晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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今回からしばらく、掲載許可をいただいた
大阪府立図書館おおさかeコレクション
「錦絵にみる大阪の風景」の画像情報を
軸に私見を述べます。


写真図 初代長谷川貞信「安井天神」

大阪府立中之島図書館所蔵




「安井天神」から始めます。
一荷堂半水の画賛は次のとおりです。
改行は田野による。
●安居天神社は荒陵山の地にして
 四天王寺伽藍の西五丁にあり
 南は一心寺に向ひ
 北は新清水に隣る
 此境内一隊の丘山にして
 西はるかに滄海を見わたし
 須磨明石の浦々
 淡路嶋山の遠望
 近くはなんば今宮の村里まで
 眼の下にさへぎり
 本社のうしろは
 桜おほくして
 弥生の頃は茶店
 軒をつらね
 妓婦雑客こゝにつどひて
 歌舞の声絶るひまなし


画賛の
「西はるかに滄海を見わたし
 須磨明石の浦々・・・・」
上町台地西斜面なら
生玉、高津、大江の社も同じながら、
今日、臨むべくもない光景が叙せられています。
なるほど菅原道真公が
太宰府へ左遷される途次、
いっとき「安居」なされたという
伝説の場所です。

さて絵解きです。
どうも画賛と絵とは
うまく噛み合っていません。
あるいは一緒に取材したのでは
なさそうです。


本殿への石段からして南向きか、東向きです。
南向きなら、天神坂で
どこかに四天王寺から一心寺に連なる塔頭が見えるはず。

山の背後にあるのでしょうか?

そうなれば画面右の集落は

当時の閻魔堂のある合邦ヶ辻となります。

中央の低い山は二上山で
雄岳、雌岳の
ふたこぶが描かれてているはずです。

角度によってふたこぶに見えないのも当然でしょうか?


東向きならいかがでしょう。
画面右手(南)方向に逢坂が見えないのはおかしい。


写真図2 松屋町筋を挟んで正面(東)が安井天神




石段を登り切った所に
社殿があり、
桜がチラホラ見えます。
「本社のうしろは
 桜おほくして」とある
桜を描いているのでしょうか?
それなら天神山です。


写真図3 広重「浪花名所図会」の「安井天神山花見」

       大阪府立中之島図書館所蔵




癇静めの井戸の屋形は
どこに表現されているのでしょうか?
石段を登り切り一対の常夜燈の背後に見える
切り妻屋根の屋舎は何でしょう。
この屋舎の右、木立の蔭に黒っぽく見える屋形を
癇静めの井戸の屋形と解釈します。


背後に遙かに見えるのは
生駒から、左に低く見えるのは飯盛山でしょう。

南向きの解釈なら

中央の小高い山が二上山で

右(西)に連なるのは和泉山脈となります。


それにしても寺社を除けば
この一帯は農村そのものです。
鍬を持つ農夫が田圃に二人。
青物を朸(おうご)に担う男。

南向きに解釈すれば

合邦ヶ辻の集落の左(東)に

子供を背負った人影が微かに見えます。

石の鳥居下に瓢箪をかたげた男、
傘をしぼめた女。
参拝客あるいは花見客でしょう。

石段半途に女性二人と
その下に男性二人。
どこにも二本差しの侍は見えません。

以上がボクの「安井天神」私見です。

8月25日(火)は
短大で「合邦ヶ辻界隈の解釈」を話します。
詳しくは
   ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12049101637.html
申込み〆切は明後日7月31日です。


究会代表 田野 登



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しばらく
初代長谷川貞信による錦絵「浪花百景」のうち
四天王寺界隈を紹介します。
いずれも大阪府立中之島図書館所蔵のもので
ブログアップの許可を得ています。


それに先だって
絵師・初代長谷川貞信および、
賛辞の著者・一荷堂半水について略述します。
以下しばらくは、
拙稿、2008年9月「失われし水都の情景」
『大阪春秋』132号に基づきます。


