1.次の文章を読み、以下の問に答えなさい。【 旧石器時代 ・ 縄文時代 】


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問1.地図中のA~Cは石鏃の材料となったある岩石の産地である。その岩石の名称とA~Cの地名とを答えよ。


問2 地図中のDは,装身具の原材料となった鉱石の産地である。その名称と地名を答えよ。


問3.次の短文あ~おは旧石器文化や縄文文化の重要な遺跡・遺物の説明である。それぞれの文の説明するこの地とはどこか,地名を答えよ。


あ.〝この地〟は明治初期に発掘された著名な泥炭遺跡であり,ここから出土した注口土器は,縄文晩期に東北地方を 中心に現われるすぐれた造形技術を持った土器を代表するものである。


い.〝この地〟は,1877年アメリカ人のエドワード=S=( ア )の手により,わが国最初の発掘調査が行われた場所であり,いわば日本考古学にとって記念すべき地である。発見の様子は,彼の著書『日本,その日その日』の中に述べられている。


う.人類は化石人類の研究により,( イ )・原人・旧人・新人の順に進化したことが知られる。現在までに日本列島で発見された更新世の化石人は,〝この地〟(静岡県)の人骨や,沖縄県( ウ )人などいずれも新人段階のものである。


え.1973年,〝この地〟の湖底から打製石器と( エ )の化石骨とが同一地層から発見され,約2万年前に人類と共存していたことがわかった。更新世末期の日本列島の状況を知る貴重な資料を提供してくれる遺跡である。


お.1931年,〝この地〟に病気療養のため滞在していた考古学者直良信夫は,海岸の粘土層中から人類の腰骨を発見し旧石器時代人としたが,太平洋戦争によって焼失してしまった。最近の研究では完新世のものとする意見が強い。


問4.問3の短文 あ ~ お の,下線部の〝この地〟は地図中のどこか。上の地図中の番号で答えよ。


問5.問3の短文中の空欄(ア)~(エ)に,適語を記入せよ。


問6.次の文章のうち、正しいものを一つ選べ。


A.氷期が終わり日本列島が形成された頃,わが国の植物相は広葉樹林から針葉樹林にかわってきた。


B.日本列島が形成された頃から,動物はシカ・イノシシ・ウサギなどの中小の動物が増えてきた。


C.縄文時代人の集団には統率者がおり,貧富の差や階級の区別がはっきりと見られる。


D.縄文土器は厚手で赤褐色のものが多い。



[ 解答 ]
問1.黒曜石
A.白滝
B.和田峠
C.姫島

問2.ひすい(硬玉)
姫川
問3.
あ.亀ヶ岡
い.大森
う.浜北
え.野尻湖
お.明石

問4.
あ.①
い.④
う.⑥
え.⑤
お.⑦

問5.
ア.モース
イ.猿人
ウ.港川
エ.ナウマンゾウ

問6.
A.× 針葉樹林から広葉樹林・照葉樹林にシフト
B.○
C.× 貧富の差ナシ
D.× 黒褐色



2.以下の文章を読み、あとの設問に答えよ。【 弥生時代 】


紀元前4世紀になると、九州北部地方には朝鮮半島からの渡来人によって水稲農耕が伝えられ、弥生文化が誕生する。こうして水田の開発が各地で始まるが、初期の水田は、〝a谷水田〟と呼ばれるごく小規模なものや、地下水位が高く排水不良のため生産性の低い ア が主体であったらしい。やがて本格的な灌漑施設をともなった イ の開発が進められ、生産性は次第に高まっていった。


 稲の品種は短粒米の ウ 種であり、寒冷地向けの品種改良や作付け技術の開発により、水稲農耕はほどなく東北地方にも伝わった。


 初期の耕作には エ 製の鍬や鋤が用いられたが、これらの農具の製作には手斧などの オ 製工具が用いられるようになった。また初期の収穫具としては カ が用いられ、穂首刈りがなされ、脱穀には硬い エ で作られた臼と竪 キ のセットが用いられた。


問1.空欄ア~キに適切な語句を記せ。


問2.佐賀県唐津市にある初期水田・集落遺跡の名称を記せ。


問3.〝a谷水田〟について、こうした条件の水田に足を踏み入れるための用具の名称を記せ。


問4.弥生時代の作付け法は、かつては籾の直播きばかりだと考えられてきたが、近年の発掘調査によって苗を用いていた可能性も高まってきた。その作付け法の名称を記せ。



[ 解答 ]

問1.

