田蓑の島の「かざめ」なる蟹(6) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「蟹胥」という食物は
幕末の浪花の名物にも載る品物であったようです。
*天保改正『国花万葉記』の「浪花名物寄」に
記載されています。
*天保改正『国花万葉記』:
天保6年版『国花万葉記』巻第5之3
一名『摂州名所難波丸』

 

そこには
「蟹胥 まへだれしま」と見えます。
「田蓑の島」を調べていて「まへだれしま」とは?
天保改正『国花万葉記』のこの情報は、
すでに『五畿内志』(*『摂津志』)にも見えます。
*『摂津志』:『覆刻 日本古典全集 五畿内志下』1978年、現代思潮社
                  『日本輿地通志 畿内部摂津国』
                 享保乙卯冬新鐫 浪華書舗文海堂寿桜

 

「享保乙卯」は 享保20(1735)年のことです。
『摂津志』《西成郡【土産】製造》の記事は次のとおりです。

◇蟹胥(カニヒシコ)
《半角割注:前垂島

               元慶三年正月勅摂津国蟹胥莫以為贄奉膳》

 

天保改正『国花万葉記』の「まへだれしま」は

「前垂島」です。

 

ところで、

歌枕「田蓑の島」の「かざめ」の詠まれた「津守国基集」の歌は
次のとおりでした。
◇五月雨にたみののしまのあま人の
 かづくかざめは君がためなり

 

「かざめ」は「田蓑の島」の海人が潜ってかどうか知りませんが
獲ってきた蟹でした。
そうとなれば「田蓑の島」は、もしかしたら
「前垂島」でしょうか?

 

『摂津志』と、ほぼ同時代に記された大阪の地誌である
*『摂陽群談』にも「前垂島」の記事が
「巻第五島の部」に見えます。
◇前垂(マヘダレ)島:
 西成郡道頓堀の川下にあり。
 下女・端女等の腰布を、世に前垂と云。
 此所、川尻にして海に近し、
 南北に横て、潮水の溢を防。

 因て前垂布に譬之。

 

「前垂島」は木津川左岸(東岸)に沿って
まるで防潮堤のような南北に延びた島だったのでしょう。

「前垂島蟹胥」の記事は『摂陽群談』にもあります。
 「巻第十六 名物土産の部」から拾います。
◇前垂島蟹胥/同郡大坂道頓堀の西にあり。
 前垂島は、今の地名也。
 此島辺の蟹、蟹穴を出て水に遊ぶ。
 漁者蘆の葉に陰て伺時、竹箒を以つて、
 数百の穴を掃塞で捕之、即浸盬鯷(ヒシコ)とす。
 多く百姓の家に求て、田植の時菜物とす。

 

かなり捕獲方法も具体的です。
ズワイガニ文化研究に詳しい広尾克子さんから
「阪俗研便り」第96号(通号219号、2017/02/23配信)に
投稿していただいた記事を援用します。
◇・・・・私も延喜式の擁釼(カサメ)は、
 どういう形で納められたのだろうと
 気になっていました。
 万葉集に登場する葦蟹は最後に塩漬けにされて
 食べられるので、やはり塩辛みたいなものかなと。…

 

「前垂島蟹胥」の記事の問題点は、

むしろ古代にあっても
近世記事にある中州でカザメを捕獲していたか否かです。
『摂陽群談』の続きは次のとおりです。

 

◇往古為贄の蟹胥(カニヒシコ)、当国にあり、
 其所出方角不詳、
 蟹の漬物は、其に伝る歟。
 〔三代実録〕巻三十五曰、元慶三年正月三日癸巳、
 【勅摂津国蟹胥、陸奥国鹿腊、莫以為贄奉膳、云々】、

 

平安時代に贄として献げられた「摂津国蟹胥」の
捕獲地を『摂陽群談』は「其所出方角不詳」と記しています。
江海に臨むシマの地形は変化するものでしょう。

「蟹胥」が古代の「カザメ」との関連がみとめられても、
「前垂島」を「田蓑の島」に比定するのは無理なようです。

 

今回も、並河誠所編纂の『摂津志』(『五畿内志』)記事を
批判的に引用しました。
翻って、『摂津志』の「宅美野島(タミ-)」を
読み返す段にさしかかりました。

 

究会代表   田野 登