想像の市岡新田会所(1) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

大阪市港区「市岡」を新田の町として
捉え直そうとすれば、どうしても
「新田会所」の建造物・施設を明らかにしなければなりません。

ところが、市岡には
鴻池や加賀屋などのように保存されていません。
今日の顕彰碑の建つ場所についても
多少のズレを感じます。

 

そもそも「新田会所」とは何でしょう。
「会所」を*『広辞苑』で調べますと
③に次の記述があります。
   *『広辞苑』:新村出編2008年『広辞苑第六版』岩波書店
◇江戸時代、商業・行政などの事務をとるための集会所。

*ウィキペディアの「新田」を検索して「畿内」の項に
「会所」について記す一文があります。
   *ウィキペディアの「新田」:ja.wikipedia.org/wiki/新田

            最終更新 2015年12月24日 (木) 11:51             

◇これら新田には「会所」(かいしょ/かいじょ)と呼ばれる
 管理事務所があり、
 小作人からの年貢米徴収・貯蔵や、
 新田の堤防・水路などの維持管理業務、
 役人への応対などを行っていた。

 

たしかに市岡にも「新田会所」が存在しました。
顕彰碑は大阪環状線高架の
東西に亘る波除公園の西側(港区波除5-12)の北端にあります。
写真図 市岡新田会所跡碑のある波除公園
    2016年4月3日撮影

通路左手、中央に碑が見えます。

 

*『波除山とその歴史的風景』に記述があり、引用します。
 *『波除山とその歴史的風景』:
   北田功、1983年『波除山とその歴史的風景』
◇建碑 表 市岡新田会所跡/裏 昭和四十六年四月 大阪市
 横 元禄年間市岡与左衛門によって開発され、
 寛延(原文「寛定」)二年(一七四九)以後辰巳屋によって増墾された
 大阪沿岸新田中最大のものである。

 

この建碑されている場所が問題なのです。
建碑の事情については
*『大阪市内における建碑』に若干触れています。
 *『大阪市内における建碑』:
   川端直正編、1960年『大阪市内における建碑』大阪市行政局

◇8 波除山・市岡会所跡 港区魁町五丁目付近(上略)
  波除山・市岡会所跡とも付近一帯が
 目下埋立工事中で、
 大いにその地形と様相を変じているので、
 建碑してその跡の位置を示す要があるものである。

 

「港区魁町五丁目付近」は
昭和30(1955)年の地図では
大阪環状線予定地の西「八雲町」の次の町で
安治川左岸の南安治川通の南に見えます。
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http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2462786-o.html
  「最新大阪市街地図」、昭和30年
   和楽路屋編集部  国際日本文化研究センター所蔵

 

注目すべきは冊子『大阪市内における建碑』が発行されたのが
昭和35(1960)年で
実際に建碑されたのは昭和46(1971)年です。
この間はまさに「埋立工事中」でした。
ボクが市岡高校に在学していたのが
昭和40(1965)年から昭和43(1968)年ですが、
学校の周辺には、
まだ嵩上げ工事の盛土が積まれている場所もありました。

更地となった公園に顕彰碑が建てられたのです。
その場所は、民有地ではなく公園です。
その公園の北の方です。

実際の会所の場所に近づけようとしたと考えますと、
実際の場所は、建碑の場所よりも北方でなかったと
当時の記録と古地図で照らして推測しています。

次回、試みます。

 

究会代表 田野 登