ア.湿田

イ.乾田

ウ.ジャポニカ

エ.木

オ.石

カ.石包丁

キ.杵

問2.菜畑遺跡

問3.田下駄

問4.田植え(岡山県の 百間川遺跡 から苗代を使って田植えをした形跡が発見されています)



3.次の文章を読み、空欄に適語を入れ、後の問に答えなさい。【 旧石器時代 ・ 縄文時代 ・ 弥生時代 】


 従来、日本の歴史は縄文時代から始まり、それ以前の文化は存在しないと考えられていた。しかし、戦後全国各地の ① 世の地層から遺物が発見され、〝a縄文時代に先行する文化の存在〟が明らかになった。この時期の化石人骨については、戦前兵庫県で発見された明石人は疑問視されたが、静岡県発掘の ② 人、全身骨が発見された沖縄の ③ 人はこの時代のものと確認されている。この時代の日本は、大陸と陸続きで、北からはヘラジカ、南からは ④ などが渡来しそれを追って人類が移り住んだと考えられる。


 それに続く〝b縄文文化〟は、世界史的には〝c(ア 旧石器文化 イ 中石器文化 ウ 新石器文化)〟に属し、 ⑤ 石器や漁労に使う ⑥ 器の使用、土器の製作などに特徴がある。当時西アジアや中国では農業や牧畜が始まり生産経済を基盤としていたが、ユーラシア大陸北方では、狩猟・採集の食料獲得経済を基盤としており、縄文文化は後者の形態に属すとされる。縄文時代は、気温の上昇から東日本には〝d( ア 落葉広葉樹林 イ 照葉樹林 ウ 針葉樹林 )〟が広がるなど植生の変化がみられ、イノシシやシカなどが増えた結果、狩猟具として ⑦ が発明された。また、縄文文化は、東日本において発達を遂げたが、もっとも精巧な土器を生んだのは〝e晩期の東北地方〟であった。


 一方、紀元前4世紀ころ西日本で始まった弥生文化は、全く新しい文明様式をもって東北地方にまで伝わり、日本の新時代を作っていく。弥生文化の特徴は、水稲農業・金属器・〝f弥生土器〟であった。縄文晩期に北九州で始まった水稲農業は、後期には本州北端にまで及び、奈良県〝g唐古遺跡〟や静岡県登呂遺跡などから多くの農具や水田跡が発見された。耕作には木鍬や木鋤が用いられ、収穫は ⑧ による穂首刈りが行われた。登呂遺跡の調査などから、収穫された米などは ⑨ や貯蔵穴に収納されたことが知られている。金属器のうち、〝g青銅器〟は祭器、宝器として用いられ、北九州を中心とした地域では ⑩ を祭祀に使う文化圏が形成されたと考えられる。また、貧富・階級差の発生から多様な墓制がみられるようになり、ドルメンとも呼ばれる朝鮮系の ⑪ や壌棺基、箱式石棺墓、土墳墓などがつくられた。なお、-部を除き弥生時代には、死者への恐れなどから行われたとされる縄文時代の ⑫ に代わり、伸展葬が一般的となった。


問1.〝a縄文時代に先行する文化の存在〟の発見の契機となった群馬県の遺跡の名を答えよ。


問2.〝b縄文文化〟におけるの成人への通過儀礼な何か。


問3.〝c(アイウ)〟の選択肢より、、最も適当なものを記号で選べ。


問4.〝d(アイウ)〟の選択肢より、最も適当なものを記号で選べ。


問5.〝e晩期の東北地方〟について、縄文晩期の精巧な土器で有名な遺跡名をあげよ。


問6.〝f弥生土器〟について、正しい説明を次より2つ選べ。


ア.無文や模様があっても幾何学文様などシンプルな土器である。
イ.貯蔵用の甕、盛り付け用の高坏(高杯)など用途別に使用された。
ウ.この土器の様式から、早期・前期・中期・後期・晩期の5期に区分される。
エ.東京の本郷弥生町の向ヶ岡遺跡で発見されたことが、名称の由来である。
オ.薄手で硬く、黒褐色の土器である。


問7.〝g唐古遺跡〟は、高い防衛機能を持った集落としても知られている。


a.このような集落を何というか。


b.同様の集落は佐賀県でも発見されている。最も有名な佐賀県の遺跡を答えよ。


c.佐賀県では、縄文晩期から水稲耕作が行われたとされる遺跡が知られている。その遺跡の名を答えよ。


問8.〝g青銅器〟の祭祀用の青銅器が、3種類全て、しかも大量に発見された島根県の遺跡を答えよ。



〔解答〕

①更新

②浜北

③港川

④オオツノジカ(ナウマンゾウ)

⑤磨製

⑥骨角

⑦弓矢

⑧石包丁

⑨高床倉庫

⑩銅矛(銅戈)

⑪支石墓

⑫屈葬

問1.岩宿遺跡

問2.抜歯

問3.ウ

問4.ア

問5.亀ヶ岡遺跡

問6.