大阪城天守閣編集、
1980年『特別展錦絵にみる浪花風物誌』によりますと
初代長谷川貞信は幕末から明治初頭にかけて
大阪を中心に活躍した絵師です。
文化6年(1809)に大阪南船場の商家に生まれ、
明治12年(1879)に70歳で病没しています。

「長谷川貞信」の名跡は代々、継がれ
今日に至ります。

初代の画風につき
松平進、1997年出版の
『初代長谷川貞信版画作品一覧』和泉書院によりますと
人物描写において
「デフォルメの少ない几帳面」であって、
「背景を加える場合は、
その描写は詳細で、
劇場や家屋などに遠近法にも狂いはない」と評されています。


この松平進氏による評価は
まさに、そのとおりだと思います。
*ウィキペディア「長谷川貞信」には次の記載があります。
 最終更新 2015年4月16日 (木) 06:08

●(上略)風景画の作品としては
 歌川広重の画風に近い
 「東海道五十三次」、京阪の名所絵「浪花百景」上・中巻、
 「近江八景」などがあり、
 美人画では「浪花自慢名物尽」が代表作として、
 また絵入根本としては
 安政2年(1855年)刊行の『吾嬬下五十三駅』12冊などがあげられる。


「歌川広重の画風に近い」とあります。
「浪花百景」の複数の作品を比較する限り、
広重の絵には穏やかな筆致を感じさせます。
多くの目が広重に馴らされているのでしょう。
貞信の方が今日の写生に近いものであり、
正確さに勝るように感じます。

ボクは、今回に限らず、しばしば
初代貞信の絵解きを試みています。
それは、彼の筆の緻密さに信頼を寄せ、
それが絵空事であることを
しばし忘れさせるものであるからです。


賛辞を記した一荷堂半水とは何者でしょう。
『大阪春秋』には次のように記しました。
●いっぽう賛辞の著者・一荷堂半水については、
 俗謡の蒐集家として知られ
 初代長谷川貞信は
 そのような唄本の表紙・挿絵を

作画するなどして親交があった。


俗謡の蒐集家であるのは、
高野辰之編、1966年『日本歌謡集成巻11』東京堂によって
確認できます。
初代貞信との親交は松平氏が挙げています。
「一荷堂半水」を電子情報から収集しますと
風景画の画賛を記す半水と
異なる側面があることを知ります。


まず生没年につきましては
*複数の情報が「1828-1882」と記します。
*複数の情報:「古典籍総合データベース」


早稲田大学図書館 一荷堂 半水」
     「Webcat Plus 一荷堂 半水」
「近代デジタルライブラリー 一荷堂 半水」


1828年は和暦では文政11年です。
1882年は明治15年で54歳で死没しています。
絵師・初代長谷川貞信の没後3年です。

その半水ですが、
上記の情報をまとめて作品名を列挙します。

「笑談貧福軍記」「梅迺栞」「男女狂訓華のあり香」といった
艶福本から「英語土渡逸」まで
売文で生計を立てていたと想像されます。

先に挙げた複数の情報のいずれにも
記載されていますのは「臍の宿替 : 穴さがし」なる
書名の「芳梅 画」のシリーズ物の図書です。
明治19(1886)年に刊行されています。
となれば没後刊行です。


題名から察すれば、
およそ「浪花百景」の風景を叙するのとは
別の戯作者の顔が見えてきて
幕末から開化の時代に生きた物書きの
生涯の一端が見せつけられます。


とはいえ気を取り直しまして
次回から貞信の錦絵に半水の画賛を添えて
絵解きを試みます。
錦絵公開は、次回廻しになりました。


究会代表 田野 登

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先日7月26日(日)は
今年は7月28日語呂合わせで「なにわ」。
7月28日は難波宮発掘の山根徳太郎博士の命日ですが、
今年は直前の日曜日に
NPO(非営利活動団体)OSAKAゆめネット主催の
「難波宮フェスタ」が行われました。


