にもかかわらず飲酒・喫煙を行ったということで、

代表辞退となったことがニュースになりました。

多くの人が、その是非について意見が割れ、判断することの難しさを突き付けています。

 

ドライにいえば、法律と協会規則に反したのですから、辞退は止むをえないとすべきでしょう。

この件を大目に見れば、彼女だけが優遇されたということが、かえって他の選手に不公平な印象を持たせることにもなるかもしれません。

泣いて馬謖を斬る、厳しいことながら、全体を考えるなら、この処分は適切です。

 

同情論もあります、まだ19歳なのに、あるいはたかだか飲酒・喫煙くらいで出場辞退とは、など。

しかし、過ちは過ちですし、法律は法律です。

ただ、いくつかの意見にもありましたが、これで選手生命が絶たれる、というような

文脈を作らないように私たちは注意する必要があります。

 

人は間違えますし、過ちを犯します。

問題は、過ちを認識し、それを直す努力をするかどうかということです。

『論語』で孔子は「過ちて改めざる、是れを過ちと謂ふ」と言っています。

面白い表現の言葉です。

 

過ちだと気づかず、認めようともせずに、そのまま自分を正当化したり、

捨て鉢になったり、逆切れしたりする、それこそが「過ち」だというのは、

2000年以上を経てもなお真理だといえるでしょう。

 

『論語』には、「過ち」に関わる言葉がかなり残されています。

それは、人は間違えるが、大事なのはその間違いをどう正すかにある、というのが孔子の教えだったということをよく教えてくれますし、

大昔から「過ち」が様々な問題を引き起こしてきたということを教えてくれます。

 

「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」という言葉、「間違っていたと分かったら、改めることをためらうな」という意味ですが、まったくその通りです。

危機回避に最も必要な能力です。

 

だから、今回の選手も、過ちと知ったらそれを改めて、次回につなげてほしいと思います。

次回でも23歳、まだまだ十分に戦えます。

 

ただ、そういってみたところで、私は根本的な解決にならないと思います。

今回の喫煙・飲酒がどういう背景から行ったのかは分かりませんが、

もしプレッシャーやストレスからの逃避行動として行っていたのだとしたら、

規則で縛ることで禁止しただけでは、協会の管理運営者の無責任だとも思うのです。

 

19年ほどしか生きていない人が、国を背負うという高揚感とプレッシャーに引き裂かれているのなら、メンタルのケアこそ重視しなければなりません。

日本では、全体的に気合と根性で済まされているような気がしてなりません。

 

もちろん、メンタル・トレーナーはいるでしょうし、そうした活動もあるのでしょうが、

そういう議論はあまり出てきていないように思われます。

私が無知なだけかもしれませんが、おそらくあまり知られていないでしょうから、

それこそマスコミはそうした存在に注目し、紹介し、議論のきっかけを作ってほしいと思います。

 

もっとも、メンタルの強さを間違った方向に助長させ、

自己正当化しかしない人間を作っては困るのですが。。。

「過ちて改めざる、是を過ちと謂ふ」、肝に銘じておきたい言葉です。

 

先日、フジコ・ヘミングが亡くなり、彼女が注目されるきっかけとなったETV特集の

『フジコ~あるピアニストの軌跡~』を久しぶりにみて、少し意外な感じがした。

 

私は、彼女のファンではない。

もっといえば、彼女の演奏に感動しているファンの顔つきが嫌だ。

この番組をきっかけにブームが起き、「魂のピアニスト」という宣伝文句に目の色を変え、

まるで聖人を崇めるように祀り上げる熱烈なファンほど質の悪いものはない。

 

そこにあるのは、あいだみつおや晩年の小澤征爾のファンに共通する、

宗教的な、ファナティックな心理現象である。

「まちがったっていいじゃない、人間だもの」というフジコの言葉はあいだみつおの書そのままの言葉のようである。

 

しかし、番組を観ていて、意外だったのは、

そこで演奏されていたショパンの《ノクターン 変ホ長調》と、

リストの《ため息》には、私はいやらしい印象を持たなかったということだ。

 

その演奏にあったのは、戦前からのヨーロッパの演奏伝統の香りで、

何がどうしてそう思うのか、といわれると困るが、旋律を優先する態度といえばよいだろうか、

装飾的な伴奏よりも、旋律線を聞かせようとする態度である。

彼女を認めたというチェルカスキーやマガロフのスタイルがそういう演奏であった。

 