ア.○

イ.甕は煮炊き用。貯蔵用は壺。

ウ.早期や晩期は縄文土器。弥生は前期・中期・後期。(近年早期の設定も)

エ.○

オ.赤褐色

問7.

a.環濠集落

b.吉野ヶ里遺跡

c.菜畑遺跡

問8.(神庭)荒神谷遺跡




4.次の写真・地図や文章を読み、以下の問に答えよ。【 弥生時代 ・ 古墳時代 】

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静岡県沼津市教育委員会は発掘調査を進める〝a「辻畑古墳」(同市東熊堂)〟が、〝b纒向遺跡〟に見られる古墳(奈良県桜井市)などと並ぶ日本最古級の古墳となる可能性が浮上したと発表した。


 出土した土器の ① について調査を指導する愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎調査課長が、形状などから西暦230年前後の製造と指摘し「古墳も同時期にあった」と主張。今秋に発掘を終える市教委は「副葬品などの詳細が分かった段階で識者の意見を集約して判断したい」との考えだ。


 ① は古墳回りの周濠の底近くから、割れた状態で出土した。ほぼ全部分あり、高さ20センチ。土器片は原形が容易に分かるほど大きく、1カ所でまとまって見つかった。赤塚課長は「何かの意図を持ち人為的に割られた。古墳完成後の祭事に使われたと推測でき、土器の製造と同じころに古墳があったと考えられる」と説明する。


辻畑古墳は国道1号沿いの住宅地にあり、市教委は昨年5月に本調査を開始。南北62メートルで、西側4分の1が道路で削り取られたため東西は35メートルとみられる。2つの四角形の墳丘のうち、北側の後方部が一回り大きく、高さ4.5メートルで墳頂の1メートル下に〝c副葬品〟を伴う〝d木棺跡〟があった。


 今月に入って鉄鏃(てつぞく)(鉄製の矢尻)や〝e銅鏡〟などの副葬品も見つかった。市文化財保護審議会委員の滝沢誠・静岡大人文学部教授(考古学)は「年代で形が変わる鉄鏃が重要」とした上で、似た形の鉄鏃が3世紀半ば~後半(225~300年)の築造とされる弘法山古墳(長野県松本市)で出土例があるため「辻畑の鉄鏃が3世紀の早い時期に造られていてもおかしくない。詳細な検証が必要だが『赤塚説』を裏付ける可能性はある」と話した。


 ■大塚初重・明治大名誉教授(考古学)の話…辻畑古墳では鏡を割って被葬者と埋める「破鏡」という風習が用いられたほか、出土した壺の中には軽石を含む材質の「大廓式土器」(写真2)に分類できるものがあった。ともに3世紀代の特徴で、古墳も同時期に築造されたといえる。問題はその中でいつになるか。土器の年代特定は識者間で判断が割れることもある。また〝f卑弥呼が生きていた西暦230年前後の時代に、古墳を造るだけの有力者がこの地にいたのか。〟古墳の築造年代は遺物全体や当時の日本の支配構造を踏まえ、結論を出すべきだ。 【〈2009/9/7〉静岡新聞より】


問1.a〝「辻畑古墳」(同市東熊堂)〟について、この古墳の形状は、何と呼ばれるものか。写真1を参考にして記せ。


問2.b〝纒向遺跡〟について、この遺跡に含まれ一説には卑弥呼の墓とも言われる全長276mの前期古墳の中では最大の規模をもつ古墳名を記せ。


問3.以下の写真3は、空欄①に該当する土器の一部である。空欄①に該当する食物を盛りるための弥生土器は何か、記せ。


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問4.c〝副葬品〟について、古墳時代中期の副葬品の特徴(1)と、そこから分かる被葬者の特徴(2)を記せ。


問5.d〝木棺跡〟ついて、この木棺は竪穴式石室に納められたと推測されるが、横穴式石室を示した下のイラスト1のうち〔※〕の部分を何と呼ぶか、記せ。


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問6.e〝銅鏡〟について、魏鏡とも国産鏡とも言われる邪馬台国論争の重要資料となっている副葬鏡は何と呼ばれるか、漢字6文字で記せ。


問7.f以下の文章について、この古墳は、卑弥呼の生きた時代と符合することから、卑弥呼と対立した邪馬台国南部の国の首長との関わり合いも論議されている。卑弥呼が対立したその国の名前を記せ。


問8.問7に関連して、邪馬台国は北部の伊都国に地方統治機関と思われるものを常駐させ諸国を検察しようとしたと伝えられるが、その名称を記せ。


問9.この古墳からは、現在までのところ、埴輪の出土は確認されていない。もしも、埴輪が出土するとしたら、この古墳の築造年代からどのような形状の埴輪が出土することが予想されるか、記せ。


