◆人生のリタイヤメント・ビザはいるかい? | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。



<<復活のラテン系ヨーデリスト♪>>




天性のいかさまトランプ師であり


ギャンブラー。



過去にはボクサーやコックも


経験しています。







「潰(つぶ)しが効く職業ですか・・・。」







その彼が音楽に目覚めて

真剣に人生と向き合う様になりました。







「なかなかの問題人物でした・・・。」






至るバーやクラブでは

”バラバラ事件”を発生。



時間にもルーズで・・・。

バンド名も

”シャッフリング・ハンガリアンズ”


と名づけられました。






「それでニューオリンズの境界内で

演奏を止められたりしたのですネ!」








(「それでニューオリンズの境界内で
演奏を止められたりしたのですネ!」)







その調子ですから、

音楽もヒット街道をまっしぐら

と言うワケではなく、




ある意味”不器用(ぶきよう)”であり。




そしてある意味、


それが”彼自身の音楽に真剣に向き合った”



その結果だったと言えるかもしれません。






「数少ないヒットを出して、

その後、彼はどうしたのでしょうか?」








言うなれば、”引退に近い状態”だったそうです。





またカードの世界に戻ったり、

かつて彼のレコードを販売していた

レコード店のゴミの清掃員もしていたそうです。






「でも、そう言うケースは

過去にご紹介した

ブルーズ・マンたちにもありましたネ!」








(「70過ぎたらカムバック」:ミシシッピー・ジョンハート)





そうです。






「確かブルーズ研究家たちが

探し出して復活したのですネ!」






そうですね。


彼の場合は1971年の

ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・

フェスティバルに

出演したコトがキッカケになっています。






(ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・
フェスティバル)







「さぁ!テンションが上がって参りました!」^^



「いよいよ伝説の始まりです!!」









<<プロフェッサー・ロングヘア続く>>




今回ご紹介するブルーズ・マンは

引き続きプロフェッサー・ロングヘアです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
引き続きプロフェッサー・ロングヘアです。







「彼の演奏って本当に

ユニーク(個性的)ですよね。」






ラテン語混じりの

ルンバ・ロッキング・ピアノスタイルと

言われています。





「確かにしわがれている声とは

言われていますが、



いわゆるガサガサした感じではなく、

声のノビが非常~に滑らかで、

艶(つや)やかです。」






ヨーデル・ボーカルと

言われているそうですネ!






「なるほど。そう言われてみると

ラテン系ヨーデリストですか?」







これが彼の人生を通しての

音楽と接してきてきた

彼のカ・タ・チ・なのでしょう。







「ですから聞いていて。

”どうしようのない存在感”を感じるのは、



彼の奏(かな)でる音楽が

彼の”人生の根っこ”の部分に

つながっているからなのですネ!」









そうですね。



ライブが始まると

肌の色、性別、宗教、信条、思想は

関係ないと思われます。





「当時はまだ

人種差別の風潮が残っていたのですね。」







はい。

1970年代の南部ですから・・・。




ですが、舞台に彼を待つ観衆には

それはそうでも良いコトなのです。





「はい。」





彼らが待っていたのは

彼が齎(もたら)すであろう音楽です。





「はい。」





彼は演奏を始めて

鍵盤に向かって、


それこそ撃ち放っていたそうです。






(彼は・・・、それこそ撃ち放っていたそうです。)







「観衆の胸に向かって

”人生の引き金を弾いた”のですネ!」







そうです。



それと・・・。



音楽というのは、

視界に入る必要はありません。








「はい。」





耳にして、それこそ直感で判断して

それに従ってしまうのです。





「はい。」





どうやら、

彼のステージがそうだった様です。






「はい。」^^






彼に撃ち抜かれた観衆たちが

まるで*レミンクの群れの様に

集まってきたそうです。







(まるで*レミンクの群れの様に集まってきたそうです。)






*レミンクの群れとは?