ただ、《ラ・カンパネラ》には若干の演出臭さがあった、やはりここで何かの方向性が捻じ曲げられたのだろうと思う。

「世界で最も難しい曲」という番組内のテロップも気になった。

《ラ・カンパネラ》は、当然、リストの中では難しい作品ではない、むしろ易しいほうである。

《ピアノ・ソナタ ロ短調》のほうがよほど難しいし、《パガニーニの主題による練習曲》のなかなら終曲の第6番のほうが圧倒的に難しい。

しかし、視聴者は安易にこうした宣伝文句に飛びつくのである。

 

人は、そうした宣伝文句とエピソードを咀嚼し、骨までしゃぶりつくそうとする。

天才少女と話題になりながら、ハーフで国籍がスウェーデンだったため、パスポートを失った、貧乏のどん底にあえいだ、耳が聴こえなくなった、

すべて日本人が好きな苦心談である。

だから佐村河内のような人間が出てくるのだ、ということを日本人はどうして学ばないのだろう。

 

それはともかく。

フジコ・ヘミングの日常をみながら、私はどこかで惹かれずにはいられないものがあった。

それは映像として演出されている部分もあるだろうが、部屋の調度にあるヨーロッパ趣味には、演出しきれない匂いがある。

その雰囲気が、いつも誰かに似ているな、と思っていたがその誰かが思い出せずにいた。

ところが、この特集を観ていてはたと気づいた。

 

森茉莉だ。

 

森鷗外の娘で、60歳をこえて小説家・随筆家として活動を開始し、

ある一部の間で大変にもてはやされた人である。

非常に独善的に美を語る、その語り口は、読む人を選ぶ。

貧しく汚いぼろアパートに住みながら、文章からは貧乏くささを放逐したような

絢爛たる言葉が並ぶ。

 

たとえば、『貧乏サヴァラン』のなかの「お菓子の話」の冒頭。

 

 思い出のお菓子。それは静かな明治の色の中に沈んでいる紅白、透徹った薄緑、黄色、半透明の曇ったような桜色、なぞの有平糖の花菓子。

 大きな真紅い牡丹、淡紅の桜の花、先端が紅い桜の蕾、緑や茜色を帯びた橄欖色の葉。薄茶色の木の枝には肉桂の味がした。紅白で花のように結ばれた、元結いの形のも、あった。

 

「明治」とあるように、ここには現代がない。その言葉の字面にも、彼女が生きていた時代の今は刻まれていない。

あくまで、彼女が少女時代を過ごした明治大正の言葉だというのがありありと伝わってくる。

有平糖をここまで美しく描ける文章もそうそうないと思う。

それは、思い出の中にあるからで、思い出が非常に明確に色鮮やかな形をともなっているから書けるものである。

 

実は、かくいう私が森茉莉を好きで、一時期オークションで自筆原稿を買い漁ったのだから、

私もファナティックなファンのことをとやかく言えないのかもしれない。

しかし、森茉莉に依存することはなかったので、やはり一人の作家として見ていたのだろう。

 

フジコ・ヘミングにしてもそうである。

私にしてみれば、古い演奏スタイルのなかを生きていた一人のピアニストであり、

ある頑固な生活態度を維持し続け、思い出を大事に抱えて生きていた国際人の姿である。

作家の吉田健一などもそういうタイプの人だっただろう。

そして、私は吉田健一の文学が好きなのだ。

 

自分の人生がこれというときに時を止め、あえてそこに留まり続けることを選ぶ人がいる。

それだけの「美しい時」を生きたという実感が、その後の人生のなによりも鮮やかだったという人がいる。

三島由紀夫の『黒蜥蜴』にこういうせりふがある。

 

女でさえブルー・ジンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を五米も引きずっているべきだと信じている。

 

黒蜥蜴の犯罪を評した言葉で、私は『黒蜥蜴』のせりふで一番好きなところのひとつである。

「きらびやかな裳裾を五米も引きずっている」かたくなな精神、それに耐えられるだけの美しい時を私はつい想像したくなる。

 

フジコ・ヘミングという人自身もそういう類の人だったのだろうと思う。

ただ、マスコミが浪花節根性の苦労出世譚にしてしまったのが、

何よりも苦々しい。

 