問10.この新聞記事は、古墳が卑弥呼の生きた3世紀のものである可能性を報じているが、その根拠を新聞記事から読みとり、簡潔に説明せよ。



[ 解答 ]
問1.前方後方墳

問2.箸墓古墳

問3.高杯

問4.(1)武具や馬具(2)武人的性格

問5.羨道

問6.三角縁神獣鏡

問7.狗奴国

問8.一大率

問9.円筒埴輪

問10.他の3世紀代と推定されている遺跡から出土したものと同種の鉄族が辻畑古墳からも出土していること。(3世紀代に多く作られたとされる大廓式土器に分類できる壺が辻畑古墳から出土していること。)



5.以下の史料を読み、後の問に答えよ。【 小国分立 ・ 古墳時代 】


A 建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。 ① 、賜ふに〝a印綬〟を以てす。


B 〝b安帝の永初元年〟、倭の国王帥升等、② 百六十人を献じ請見を願ふ。


C 夫れ ③ 海中に倭人有り、分れて百余国と為る。 歳時を以て来り献見すと云ふ。


D 倭人は ④ の東南大海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。もと百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所、三十国。


E 順帝の昇明二年、〝c使を遣わして〟表を上る。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国...


問1.Aの史料について、 ① にあてはまる語を入れよ。


問2.〝a印綬〟について、この印綬に刻印されていた5文字を記せ。


問3.問2に関連して、この印綬は江戸時代中期に出土しているが、その出土した場所と島はどこか、また現在の何県にあたるか、記せ。


問4.Bの史料について、 ② には奴隷の意味の語が入るが、それは何か。


問5.〝b安帝の永初元年〟について、これは西暦何年のことか、記せ。


問6.Cの史料について、 ③ にあてはまる語を入れよ。


問7.Dの史料について、 ④ にあてはまる語を入れよ。


問8.Dの史料は、『魏志』倭人伝であるが卑弥呼が魏に大夫難升米を派遣した景初2年(景初3年の誤りか)は西暦何年のことか。


問9.問8に関連して、邪馬台国では、庶民である下戸に対し、支配者層は何と 呼ばれたか、記せ。


問10.問8に関連して、『魏志』倭人伝には、日本の古代国家の政治・社会状態も詳しく記しているが、その中にある鹿の骨を焼いて吉凶を占う行為は、その後も行われている。これを何と言うか、記せ。


問11 問8に関連して、その頃、朝鮮半島では馬韓・辰韓などの小国家群が成立していたが、4世紀中頃に辰韓を統一して生まれた国を記せ。


問12 〝c使を遣わし〟た日本の王は誰か。中国では漢字1字で表記されている。それを記せ。


問13 問12に関連して、この王の日本名は埼玉県で発見された鉄剣銘にも見られる。この鉄剣が出土した古墳名を記せ。 


問14 問12に関連して、この上表文の以前に日本が高句麗と抗戦した記録がある。それは金石文であるが、その名称を記せ。


問15 史料A、B、C、D、Eを時代順に並びかえよ。



[ 解答 ]

問1.光武

問2.漢委奴国王

問3.志賀島  福岡県

問4.生口

問5.107年

問6.楽浪
問7.帯方

問8.239年

問9.大人

問10.太占

問11.新羅

問12.武
問13.稲荷山古墳

問14.高句麗好太王碑

問15.CABDE

C『漢書』地理志 … 紀元前1世紀の様子

A『後漢書』東夷伝 … 57年、金印をもらった奴国王

B『後漢書』東夷伝 … 107年、倭国王帥升、生口160人献上

D『魏志』倭人伝 … 239年、銅鏡100枚もらった卑弥呼

E『宋書』倭国伝 … 478年、宋に朝貢し安東大将軍に任じられた雄略天皇( 武 )