ボクは松尾信裕氏による講演
「難波津から渡辺津へ」とは素晴らしい!
ということで大阪歴史博物館まで
聴きに行きました。


以下、いただいたレジュメに沿って
ボクなりに整理してみます。
リード文は以下のとおりです。
改行は田野による。
●古代大阪には大和王権の外港としての港湾施設があった。
 難波津と呼ばれるそれは
 日本と中国大陸や朝鮮半島との窓口であった。
 飛鳥時代には遣隋使・遣唐使の発着港ともなった。
 それ以後、
 平安時代まで国家的な港湾として機能する。
 遣唐使廃止後も港湾機能が存続し、
 中世の大阪の港町となった。


以下、田野による書き込み。
古代大阪から中世大阪に至るまでの港湾施設が
概観されています。
難波津の港湾機能の存続が記されています。
今回の講演では
難波津をじっと見据え、
脇目も振らずに述べられます。
論旨に揺らぎやブレはありません。

構成は次のとおりです。
●1.難波津の研究史と地形環境
 2.海に面する縄文時代から古墳時代の遺跡
 3.上町台地上の古墳時代の遺跡
 4.上町台地西部の古代から中世の遺跡
 5.難波津の推定地


以下、田野による書き込み。
なんと標題にある「渡辺津」がないではありませんか?
「渡辺津」という語はA4版40行4頁(論末の参考文献込み)の
最後の方に5回出てきます。
あるだけ全て挙げます。
1 東は上町台地の西裾部付近から、
 西は堺筋付近までのこの地域に、
 中世の渡辺津があったと推定。
2 古墳時代以降の難波津の所在地として推定できるのは、
 中世の渡辺津の所在地として推定した、
 上町台地の西裾部付近から堺筋付近までの間であると考える。
3 *その機能は中世へと引き継がれ、
 渡辺津と呼ばれる港湾集落へと変遷したと推定。
4 渡辺津の推定地域からは、
 古代に遡る遺構や遺物が豊富に見つかり、
 古代から中世まで
 継続している集落であることが想定できる。
 *その機能:港湾機能→
5 渡辺津は中世に突如出現するのではなく、
 以前から存在した港湾施設を継承した港。


重複の多い記事に気づきます。
要は、「渡辺津」とは中世の港湾施設であって
東は上町台地の西裾部付近から、
西は堺筋付近までの地域に
古墳時代以降の難波津から継続した港であると
理解しました。


レジュメ(図6)に「難波津が想定される範囲」が
東西に長いラグビーボールの恰好に示されています。
これを読図しました。
西限は栴檀木筋です。
丼池筋、心斎橋筋、御堂筋は埒外です。
中橋筋、堺筋、八百屋町筋、一丁目筋、

箒屋町筋、東横堀川、松屋町筋は埒内で
東限は、上町台地の西裾部です。
谷町筋、上町筋、大阪城は埒外です。

北限は、北浜通です。
今橋通、浮世小路、高麗橋通、

伏見町通、道修町通、平野町通、
淡路町通は埒内で
瓦町通、備後町通、安土町通、

本町通、南本町通、中央大通は埒外です。


西は御堂筋まで行きません。
大阪市立中央公会堂の筋までで
東も上町台地も尾根筋までは行きません。
北は大川筋。
南は北船場で、島之内はもとより
中央大通の線までも達しません。
この狭苦しく感じたのは、
エリアとしての港町と理解します。