「レミングは、かなり長い間

”集団自殺をする”と考えられていた。


実際には、集団移住を行っている際に

一部の個体が海に落ちて溺れ死ぬことはあるが、


これは自殺ではなく事故であり、

すべての個体が海で溺れ死ぬことはない。」









「それは、凄(すご)いです・・・。」







集まった観衆たちは

彼の音楽に酔いしれて

横ノリで揺れていたそうです。






「ラテン系ヨーデリストの放つ

カリビアン・フィールが観客たちを

魅了したのですネ!」





はい。


余りにも観衆を魅了し過ぎたのでしょう。





「はい。」





彼が演奏を終えるコロには

他の誰も演奏をしていなかったそうです。








「つまり・・・。」






他のステージの観衆も

彼のステージに集まって来て、



彼以外のパフォーマーは

皆演奏を止めてしまったそうなのです。







「それは・・・。凄(すご)スギます!!」







彼の音楽人生は

一見、波乱万丈ですが、


これ程までにユニークで

他では類をみない音楽を創りました。







「そして何よりも人々に愛されたのですネ!」








そうです。






彼の音楽・・・。



それは心休まる声かもしれません。




それは革新的な存在感を誇る

ピアノ・プレイかしれません。




そんな彼に遭遇するコトで、


時間を超えた”彼の生き様”的魅力を



共有するのかもしれませんネ!







この様な人生ってどうですか?






「いや~っ!感動しました!

じゅう~ぶんに魅力的な人生ではないでしょうか!!」








☆Professor Longhair
- They Call Me Dr. Professor Longhair ♪


☆Every Day I Have The Blues ♪

☆Professor Longhair, Bald Head ♪

☆Professor Longhair Big Chief ♪








☆プロフェッサー・ロングヘア
 PROFESSOR LONGHAIR



本名:ヘンリー・ローランド・バード

 (1918年12月19日 - 1980年1月30日)



ニューオーリンズを代表するブルース・ピアニスト。

本名はヘンリー・ローランド・バードといい、

フェスの愛称でも知られている。



ルイジアナ州ボガルーサ生まれ。

ルンバ、マンボ、カリプソを織り交ぜた

独特のピアノ・スタイルと



感情表現に富んだ個性的なヴォーカルで

独自の世界を作り上げている。



彼はまた「ロックンロール界のバッハ」

などとも呼ばれている。




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基本的に

ヘンリー・ローランド・バードの物語は


彼自身の音楽の世界を構築した

アーティストの物語だ。




そして、絶えず特徴的な

個人のスタイルを洗練して、

念入りに作り込まれていった。




彼は生涯の内で、

これまで主流とされる人気を取るには

あまりにも風変わりなトコロがあった、




しかし、最終的にニューオーリンズの

ピアノ・プレーヤーのための

決定的なスタンダードになるほど

個性的で印象深かったのだった。












< 略 歴 >




彼は半ば引退状態で、再びカード師に戻り、

かつて箱いっぱいの彼のコードを

さばいたレコード店のゴミ清掃員まで


やる羽目になっていた様に

長い職歴があるにも関わらず

落ちぶれていた。







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彼はまともなピアノを

持っていなかった。


それはニューオリンズ音楽を始める

以前にあったものだった。


そして、フェスティバルでは人気があった。





時代は人種主義と分離主義の風潮があり、

バンド・メンバーのRoy Byrdの席が

確保されていなかった。




クラブのスケジュールが

入っていなかったコトもあった。




引退から戻った彼は

チューレイン大学で働いて、

バーボン・ストリートで若干のギグを得た。


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しかし、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・

フェスティバルの企画に携わっていた

アリソン・マイナー、クイント・デイヴィスらが



彼を1971年のフェスティバルに出演させてから、

再び活動を活発化させていった。







その様な素晴らしい復帰をした

彼は後半の伝説に弾みをつけたコトを証明している。




それはラテン語が混じった

ルンバ・ロッキング・ピアノスタイルと

しわがれた声、


風変わりなヨーデル・ボーカルと

彼の故郷の音楽の鼓動の原動力となる



セカンド・ライン・のビートが

スパイスとして効いていた。









・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




フェスは出演して演奏を始めた。




そして共有地(会場)の中の観客は

皆ひとつである。




それが私のセオリーだ。





黒人または白人?、地元または市外か?