6.以下の文章を読んで後の問に答えよ。【 飛鳥時代 】


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 蘇我氏ほど、人々に悪玉として定着している氏族はいないであろう。子ども向けの歴史マンガでも常に、悪役として描かれ、蘇我氏を打倒する中大兄皇子や中臣鎌足は、新しい政治を日本にうち立てようと燃えた正義のヒーローのように描かれているのだ。
 果たして、蘇我氏は、大悪党であったのであろうか。蘇我氏は実に謎の多い氏族である。奈良時代に成立した歴史書『古事記』や『日本書紀』(以下『記・紀』とする)は、蘇我氏を第8代孝元天皇〔在位 前214年- 前158年〕〔生没 前273年- 前158年(115歳)〕の孫、武内宿禰(示爾)であるとしている。武内宿禰は、今では若い人には知られていないが、戦前は誰もが知る有名な政治家で12代の景行天皇から16代の〝a仁徳天皇〟までの5代の天皇に大臣として240年間仕え360歳で死んだとも伝えられる長寿の人である。謀叛の疑いをかけられたこともあったが、 ① で無罪を証明したというエピソードも伝えられている。
 しかし、武内宿禰は、当然ながら架空の人物であり、存在を示すものはない。蘇我氏の血筋で、その存在が確実視されるのは仏教が伝来する ② 天皇の時に大臣であった蘇我稲目からである。当時、〝b大連〟であった ③ が伽耶西部の支配権を〝c百済〟に譲ったことから国内外に不安を招いたとして失脚したのを機会に蘇我氏は、物部氏とともに政界の中心に躍り出るが、〝d九州で発生した反乱〟を鎮圧したことで頭角を現した物部氏と異なり、〝eそれまで蘇我氏の実績〟は見られず、なぜ台頭したのかが大きな謎となっている。
また、蘇我氏“発生”の謎と並ぶ2つ目の大きな謎は、なぜ彼が多くの豪族が反対する中、ただ一人、仏教を推進する立場に固執したか、ということである。伝来当時、大王家も仏教の受容については判断を決めかねており、“試しに”蘇我氏に仏像を祭らせ、その効能を見定めようとしているエピソードは『記・紀』に散見される。
 こうした謎に様々な仮説が立てられたが、古くから唱えられているのが「蘇我氏渡来人説」である。蘇我氏の祖先とされる武内宿禰が仕えた天皇の中に15代 ④ 天皇がいる。この大王の時に〝fたくさんの渡来人〟が日本に来たと伝えられているのだ。朝鮮半島の出自であれば積極的に仏教を受容しようとした姿勢も頷ける。また上の系図を見て分かるように、「韓子」や「高麗」のように、朝鮮を安易に想像しやすい名前が付けられていることも、根強い「蘇我氏渡来人説」の源になっている。
 このよう考えると、蘇我氏は朝鮮半島のパイプをいかし、それを背景にヤマト政権内で権力を誇った氏族のようにも思われる。そして、やがて〝gそれを打倒〟した中大兄皇子や中臣鎌足は、朝鮮半島との繋がりよりも、唐との繋がりを重視し、唐のような律令国家を目指すべく、元来の朝鮮との繋がりに固執する蘇我氏を排除して、新しい国づくりを目指したようにも思えるのである。つまり日本を舞台にした朝鮮派と中国派の対立と見ることができるのではないだろうか。
しかし、蘇我氏は稲目の時代から滅ぼされる入鹿の時代まで一貫して、「朝鮮派」であったのであろうか。その時、やはり蘇我馬子の業績に目を向けて検討すべきであろう。蘇我馬子の存在は大きく、敏達・用明・ ⑤ ・推古の4代の天皇に仕えた。こうした事実から、5代の天皇に仕えた蘇我氏の祖先とされる武内宿禰のモデルこそ、馬子であると唱える説もある。そのくらい蘇我馬子は古代においてはビッグネームなのである。彼の業績はそのまま〝h聖徳太子〟の業績と考えて良い。すなわち、603年の冠位十二階、604年の憲法十七条、そして何より、607年遣隋使の派遣である。この時、日本はそれまでの外交姿勢を大きく覆す態度で中国に臨んだ。その外交姿勢は ⑥ と称される。当時の隋の皇帝 ⑦ はひどく不機嫌になったが、翌年には答礼使として ⑧ を派遣してくれている。こうした姿勢は、朝鮮にどう映っただろうか。明らかに当時の東アジアにおける国家間の秩序を乱す行為と映ったに違いない。こうしたことから、聖徳太子と共に行った蘇我氏の外交は、決して朝鮮との繋がりばかりに配慮したものではなく、いわば“自主外交”とも言える独立した姿勢を打ち出したのではないだろうか。このような政治手法で、③ が失脚して以降、国内外共に不安定であったヤマト政権を建て直し、巨大な陵墓を築いた15代 ④ 天皇や16代仁徳天皇の頃の様な強いリーダーシップを取れる王権を再度うち立てたのは紛れもない蘇我氏なのである。このように考えると、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子や中臣鎌足は、ほんとうに政治改革をすることが目的だったのかという疑問が生じる。真のねらいは何であったのかということに興味がわくのである。
 蘇我氏を滅ぼした後の中大兄皇子と中臣鎌足の行動を追ってみよう。中大兄皇子は、自らの母 ⑨ 天皇に代わり、叔父であった ⑩ 天皇のもと皇太子として政権を握るが遷都した ⑪ 宮で〝i「改新の詔」〟を発した以外に、改革らしい改革は行っていない。
やったことと言えば、右大臣蘇我倉山田石川麻呂を謀叛の罪で自害に追い込み、不和になった ⑩ 天皇を ⑪ 宮に置き去りにし群臣を引き連れて飛鳥へ帰り、やがて ⑩ 天皇が死去すると、再び母に ⑫ 天皇として ⑬ (一度退位した天皇が再び即位すること)してもらい、権勢をふるうと、⑩ 天皇の子である有間皇子を絞首刑にしている。こうして政敵を抹殺して、政治改革を行うのかと言えば、新羅により滅ぼされた日本の友好国である百済を復興するため、〝j唐・新羅連合軍を敵に回す無謀な戦い〟に挑み大敗を喫して、再び遷都を行い都を ⑭ 宮に移して天智天皇となるが、〝kその政局〟は混迷を極めていくのである。このようにして見ると、改新政府をうち立てたはずの中大兄皇子と中臣鎌足らが、半島の情勢に右往左往し、半島における権益に固執するあまり、国内政治に破綻をきたしているように見えるではないか。
 果たして、蘇我氏は国家を破滅に導く、私利私欲にまみれた悪徳政治家であったのか。残念ながら『記・紀』以外に語る史料は乏しく、研究も進まない現状がある。しかし、中大兄皇子と中臣鎌足が行った政治が国内を安定に導いたかと言えば、決してそうは言えない事実も『記・紀』は伝えている。歴史の事実には必ず真実があり、真実は1つであるが、それをどう評価するか、どのような立ち位置から眺めるかにより、過去の出来事はまるで万華鏡のように様々な模様を我々に投げかける。それが歴史の面白みである。