以下、ボクの想像する中世の大阪を綴ります。
西にはマチ以前の芦の繁茂するラグーンが
南北に伸び、
芦間に生きる海の民の息吹を感じ取ります。

南に行けば
さまざまな民が身を寄せる四天王寺に連なる
熊野街道が伸び、
さらに上町台地を南に
阿倍野を経て住吉に至る道筋が想像されます。


「難波津から渡辺津へ」とは素晴らしい
演題で、
研究者らしく言葉を選んだ手堅い講演でした。

門外漢の想像を寛恕願いたい。


究会代表 田野 登

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前回、折口信夫の問題として
異相としての「頬被り」が
挙げられるのは
大正6(1917)年6月初出の
小説「身毒丸」からだと書きました。
後になって難癖を付けるのは嫌ですから、
玉手御前が父・合邦の家に帰って来る場面の
「忍び兼たる頬冠り」とある衣裳について
「頬被り」でない説も挙げておきます。
*『歌舞伎登場人物事典』の〔演出・扮装〕の記述がそうです。
  *『歌舞伎登場人物事典』:河竹登志夫監修2006年
               白水社、「玉手御前」
●(上略)扮装は、
 黒または紫紺の留袖で裾模様に藪柑子などを描く。
 蔓は、町人風の丸髷または
 武家奥方の勝山、
 公家風の下げ下地を用いることもある。
 花道の出に被る頭巾も、演出により黒または紫になる。

「頬被り」でなく「頭巾」とあるのです。
なるほど、写真で見ても
けっして賤しげな恰好ではありません。
この記述は『歌舞伎登場人物事典』の
「玉手御前」という項目で
「古井戸秀夫」の署名があります。
同事典の項目「俊徳丸」の
〔演出・扮装〕の記述はいかがでしょう。
この方の署名は「和田修」です。
●本作では玉手御前が中心で
 いくつかの型がある。(中略)
 合邦庵室の場では、
 肩入れのついた藤色綸子の着付けの
 やつしなりで、病鉢巻きで目を被布で覆う。

「やつしなり」とあります。
「身をやつす」というものです。
ちなみに『広辞苑』第6版の
「やつし事」には、次の記述があります。
●歌舞伎で、
 仔細あって
 身を落とした身分ある人物や
 金持の息子などが、
 いやしい姿でする演技。また、その劇。

「やつす」のは賤しいなりをすることです。
いくらお芝居で美しく演じられようとも、
それは賤しい身なりの様式に拠るところの
演出なのです。

この段に至って
折口にとっての「頬被り」の
小説「身毒丸」における記述を記します。
今回は図書館に全集本が貸し出されていて
手にすることができませんでしたので
*文庫本を引用します。
 *文庫本:河野多惠子編
      『大阪文学名作選』2011年
●あけの日は、
 東が白みかけると、
 あちらでもこちらでも蝉が鳴き立てた。
 昨日の暑さで、
 一晩のうちに生れたのだろう、と話しおうた。
 草の上に、露のある頃から、
 金襴の前垂を輝かす源内法師を先に、
 白帷子に赤い頬かぶりをして、
 綾藺笠を其上にかずいた一行が、
 仄暗い郷士の家から、
 照り充ちた朝日の中に出た。
 そうして、だらだら坂を静かに練っておりた。
 制吒迦は、二丈あまりの花竿を竪てながら、
 師匠のすぐ後に従うた。

主人公「俊徳丸」ならぬ「身毒丸(しんとくまる)」は
「白帷子に
 赤い頬かぶりをして、
 綾藺笠を其上にかずいた一行」の一人です。
旅芸人です。
この田楽法師の群れにいるのが
「身毒丸(しんとくまる)」です。
小説「身毒丸」は大正7(1918)年9月の発表ですから
折口信夫20歳の作品です。

次回は、「身毒丸」の境涯を見ることにします。
田楽法師の群れに表徴される人々に
託された折口信夫の心意を読み解こうと思います。


この記事を材料の一つとして

短大の公開講座で

「合邦ヶ辻の解釈-折口信夫の明察による-」を

話します。

申込〆切は今月末です。

      ↓詳しくはここをクリック

http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12049101637.html



究会代表 田野 登

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高安の長者である玉手御前の
ほっかぶりが余程、意表を付いたと見えて
折口は「玉手の恋」の中心に据えて
その異常な愛を論じました。

