折口信夫の合邦ヶ辻解釈をめぐって(2) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今回は
先週土曜日9月19日、阪俗研セミナーでの
折口信夫の合邦ヶ辻解釈をめぐっての続きです。
溝渕雅子氏からいただいたコメントの後半を紹介します。

●私にとって手に余るテーマでした。
 恥ずかしながら折口学、マレビト論の内容を知りません。
 『弱法師』『摂州合邦辻』は多少知っていても、
 論文「玉手御前の恋」も知りません。
 折口が注目し、先生が丹念に迫られる「頬かむり」
 地域の特性をあぶり出して重ね合わせ、
 「折口学」解明の端緒と着目される。
 難しいです。
 玉手の真実は分りませんが、
 継子を訪ね歩く女性が、
 人目を忍んで頬かむりをする姿は
 私には自然に映るだけなのです。


以下、田野による書き込み。
また「頬かむり」に戻りましたが、
話は前進させましょう。
「継子を訪ね歩く女性」です。
ただ、よくある「継母」「継子」の関係ではありません。

この芝居では最後のどんでん返しまでは
継母が継子に邪恋をいだくという設定で
事が運ばれています。

折口は自説を展開する中で
玉手御前の父親である道者・合邦のことばを
引用します。
玉手が合邦の庵室を訪ねる場面からたどります。
●併し、玉手御前は、頰かむりして、親の家にやつて来る。
 気は鳥羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行方、尋ねかねつゝ、
 人目をも忍びかねたる頬かぶり包み隠せし親里も・・・
 この頰かむりは、普通の女の服装ではない。
 身分の低い者は、普段の生活にも頰かむりをするであらうが、
 まあ異例であらう。それをしてゐる女は、乞食に多い。


芝居台本の「人目をも忍びかねたる頬かぶり」に対して
折口の「この頰かむりは、普通の女の服装ではない」は
ノーマルなものでないと断定的に、しかも
「それをしてゐる女は、乞食に多い」とまで
賤視のまなざしが注がれる人たちに
玉手をカテゴライズします。

折口の論の続きをたどります。
折口は合邦が玉手に投げかけた罵詈を引用します。
●其ばかりでなく、父の合邦が
 「そのざまになつてもまだ
 俊徳様と女夫になりたいと言ふのか」と言ふが、
 此も非人乞食の服装を言つてゐるのではなからうか。
 殊に、始めにあげたくどきの中でも、
 玉手自ら、「跡を慕うてからはだし」と言ひ、
 次第に流転して身が落ちて行く様が示されてゐる。


この後、玉手の口から、俊徳丸への恋の「真実」は
俊徳丸の助命のためのトリックだったと語られます。
その真偽はともかく、父は「そのざまになつても・・・」と
言います。
折口は、「そのざま」を「非人乞食の服装」と
言い換えて、
玉手が俊徳丸を追っかける様を
「流転して身が落ちて行く様」とまで述べます。

高安長者の奥方の末路を
零落した女人と解釈しようとしています。
こうなれば、まるで折口信夫の「貴種流離譚」にまで
走りそうです。
準備ができていませんので、
その方向への発展は差し控えます。


写真図 玉手の水跡




ボクが主張したかったことは、
殊更、玉手御前の「人目をも忍びかねたる頬かぶり」を
「非人乞食の服装」と深読みするところに
折口のこだわりがあって
そこに折口の一連の、一連と云っても
多々、言い換えのある言説を解く端緒があると
ボクは読んだのです。


マレビトである神が零落した果てを
漂泊する芸能者に重ね合わせると云った
幻視を「マレビト論」に仕立てたと
ボクは考えています。
いずれ異人論の観点から「マレビト論」を
解釈したいものです。


究会 代表 田野 登