大学の学生のレポートを読んでいると、しきりに音楽の「中毒性」という言葉が多く出てきて、首をかしげた。
「中毒性が高い」というのは、ネガティヴな言葉を用いた肯定表現である。
(「やばい」「えぐい」「えげつない」などと同類)
そうした口語表現を大学のレポートに用いること自体に疑問を感じる、ということは脇においておくとして、私が気になったのは、「中毒性が高い」ことをあたかも自明のことのように書いて、その理由も原因も何も記さない、ということである。
自分が好きなものは相手も好きで、自分が熱く語っていることは相手にも伝わっている、というかん違いは、ともすれば非常に傲慢な態度だともいえる。
この数年、そうした論理性がなく、説得力もなく、相手に理解を求めようともしていない、
感想文ですらないようなレポートが増えてきた。
しかし、あまり愚痴を書いても仕方がないので、あえて、ここで音楽の「中毒性」というものについて簡単に考えてみたい。
つまり、それだけ多くの学生が「中毒性」を音楽の評価基準に加えているのであれば、
それは一つの文化現象だともいえるのである。
まず、「中毒性」という言葉には、少なくとも2種類の考え方がある。
①「くり返し聞きたくなる」ということ、つまり、そればかり何度も聴いて、他の音楽や他のことに手がつかない、という状態である。
②「頭に残ってはなれない」ということ、つまり、何度も聴かなくても、頭の中で延々とループして消えない、という状態である。
レポートの書き手は、まずそのどちらの意味で用いているかを明確にしなければならない。
どちらも、などという煮え切らない態度はレポートではない。
もし、両者ともなら、それぞれの原因を書くべきなのである。
とりあえず、私自身の体験のうちから、この①,②にあてはまっていそうな例を考えてみたい。
少なくとも、②に関してはわりと思い当たる節がある。
先日、ベルリオーズの《幻想交響曲》を聴いたところ、
第4楽章の「断頭台への行進」が頭から離れず、数日間、延々と耳に残っていたのだ。
消したくても消えない、まさにイデー・フィクス(固定観念)のように
頭をぐるぐるとめぐるのである。
《幻想交響曲》の第4楽章は、1830年の初演でもアンコールで演奏されたというから、
「中毒性」を持っていた、ということもいえよう。
では、この「断頭台への行進」が頭に残る理由は何か、といえば、
それは短い単純なフレーズ(とリズム)と執拗な反復、そして、異質な響きにある。
「シ♭・シー♭・ド・レー」という一度聞けば覚えられる短い動機のみで、
この楽章が構成されていることで、私たちは否応なくそれを覚えている。
執拗な反復、というのはこの動機がずっと繰り返される、ということで、
やはり、私たちの記憶に訴えることになる。
そして、異質な響き、という点でいえば、ティンパニの6連符と、チェロ、コントラバスのピッツィカートという粗野な音のうえで、ホルンがゲシュトップ奏法でこの動機を吹く。
単に耳ざわりがよい音では印象に残らず、通り過ぎてしまう。
もちろん、軍楽隊のあまり上等ではない楽器の音を模した部分もあろうが、
この作品を聴いてきたなかで、とつぜん、こうした異質な響きが聞こえると、
人はそれを覚えるのである。
こうしたオーケストラの異質な響きによる印象づけは、マーラーの交響曲などにもよくみられる。
つまり、覚える仕組みがいくつか組み合わさっているのであり、
それゆえに、頭に残る、ということは言える。
この②の状態は、その音楽をずっと頭の中に置いておきたい、というよりは、
悪夢に近く、消したくても消えない、という状態である。
その点で、「中毒」という言葉の持つ本来の負の側面があらわれていると思うとよい。
もっとも、それと幸福感は紙一重ではあるのだが。
つぎに、①についてであるが、これはなかなか難しい。
まずそこには、その音楽を生みだす演奏者やアーティスト、歌手、アイドル、ボーカロイドに対する、偏愛的な関心があるからだ。
同じ作品でも、くり返し聞きたくなる演奏と、そうでない演奏がある。
それは、作品そのものに内在する要素ではなく、付加的な要素である。
おそらく、学生レポートのなかに頻出する「中毒性」は、作品そのものというよりも、
このアーティストに対する関心によるものであろう。
なぜそのアーティストに関心があるのかは、一口に言えるものではない。
顔やスタイル、ファッションといった見た目、声の質や歌唱力、ダンスや振付といったものに、「かっこいい」、「かわいい」、と言ったり、
デビューまでの苦労やオーディションなどを映す番組に感情移入しているというようなことが考えられる。
しかし、そうした偏愛と①の「中毒性」は少し異なるのではないかという気もする。
くり返し聴きたい、というのは、ある種の官能性と結びついているはずである。
つまり、そこに「快感」がともない、それを何度も繰り返したいという欲望である。
音楽の「快感」には、たとえば、発声に関することがあげられる。
のどをしめた細い声に切なさを覚えたり、力強く張りあげる声に気分が高揚したりすることがある。
前者は、嗚咽に似ているため、元気でないときには寄りそうような共感を見いだし、
逆に後者は、エールに似ているため、励まされるような、あるいはアーティスト自身が自分を鼓舞しているようにみえる。
そこに、②にあったような、短い単純なフレーズとくり返しをともなうことで、
聴く人の印象に残る、ということはありそうなことである。
もちろん、外見的な特徴やダンスのポーズと結びつくこともありえる。
その際には、動きのメリハリや、揃うタイミングというのが計算されているはずである。
ずれていたものが一致する瞬間があると、心地よさを覚える、その心地よさを何度でも反芻するために視聴することもあれば、それだけ見とれていればよい、ということもありうる。
また、ボーカロイドのような打ち込みによるものは、
機械的な強い音の反復によって、耳が麻痺していくということもある。
そして、激しいリズムと跳躍の多いメロディにめまいのような感覚を与える。
その麻痺やめまいの心地よさを「中毒性」と言いかえることもできるだろう。
あるいは、〈強風オールバック〉のようなものはどうなのだろう。
あれもまた、反復とその変化によって耳に残るというタイプのものである。
単純な反復にみえながら、映像に小さな差異をつけて反復していくことで、
視覚的な印象も強く残ることにあんる。
①にせよ、②にせよ、単純なフレーズの反復、そして耳につきやすい異質な音、
というのは少なくとも「中毒性」の条件であるように思う。
「中毒性」をもつ音楽、ということであれば、
せめてこのくらいは考えて、自分が言いたいのはどれにあたるのか、ということを言葉にしてくれなくては、レポートとはいえない。