問1.空欄①~⑭に適語を入れよ。

(空欄①には真偽を確かめるために行われた古代の神判を示す名称が入る)
(空欄⑥には607年の遣隋使が示した外交姿勢が入る)


問2.〝a仁徳天皇〟について、仁徳天皇陵に否定されている古墳は百舌鳥古墳群で最大規模を誇り、全長480mは世界最大級の墳墓である。その古墳の名称を記せ。


問3.〝b大連〟について、この大連がかつて越前から擁立した天皇は誰か。記せ。


問4.〝c百済〟について、半島南部を譲ったことで、百済から日本に派遣された儒教を伝える学者集団を何と呼ぶか、記せ。


問5.〝d九州で発生した反乱〟について、527年に九州で発生した乱の名称を記せ。


問6.〝eそれまで蘇我氏の実績〟について、蘇我氏台頭のきっかけとして、彼が皇室財産などを管理する立場として力を発揮したことが伝えられているが、三蔵と総称されるその倉を全てあげよ。


問7.〝fたくさんの渡来人〟について、日本に『論語』を伝え、のちに西文氏として日本に帰化した渡来人の名を記せ。


問8.問7に関連して、この時期の日本には様々な技術が伝来したが、特定の職能で奉仕した技術者集団である品部のうち、鉄の生産に関わる部は何と呼ばれたか、記せ。


問9.〝gそれを打倒〟した事件について、この事件を何と呼ぶか。


問10.〝h聖徳太子〟について、近年「聖徳太子」と表記せず、当時呼ばれていた別の呼称で記されることが多くなっている。その呼称を記せ。


問11.〝i「改新の詔」〟に関連して、以下の史料の空欄に適語を入れよ。

その一に曰く。むかしの天皇等の立てたまえる ア の民,ところどころの イ ,および別には 臣・連・伴造・国造・村首のたもてる ウ の民,ところどころの エ をやめよ (下略)。
その二に曰く。はじめて京師をおさめ,畿内・国の司・郡司・関塞・斥候・防人・ 駅馬・伝馬を置き,鈴契を造り,山河を定めよ。(下略)
その三に曰く。はじめて戸籍・計帳・ オ の法を造れ。(下略)
その四に曰く。旧の賦役をやめて田の調をおこなえ。(下略)


問12.問11に関連し史料中の地方行政区画名「郡」は、この詔が出された当初は、別の文字が使われていた。その文字を記せ。


問13.〝j唐・新羅連合軍を敵に回す無謀な戦い〟について、この戦いの年代を西暦で答えよ。


問14.問13に関連して、この敗戦後、九州に築かれた全長1kmの堤や濠を備えた施設を何と呼ぶか。


問15.〝kその政局〟について、天智天皇が670年に作成を命じた初の全国的な戸籍を何と呼ぶか。記せ。



[ 解答 ]

問1.

