晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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今回もテキストに
「年中行事覚書」(「青空文庫版」)を用います。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
閲覧日:2016/07/30


前回、「暮らしの史学」の副題で
年中行事を対象にして
歴史研究に比較の方法の必要性を首唱する
柳田を取り上げました。


昭和30(1955)年当時、
研究者はもとより、一般庶民の間にも
地域間の文化を比較する条件は
整いつつありました。


●人が自由に遠国に行き通い、
 ちがった方角から来た人たちと軒を並べ、
 膝をまじえて雑談をするようになったのは、
 そう古くからのこどでなく、
 また近いころ急に盛んにもなった。


この時代になって、国内旅行が盛んになり
人々の往来が頻繁になりますと
国民誰もが情報交換可能になります。
引用個所の続きを記します。


●今まではとかく変った点が目につきやすく、
 言葉や品物のわずかなちがいでも、
 理解を妨げていたことが多かったけれども、
 静かに聴いて見れば心持はだんだんと汲み取られる。
 わざわざ統一してみようと努めなかった区域に、
 かえって隠れたる自然の一致があったということを、
 学び知る機会が多くなって来て、
 ここに始めて年中行事が、
 新しい学問上の意味を持つことになったのも、
 つまりは時代の然らしむる所であった。


自分の生国に行われている年中行事が
他国でのそれと
「自然の一致」があることを

はじめて知ります。
どこもかしこも大した違いがなったのです。

お互いの無知を次のように記します。

●人が自らを知るということは、
 すでに容易な仕事ではないが、
 国民が自分の国を知るのは、
 それよりもまた何層倍かむつかしいことだった。
 しかも方法はなお幾らもある。
 第一にはめいめいの無知に気づくこと、
 今までわかったつもりでいたものに、
 実は答えられないことが多いのは、
 私みたいな年よりには、一種の若返りの薬であった。


自分が自分を知らないこと。
これに気づくのです。
自明として少しも疑問を抱かないのが
自分の暮らす地域の文化です。
再帰的に自文化を対象化するのは
民俗学の真骨頂です。


次回、自国の文化を研究対象とする
一国民俗学の方法について考えます。


究会代表 田野 登

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7月31日って何の日?
大阪でいえば住吉っさんの夏祭りの日です。
月遅れの夏越しの祓えの日です。
観光サイトを開けば
青森ねぶた祭は毎年8月2日から7日とあります。


お祭りは民俗学徒にとっては
じっとしておれない時ですが、
いったい何のために調べるの?

今回もテキストに
「年中行事覚書」(「青空文庫版」)を用います。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
閲覧日:2016/07/30


柳田國男は冒頭に、年中行事への
世間の関心を次のように記しています。

●日本の年中行事が、近頃再び
 内外人の注意をひくようになったことは事実だが、
 その興味の中心というべきものが、
 これからどの方角へ向おうとしているのか、
 久しくこういう問題に携わっている者には、
 かえって見当をつけることがむつかしい。


「近頃再び」とあります。
初版の昭和30(1955)年のことです。
戦後10年、世間は活気に満ちてました。

年中行事が注目を集めるようになったというのです。
続けます。

●しかし少なくとも子供に言って聴きかせるように、
 これは昔からこうするものなのだと、
 説いただけでは話にもならぬし、
 またこのごろのジャーナリズムの如く、
 正月が来れば門松の由来、
 三月が来れば雛祭の根原などと、
 きまりきったことを毎年くりかえしていたのでは、
 観光団の通弁にはなっても、考える人の役には立たぬだろう。


この当時のジャーナリズムが、今日同様、
個別の年中行事の由来、根原の報道に費やし
観光の宣伝になっていたのでしょう。
それを潔しとしないのです。
研究者としての柳田のスタンスが読み取られます。

彼の興味関心は
年中行事という項目のどこにあったのでしょう。
「民間の年中行事」の冒頭を引用します。

●年中行事という言葉は、
 千年も前から日本には行われているが、
 永い間には少しずつ、その心持がかわり、
 また私たちの知りたいと思うこともちがって来た。


「年中行事という言葉」に変化がみられるとでも
いうのでしょうが、
彼は年中行事に何を読み取ろうとしたのでしょう。
●この点に最初から注意をしてかかると、
 話の面白みはいちだんと加わるのみならず、
 人とその生活を理解する力が、
 これによって次第に養われるであろう。
 史学が世間で騒ぐような、
 そんなめんどうな学問でない

 ということを実験するためにも、
 これはちょうどころあいな、

 また楽しい問題ではないかと思う。


彼の関心は「人とその生活を理解する」ことにありました。
彼にとっての「史学」は
偉人や英雄の固有名詞が並べ立てられるような
しち面倒くさいものではなかったのです。
2,3頁の先には
「汎く日本という国に住む者の共に知り、
共に守ろうとしていたものが、いかなる慣習であったか」を
問題にしています。  
さらに次の記述もみられます。