頬被りを*国語辞典の電子情報で確認しました。
*国語辞典:【ほおかむり@weblio辞書】三省堂 大辞林
        受信:2015/07/23

●ほお かぶり ほほ- [3] 【頰 被▽り・頰 冠▽り】
( 名 ) スル
〔「ほっかぶり」 「ほおかむり」とも〕
①防寒やほこりよけのため,
 手ぬぐいなどで頭から頰にかけて包み,
 顎(あご)のあたりで結ぶこと。 [季] 冬。
②知らぬふりをすること。(以下略)


前回、*「生活図引」に当たると約束しました。
 *「生活図引」:須藤功 編『写真でみる日本生活図引』弘文堂
第1~8巻と別巻
「防寒やほこりよけ」といった
機能面以外に「頬被り」の用途はないのでしょうか?


*第1巻「たがやす」の巻は稲作を中心の編集で
そこでは早乙女の装束に「頬被り」は見られました。
これは農耕儀礼の一環として捉えられるでしょう。
 *第1巻:『たがやす 写真でみる日本生活図引①』
      弘文堂、1989年


*第3巻は「あきなう」です。
これの「14 若勢市」に次の記事が見えます。
*第3巻:『あきなう 写真でみる日本生活図引③』
       弘文堂、1988年

●14 秋田県横手市(昭和10年代)
   武藤鐵城撮影・民俗学研究所提供
 雇われて働きたいと思う者が、
 自ら市に立って雇主に雇われるのを総称して
 奉公市あるいは人市といった。(中略)
 その日の若勢はきれいに洗った野良着に蓑笠、
 頬被りをしているのは恥ずかしさを隠すためである。(以下略)
 
なんと奉公に出る男が顔を隠すための「頬被り」です。
今日なら、堂々と自己PRが求められるのが
80年前なら顔を見られるのが恥ずかしいのです。

図引きの写真図⑬の解説に次の記述があります。
●朝市に来る女たちに
 じろじろ見られる恥ずかしさを隠すための頬被り。


この顔を隠すのには身分を隠すと云った
意味合いは感じられません。
同書「55 箕商い」の「頬被り」は、
いかがでしょうか?
写真図③の「頬被り」は
次のように記されています。
●手拭いを利用。後頭部から頬を包み、左端に巻き込む。


図引きのリード文には「箕商い」と云った生業の解説が
熟々と書き記されています。
●55 山形県・村山街道にて(昭和35年9月)加藤治郎撮影
 箕は穀類をゆすって殻や塵芥を取除く農具。(中略)
 また年中行事や祭りのとき、
 供物を入れて用いることがある。(中略)
 箕は竹製が多いが、
 薄板や樹皮を用いたものも少なくない。
 それを専門に編んで売り歩く人たちがいた。
 ただその人たちは、どこから来るのかわからず、
 その人たちには厳しい掟があると噂された。(中略)


この記述を読む限り、
この生業に生きる人たちは
農民のような一所に
定住する人たちでないことがわかります。
どこからやって来たのかを
語りたがらないというのです。

写真で見る限り、
二人写っている女性うちの一人は
頬被りもしていません。
この昭和35年当時、
彼女たちに向けられる
町や村の人たちの眼差しに
この生業への蔑みがあったかどうかは
ボクにはわかりません。


折口の記述中に
「頬被り」が異相として
読み取られるのは
大正6(1917)年6月初出の
折口信夫による小説「身毒丸」です。


本ブログ《折口信夫の「なにわ・大阪」を探る(7)》に
引用しました「折口といふ名字」の初出が
大正7(1918)年9月のことですから、
小説「身毒丸」記事を読むことは、
折口自身の出自に向かい合う意識へとつながる問題を
解明する一つの端緒となり得ます。

本シリーズ「玉手御前のほっかぶり」では、
「身毒丸」の「頬被り」を取り上げることにします。


究会代表 田野 登

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