彼らは共有地の中でロングヘア音楽を持っている。



そうさ!マンボ・ルンバ・ブギのコトだ!!





彼は演奏し始めて、そして撃ち放っていた。




私はステージから振り返った。



そして誰もがレミングの群れの様に

そこに集まってきていたのさ!




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








彼は演奏に非常に魅力的な

カリビアン・フィールは

横ノリで揺れる観客でいっぱいにした。



そしてあらゆるクレッセント・シティーの

ピアノ弾きたちは裏返しに

学ばなくてはならなかった。




(Fats Domino, Huey Smith




(Fats Domino)






(Huey Smith)





そしてAllen Toussaintは





(Allen Toussaint)






しばしば、そして早々に

敬意を払われるコトだろう。)




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




彼は演奏を止めようとしなかった。


ー彼は他のグループが

もうひとつのコ-ナーから

彼のエリアに飛び込んで来させなかった。




彼が演奏を終えたとき、

フェスティバル会場で

演奏している者は、他に誰もいなかった。




彼らはギブアップしたのだった。


ーなぜなら、そこ(彼らのコーナー)には

観客のひとりもいなかったからだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




彼は人生の最後の10年で

多くのアルバムを製作した。


そしてAlligatorの Crawfish Fiesta

のために素晴らしいセットで

迎えられた。






70年代には彼はいくつかの名作を残しており、

PBS-テレビ・コンサート・シリーズの



サウンドステージでは Dr. John,




(Dr. John)





 Earl Kingそしてthe Metersらと共に

誇らしげに現れた。






(Earl King)






(the Meters)







またドキュメンタリー

「Piano Players Rarely Ever Play Together」





(「Piano Players Rarely Ever Play Together」)








(それには彼の葬儀の場面も撮(うつ)されていた。

彼は撮影中に亡くなったのだ。

この映像が彼への贈り物となった。)にも



アラン・トゥーサン、タッツ・ワシントン

とともに出演している。











1977年に彼のファンの一団が

地元の居酒屋を購入して

彼の代表曲のTipitinaからとって

再命名された。






(”Tipitina”)





彼は路上にいないトキは、

そこで定期的に演奏した。


それは隆々たる活動の名残りだ。








彼は1980年1月30日に、眠りについて

決して起きてくるコトはなかった。



夜の心臓発作は

ニューオリンズの有力な

R&Bスターのひとりをなだめたのだった。




しかし彼の曲は彼の故郷で

しばしば演奏されている。


そして彼がまだアナタの近くにいるコトを

宣言してそれに敬意を払うコトだろう。








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プロフェッサー・ロングヘアは

単に世界がこれまでに知っていた

最も魅惑的な音楽、


それは純粋なうれしさの点では

実質的に他に類を見ない音楽、


それらの一部を創った。





より多くの人たちが

その心休まる声と彼の革新的なピアノの

絶対的な力に遭遇して、



彼らはより深く、そして、より深く

彼の音楽の誘惑的な、



時間を超越した魅力に

必然的に引き入れられる。



なぜならアナタはかつて

プロフェッサー・ロングヘア道を

ランプとお祭り騒ぎから学んだからだ。



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没後ロックンロールの殿堂入りした。




彼の曲から名付けられた

「ティピティーナス」

(ファンが購入した居酒屋)は、



ニューオーリンズの有名なクラブ

になっている。




「ティピティーナス」でのライブ風景)






アルバート・ゴールドマンは1978年、

彼をティピティーナスでレコーディングしている。




(アルバム「Rum And Coke」)



              (ウィキペディアより抜粋)

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