●つまりは我々の人生を視る眼が広くなり、
 比較の方法は歴史の研究にもなお必要だということが、
 追々わかりかけて来た兆候なのである。


歴史の研究に
比較の方法の必要性を唱えています。
「歴史」って唯一無二ではなかったの?
頭を柔軟にしてかかりましょう。

ボクの関心は、
人物を語る歴史の成立過程を知ることです。
どこにでもある一見、
何の変哲もないとされる場所の歴史から始めます。

次回は柳田の学問の方法に遊ぶ予定です。


究会代表 田野 登

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やっぱり民俗学を探究したくなって
シリーズ《柳田国男の世界に遊ぶ》を始めます。

以前、畷高(大阪府立四條畷高校)で
教員をしているとき
図書館の『定本柳田國男集』31巻を
ひととおり通読したことがあります。
何年かかったことでしょう。

あれから30年程経って、
原点に立ち戻って
柳田の世界に遊び
どの程度、自分は「再発見」できるか
試みたいのです。

今回は
テキストに「年中行事覚書」(「青空文庫版」)を用います。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
閲覧日:2016/07/30


同HP「二十三夜塔」所収に
「古道と新道」があります。
冒頭は次のとおりです。
●荷馬車やトラックが盛んに走り出してから、
 どこの村にも新道が通ることになった。
 新道には今までの路を取り広げたのもあるが、
 多くは真直ぐに耕地原野を切りならして路にしているので、
 両側にはまだ人家が少なく、
 地面の形にも裁屑のようなものが出来ていて、
 一目見ただけでも旧い道でないことが判る。


青空文庫の奥付に
「初出:「年中行事覚書」現代選書、修道社
    1955(昭和30年)10月」とあります。
「新道」を走るのが「荷馬車やトラック」の時代です。
新道の形態は
道幅が広げられ、真っ直ぐ直線です。
勾配はならされていて緩やかです。

オート三輪が出回るのがボクの小学生時代、
昭和30年代、高度経済成長を控えた時代ですので
「新道」といっても、それ以前の道です。
「旧道」はいかがでしょう。

引用個所の続きを載せます。
●旧道はこれに反して、
 田畠よりも前から開けていたものが多く、
 そうでなくともなるだけ地面を潰さぬように、
 川の岸や岡の根を通ろうとし、
 また歩行が主であったから、
 坂路の登り降りを避けていない。


「川の岸や岡の根」といった
自然地形に沿っていて
上り下りが、却って急です。
勾配が急で曲線的な道が古いのです。
「旧道」を通れば何に出くわす?
引用文の先に次の記述があります。

●路をあるくということは、
 人の生活の主要なる半分であった。
 散歩というような何の当てもない外出をする人は、
 もとは非常に少なかった。
 それ故に世の中に入用ないろいろの設備は、
 神社でも仏寺でも、すべて皆道路の傍に立ち、
 また道路を以て繋つながれている。


村にあって入り用な施設は社寺です。
社寺の前、あるいは傍らを抜ける道こそ
古い道です。

いつもボクが取り上げる福島区海老江の地元で
評判のよくない「梅田・大和田街道」の案内板は
海老江の南桂寺や八坂神社を通りません。
淀川大橋が架かってからのバイパスです。
写真図 
「梅田・大和田街道」の案内板


この案内板は
大阪市が平成13(2001)年に設置した
明治40(1907)年当時と銘記する
「大和田・梅田街道」の案内板でした。


またまた自分の不勉強を露呈するだけの
シリーズにしない努力はしますが、
柳田を読み直すことによって
足下、身近な世界に民俗文化を発見したいのです。


究会代表 田野 登

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中島大水道の大恩人・一柳太郎兵衛の末裔
 一柳正義氏を最初に訪ねましたのは、
 2016年7月9日(土)のことです。

 『大阪春秋』の原稿がうまくまとめられず、
 今日、7月24日で3回目の訪問です。
こぼれ話を先に公開しております。

中島大水道上流を溯る小さなツァーも
新太郎松樋のある公園から南東方向、
 直線距離にして600mにいます。
ここからは城東貨物線の高架が西に見えます。
写真図1 菅原1丁目交差点の北西角 7月10日撮影


菅原1丁目交差点の北西角,
菅原6丁目です。
南西向きです。

手前に真新しい石柱が見えます。
 「増島橋」の親柱でした。


写真図2  「増島橋」の親柱(菅原6)