しかし、彼女もまたそこに乗ったのだから、決して美しいだけの人でもなかったろうし、

それは森茉莉も吉田健一も同じなのである。

京都アニメーション放火殺人事件の青葉被告の死刑判決が出ました。

 

その事件の日のことは忘れようにも忘れられません。

 

2019年は、4月にパリのノートルダム大聖堂の火事がありました。

愕然としながら、名建築は燃えるときも美しいなどと、慰めにもならない慰めを見いだそうとしてYouTubeのライブ動画を見ていました。

中世の木造の屋根が焼け落ちた悲嘆にくれながらも、薔薇窓やヴォールトは無事で、

心から安堵したのを覚えています。

 

それからわずか3か月後に京都アニメーションが放火されたという速報を、

授業に向かう電車の中で知り、震えが収まらなかったのを覚えています。

それは美しいなどと慰めようにも慰めようのない、陰惨なものでした。

36名が亡くなり、その中には、私が愛してやまなかったアニメ『氷菓』の、

武本康弘監督も含まれていました。

いまだに、武本監督の作品を観ると、その愉快さ、明るさにもかかわらず、

ふと涙を覚えます。

 

『氷菓』は、10年も前の作品にもかかわらず、いまだに鮮やかさを失っていません。

それだけ質の高い作品でした。

(もちろん他の作品も、そして犠牲となった他のアニメーターたちの仕事の素晴らしさは、

ここに書ききれるものではありません)

 

その犯行動機が京都アニメーションが自作をパクったという、ほとんど妄想じみた動機だったtことが、裁判が始まって分かってきました。

そんなくだらないことで、日本のアニメーションの一翼を担うアニメーターをこれほど失ったことがやるせなくてなりません。

 

何をどうパクったと主張しているのか、3か所だと言います。

 

1、水泳部を描いた『Free!』で、校舎に垂れ幕がかかる、という描写。

2、弓道部を描いた『ツルネ』で、2割引きの肉を買う場面が、ヒロインが5割引きの総菜を買う、という自分の設定のパクリ。

3、軽音部を描いた『けいおん』で、先生から留年をほのめかされる、という描写。

 

正直なところ、誰が見てもこれをパクリだと思える神経が理解できないわけです。

それらはオリジナリティの発生するような瞬間ではないからです。

垂れ幕がかかった校舎が出てくるアニメなら、それこそ『氷菓』にも出てきますし、

留年なら、『けいおん』でなくて『ガールズ&パンツァー』の副委員長でもいいわけです。

 

当然ながら、筋違いな恨みだということで、この主張は通らない。

 

しかし、私が気になるのは、よりによって、そんな普通の描写に彼がこだわったのか、

ということです。

なぜ、それを自分のオリジナルだと思い込んだのか、そこが気になります。

(千反田えるのようですね)

 

この3点は、2つに分類できます。

1は、「垂れ幕」という晴れがましい名誉をついに自分は得ることがなかったという、憧れの象徴です。

2と3は彼が抱いた劣等感やコンプレクスに直結する現実的な自分の投影です。

 

おそらく、金銭的に不自由することの多かったであろう被告は、割引の総菜を買う日常だったのでしょう。

(まあ、私もスーパーでは割引狙いで買っていますけど)

そのみじめさを主人公に投影し、その主人公が虚構の中でだけは活躍することで、

自分もまた救われていたのだろうと思います。

 

また、被告は家庭の問題が原因で、不登校になったりと

「留年」ではないものの、いわばアニメーションが描くような「バラ色の高校生活」ではなかったわけです。

「留年」という言葉は、自分にとって悲惨な現実をそのまま書くには忍びないため、

和らげた結果だと言えるでしょう。

 

ただ、高校は、定時制高校に通い、皆勤で生徒会長も務め、きわめて真面目であったというのですから、けっしてどん底のような生き方ではなかったらしい。

 

つまり、彼がこれらにこだわらなければならなかったというわけは、

自身の境遇を反映しているからに他なりません。

それゆえ、彼にとってみれば自分自身が汚されたように感じたのだろうと推察します。

とはいえ、私からすれば、定時制高校を舞台にしたドラマを作ったほうがオリジナリティのあるものになった気がするのですが、彼にとってみればそれはあまりに生々しかったのかもしれません。

 

しかし、彼の成長期が不幸なものであったからといって、

それが犯罪を行うことを肯定する理由にはなりえないことは一目瞭然です。

問題のある家庭に生まれ育った不幸を私は知りませんし、

私が同じ境遇に育ったとき、同じことをしなかったと、完全には否定できません。

 