①盟神探湯

②欽明

③大伴金村

④応神

⑤崇峻

⑥対等外交

⑦煬帝

⑧裴世清

⑨皇極

⑩孝徳

⑪難波(長柄豊碕)

⑫斉明

⑬重祚

⑭近江大津

問2.大仙陵古墳

問3.継体天皇

問4.五経博士

問5.磐井の乱

問6.斎蔵・内蔵・大蔵

問7.王仁

問8.韓鍛冶部

問9.乙巳の変

問10.厩戸王

問11.

ア.子代

イ.屯倉

ウ.部曲

エ.田荘

オ.班田収授

問12.評

問13.663

問14.水城

問15.庚午年籍



7.次の史料を読み、空欄に適語を入れ、設問に答えよ。(史料文は読みやすくする為一部修正してある)【 旧石器時代 ・ 縄文時代 ・ 小国分立 ・ 古墳時代 ・ 飛鳥時代 】


A.倭人は ① の東南大海の中に在り、山鳥に依りて国邑を為す。~中略~ 今、使訳を通ずる所三十国。~中略~ 其の国、本亦男子を以て王と為す。住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち一女子を立てて王と為す。名を ② と日ふ。 ③ を事とし、能く衆を惑はす。景初二年六月、倭の女王、 ④ 難升米を遣し郡に詣り天子に詣りて〝a朝献〟せんことを求む。


B.夫れ ⑤ 海中に倭人有り、分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。


C.百残・新羅は旧これ属民にして、由来朝貢す。而るに倭は〝b辛卯の年〟を以て来たりて海を渡り、□□□羅、以て属民と為す。~中略~ 六年丙申を以て、〝c王〟自ら水軍を率ゐ、残国を討科す。

D.興死して弟〝d武〟立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称す。〝e順帝の昇明二年〟、使いを遣はして表を上りて日はく、「封国は偏遠にして一藩を外に作す。~中略~ 」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王に除す。


E.〝f建武中元二年〟、倭の ⑥ 国、貢ぎを奉じて朝賀す。使人自ら ④ と称す。倭国の極南海なり。 ⑦ 賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の国王 ⑧ 等、〝g生口〟百六十人を献じ、請見を願う。


F.私はほぼ三ヶ月ぶりに笠懸村の〝h赤土〟の崖へ向かってペダルをふんでいた。~中略~赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。~中略~じつにみごとというほかない。〝i黒曜石〟の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。


G.横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、〝j私〟は即座にこれを本当の〝k貝墟〟であると知った。 ~出典「日本その日その日」


H.其の一の日く、「昔在、天皇等の立てたまへる子代の民、処々の ⑨ 、及び、別には臣・ ~中略~ 国造・村首の所有る ⑩ の民、処々の田荘を罷めよ。よりて ⑪ を ④ より以上に賜ふ」
 其の二日く、「初めて京師を修め、畿内・国司・〝m郡司〟・関塞・斥候 ~中略~伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。」
 
問1.〝a朝献〟により女王はどのような称号を得たか。漢字4字で答えよ。


問2.〝b辛卯の年〟の西暦年で答えよ。


問3.〝c王〟の名を答えよ。


問4.〝d武〟は何天皇か。


問5.〝e順帝の昇明二年〟を、西暦年で答えよ。


問6.〝f建武中元二年〟を西暦年で答えよ。


問7.〝g生口〟とは何か。


問8.〝h赤土〟は一般に何と呼ばれているか。~層と答えよ。


問9.〝i黒曜石〟の産地として、本州で最も有名な地名を答えよ。


問10.〝j私〟とは誰か。


問11.この時発見された〝k貝墟〟は、のちに調査され何とよばれたか。


問12.史料Cについて、この時期、倭は先進文化以外に何を求めて朝鮮に進出したのか。


問13.史料Hの文章中の〝m郡司〟の表記には疑問が持たれている。当時の表記では、郡ではなく何とされるべきか。漢字1字で答えよ。


問14.史料A~Hに書き記された時代について、年代の古い順に並び替えよ。



〔解答〕

①帯方

②卑弥呼

③鬼道

④大夫

⑤楽浪

⑥奴

⑦光武

⑧帥升

⑨屯倉

⑩部曲

⑪食封

問1.親魏倭王

問2.391年

問3.好太王
問4.雄略天皇
問5.478年
問6.57年
問7.奴隷
問8.関東ローム層
問9.和田峠
問10.モース
問11.大森貝塚

問12.鉄

問13.評

問14.FGBEACDH



8.以下の空欄に適語を入れ、後の設問に答えよ。【 飛鳥文化 ・ 白鳳文化 】


 6世紀に百済の ① 王から、わが国に〝a伝えられた仏教〟は,朝廷の保護をうけて急速に発展した。自らこの教えに深い理解を示した〝b聖徳太子〟の時代になり,最初の仏教文化が飛鳥の地に花開いた。諸豪族はその権威を表すため,競って〝c氏寺〝を建立し,権威を示した。