「最新の東淀川区」1937年10月調、夕刊大阪新聞社を
読図しますと、
 増島川の水路は「城北《ママ》貨物線」と交叉する場所で
南北二手に分かれます。
 小さな川中島の体をなします。

川が埋められた今日、北の流れの跡と思しき
大阪府道14号大阪高槻京都線(淀川通)を
東に150mほど行きますと和合公園です。
 和合公園には
「和合橋」の親柱が保存されています。
写真図3 和合公園の「和合橋」親柱(菅原3)


増島川水路の北流です。


 大阪府道14号を挟んで
和合公園の反対側(南側)、すぐに
「亀岡街道」碑が建立されています。


写真図4 「亀岡街道」碑(菅原1)


写真は北向きです。

「亀岡街道」碑から南には
 いかにも旧家と思しき屋敷構えが連なります。
その屋敷が一柳家本家です。

写真図5 一柳家本家の屋敷構え(菅原1)


写真の屋敷の左(西)が亀岡街道です。

ここで、一柳家本家で拝見した
「摂州西成郡北中嶋水道溝絵地図」を
思い起こします。
 一柳家本家には
「摂州西成郡北中嶋水道溝絵地図」と
墨書された巻物が所蔵されています。

その巻頭には
知行地の凡例に続く箇所で
「二重堤逆川」と墨書され、
 水が描かれています。
なお、この絵地図は、すでに
「中島大水道まち歩きマップ」
2015年6月、中島大水道サロン発行に
巻頭だけは写真紹介されています。
中島大水道上流の「増島川」と聞いて
歩んだ道筋は二重堤のうちの
「逆川」沿いの道だったのではないでしょうか?

どうして「逆さ」なのでしょう?
一柳家本家には、これとは別に
「慶安元年霜月十一日
  太郎兵衛 又兵衛」明記の絵地図も
所蔵されています。
それには「大淵」をはじめ、
たくさんの池が描かれています。
この中島大水道上流の地域の
原地形を反映する表示です。

写真をアップできずに御免なさい。
『大阪春秋』では
絵地図の写真掲載許可をいただきたいものです。


今日も「大淵」の痕跡を追って
大阪府道14号を
 さらに東を歩くことになるでしょう。
 『大阪春秋』東淀川区特集の
取材こぼれ話の続篇を
本ブログに書くことになるかもしれません。

究会代表 田野 登

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中島大水道起点・新太郎松樋の南東約400mの
淡路駅の地下道を抜け、
 駅の東側商店街を横断しますと、
これまた川跡を思わせる
 ゆるやかな曲線を描く道路です。
ほどなく高低差のある2本の
平行する道に出ます。


写真図1 高低差のある2本の平行する道
             7月9日撮影

写真の方向は西向きです。
 左手(南)の地面が高い方が旧淡路庄増島村。
 現在の東淡路4丁目で増島川の堤道。
 右手(北)は地面が低く旧新家村。
 現在の菅原5丁目で増島川の川床です。
この川堤、川床が中島のくびれです。
中島の下島(しもじま)と上島(かみじま)の境界です。

下島の方が上島より地面が高い?
 上下は淀川の流れに沿って
上流(北側)と下流(南側)によって区別するものです。
増島川の堤道の裏は小高くなっていて
現在は「東淡路公園」になっておりますが、
 昭和10年代の地図にはまだ、六角形の池が見えます。
 明治の測量部の地図を重ねますと
 この池の西から南に民居が集中し、
その周囲に田畑が広がっています。
 「字増嶋」とありました。

一柳正義氏に訊ねましたところ、
昭和28年の水害で淀川が氾濫した時、
この池から水が噴き出したとのこと。
底で繋がっているとのこと。
今のボクには理解不能です。

下島である増島川左岸のこの池一帯は
*国土地理院「明治期の低湿地データ」においても
低湿地の表記から外れています。
 *国土地理院「明治期の低湿地データ」
http://www.gsi.go.jp/bousaichiri/lc_meiji.html
閲覧日:2016/07/17
さらに南東に進みますと高架橋に出ます。



ここも進行方向からすれば
振り返る恰好になります。
 川跡の湾曲する道路の
左は旧増島村(東淡路5)、
 右が旧新家村(菅原5)です。

この高架は、現在、城東貨物線の高架ですが、
2018(平成30)年度末には
新大阪駅 - 放出駅間が開業すれば、
 *おおさか東線の一部路線となる予定です。
  *おおさか東線:
https://ja.wikipedia.org  
 最終更新 2016年7月22日 (金) 16:08
 閲覧日:2016年7月23日

しばらく城東貨物線の高架に沿って
増島川跡を溯ります。
 今回のゴールは和合橋跡(菅原3)です。

究会代表 田野 登


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