私は、いつでも自分が一歩間違えば犯罪者になっただろうし、なりうるだろうと思っています。

しかし、犯罪者にはなっていませんし、なりたくもありません。

 

決して恵まれた家庭に生まれていない人もいることを知っています。

しかし、その人たちが全員犯罪者になるわけでもなく、

またその境遇ゆえに犯罪を許されているわけでもありません。

 

京アニはあまりに明るく、自分の半生はあまりに暗い、というようなことを述べていたようですが、私からすれば、それを作品にすればよかったのに、と思います。

 

                       * * *

 

そして、「オリジナル」とは何か、「パクリ」とは何か、という問題に私の頭は向かっていきます。

そもそも、アニメの設定や内容で、パクリといえるのはどういうときなのか。

たとえば、部活ものになったとき、たいてい、やることは決まっています。

 

選択肢は次のように始まります。

1、名門部

2、廃部寸前、やる気のない部活

3、新部設立

 

そすうると、いくつかの設定が生まれます。

A、かつては名門だった部活だが、今は廃部寸前となっている。

   →主人公は、かつての名門の復活を目指し、仲間とともに切磋琢磨していく。

B、廃部寸前の(やる気のない)部活

   →主人公は、やる気を起こさせ(あるいは誰かによってやる気が起き)、練習を重ね、

     名門(たいてい知り合いとなるライバルがいる)を試合で破る。

C、名門の危機

   →名門ゆえに規律の厳しい部活に、破天荒な(天才肌の)主人公が入部し、

     ぶつかりながら、問題を解決し、仲間になっていく。

 

まあ、いくらでも組み合わせで作れます。

その際、主人公のキャラクターは、たいてい高い能力をもっていることになりますが、必ず問題を抱えていることになります。

1、本来弱いが、仲間たちとともに強くなっていく

2、本来強いが、何らかの原因で自信を喪失している。

3、普段は能力を持たないが、何らかの条件を満たしたときだけ、強さを発揮する。

 

これらはいずれも、「AだがB」という型にはまります。

それは、能力的な内容にかぎらず、見た目でも反映されます。

その場合には、ギャップがそのキャラクターの魅力になるのです。

 

このようにしてみると、今書いた設定とキャラクターでは、「パクリ」といえるようなものは生じようがない。

なぜなら、物語の基本的な型だからです。

 

残るは、その設定やキャラクターへの肉付けの部分になってきます。

それは、特徴的な見た目や、特徴の取り合わせ方、

決めぜりふや口癖のようなものです。

たとえば、部活なら「戦車道」なるものはきわめて稀な部活です。

これは、もし『ガルパン』以外の作品で使えば、「ああ、パクッてるな」と思われるでしょう。

しかし、剣道や弓道であれば、これは一般に存在している部活がありますから、パクリとはならない。

 

『ツルネ』であれば、優れた選手だった主人公がスランプに陥り、それが高校の普通の弓道部に入って、部員たちによってスランプを抜け出していく話です。

弓道をあつかって『ツルネ』のパクリとならない、同じく部活ものを作ろうとすれば、

同じ設定、主人公の性格と成長を避けるべきだということになります。

新しい部活を作る、とか、まったくめちゃくちゃな技を繰り出すギャグ系にする、など。

 

あるいは、「~だっちゃ」と言えば、それはオマージュでないかぎり

『うる星やつら』のパクリだとみなされるでしょうが、そもそもこれも東北地方の方言ですから、

それをふまえていると、パクリとはいえなくなります。

複合的な組み合わせからパクリだと認定される、ようするにそれは程度と内容との結びつきの問題です。

マンガであれば構図やコマ割りのようなものまで含まれてくるでしょう。

 

いずれにせよ、物語というものは、多かれ少なかれ何か既存の作品と似ている部分や共通する部分は含まれています。

 

その作品を特徴づけるものが他の作品に流用されることで、不利益を被ることがある場合のみ、著作権侵害、つまりパクリが問題となるわけで、それはオリジナリティという「創作」の能力とは別の問題となってきます。

 

さて、長くなりましたが、京都アニメーションに対するやるせない思いが、

この文量を書かせました。

犠牲者に合掌しつつ、そして、今だ後遺症に苦しむ方と遺族の方に思いをいたしつつ、

文章を結びます。