飛鳥時代の仏教文化は,中国南北朝を通じて西アジア・ギリシアの文化ともつながりをもっていた。このことはギリシア古代建築の ② の技法を取り入れた法隆寺の円柱,ペルシアや東ローマの影響をうけた ③ 文様をもつ多くの建築物や〝d工芸品〟,胴部にペルシアのペガサスを線刻し,中国風の竜の口をもつ竜首水瓶などからも知ることができる。


推古朝期の新文化の指導にあたったのは〝e外来系〟の人々であった。この時期には寺院 の建築とともに,多くの仏像も造られた。その代表作の一つである〝f法隆寺〟金堂 ④ 像は,渡来人司馬達等の孫である ⑤ の作といわれ,〝g北魏の技法〟を伝えている。また多くの僧侶も渡来してきたが,太子の師である高句麗僧恵慈や,紙・基・絵の具を伝えた僧 ⑥ ,あるいは百済僧 ⑦ らが著名である。 ⑦ は602年わが国に天文・暦法・地理などを伝え,これにより年月の経過が記録されることとなった。太子が馬子とともに編纂したとされる『 ⑧ 』・『国記』などは,このことを抜きにしては考えられない。

7世紀後半から8世紀初頭にかけての,貴族を中心とした文化を ⑨ 文化という。律令国家が形成される時代の動きを反映して,初唐の影響をうけた清新な文化が生まれた。天武天皇は,皇室の祖先神をまつる伊勢神宮をはじめとした神社の祭りを重んじる一方で,仏教を厚く信仰し,のちに大安寺とよばれる ⑩ 寺や皇后の病気平癒祈願のための ⑪ 寺などの大寺院を建立した。この時代には,唐との交渉によって中国文化の直接の流入の道が開けたので,美術にも初唐の影響がみられる。 ⑪ 寺金堂の ⑫ 像,同東院堂の ⑬ 像,さらには山田寺の本尊だったといわれる ⑭ 寺仏頭などが代表的な作品で,人間的な若々しさに溢れている。


 絵画の分野では,1949年に焼損した法隆寺金堂壁画にはインドの ⑮ 壁画の影響がみられるし,1972年に発見されて大きな話題となった〝i ⑯ 古墳壁画〟などの優れた作品が残されている。建築では,⑪ 寺東塔がもっともよく ⑨ 様式を伝えているといわれる。これは ⑰ という飾りの屋根をもった三重塔で,その均整美は「凍れる音楽」とまで表現されている。


 天智朝以後になると,百済から渡来してきた人々の影響もあって,宮廷では漢詩をつくることが盛んに行われた。さらに和歌もこれをうけて詩型が完成し,天智・天武両天皇に愛された ⑱ のような女流歌人や,スケールの大きな歌を詠んだ宮廷歌人である柿本人麻呂などがあらわれて多くの優れた作品を残している。


問a 日本への仏教伝来には538年説と552年説があるが、538年説の根拠となる史料は 『元興寺縁起』ともう一つは何か、記せ。


問b 厩戸王が(i)著したと伝えられる経典の注釈書の総称は何か、記せ。(ii)その経典のうち、厩戸王の自筆と伝えられるものは何か、記せ。

問c 聖徳太子の発願によるといわれる四天王寺の伽藍配置は,下の図中のどれか,記号で答えよ。


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問d 飛鳥建築をしのばせ,須弥座にすぐれた絵画をもつ法隆寺の工芸品は何か。


問e 太子から賜った仏像を安置するため現在の京都市内に秦河勝が建立した寺院は何か。


問f 法隆寺の伽藍配置は,上の図中のどれか,記号で答えよ。


問g 北魏様式を伝える仏像を,以下の写真から1つ選び,サ~スの記号で答えよ。


tanyのブログ-SN3J0378.jpg


問h 問gに関連して、上の図のサ~シに適語を記入せよ。


問i この壁画には四神も描かれていたが、同様に四神の図をもつ壁画がこの古墳の南方でも発見されている。精緻な天文図も描かれたこの終末期の古墳の名称を記せ。


[ 解答 ]

①聖明

②エンタシス

③忍冬唐草

④釈迦三尊

⑤鞍作鳥

⑥曇徴

⑦観勒

⑧天皇記

⑨白鳳

⑩大官大

⑪薬師

⑫薬師三尊

⑬聖観音

⑭興福

⑮アジャンター

⑯高松塚

⑰裳階

⑱額田王

a上宮聖徳法王帝説

b

(i)三経義疏

(ii)法華経

cイ

d玉虫厨子

e広隆寺

fウ

gス

h

サ.百済観音

シ.半跏思惟(弥勒菩薩)

ス.救世観音

iキトラ古墳


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