晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


テーマ:



禅寺で通天閣ビリケンさんの世界を話します。
禅宗とビリケンさん?
全然、関係ないようですね。
それがあるのです。
いずれ、そのことにも触れましょう。


さきほどご住職から案内のはがきが届きました。
ワクワクして読んでみました。
写真図1 浦江塾案内のはがき




以下、はがきの文面を記します。

郷土誌を見直す
『浦江塾』のご案内
最近賑わっている通天閣の展望台にあるビリケンさんを
取り上げて戴きます。最近では足を撫でる願掛けが行わ
れているそうです。撫でることに庶民信仰の原点がある
のか、仕掛けられたものか、天王寺界隈に異次元的な場
があるのか。観光民俗としてのビリケンさんに迫ります。
 日時 2月7日(土曜日)午後7時より
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
「通天閣ビリケンさんの世界」
文学博士 田野 登先生
終了後、情報交換等の雑談を行います。ご参加下さい。


以下、田野による書き込み。

いかがでしょうか?
実は住職と発表者のボクとの掛け合いなんです。
いつもボクが発表する時は
住職に演題と資料を提供しまして
「力(リキ)を入れて案内文を書いてください」と
お願いして後を委ねます。


はがきを読みますと
あれっ?
そんなこと申し上げたかな?
と思うことしばしばです。
禅僧は意外なことを書きなさいます。
ボクの気づいていなかったことを書きなさいます。
写真図2 PowerPoint「通天閣ビリケンさんの世界」表紙






今回、はがきの文面を材料に論点の一部を挙げます。
「最近賑わっている・・・」とあります。
通天閣は一時期、どん底の時代がありました。
昭和50年代です。
そのどん底の時代から
どのように経営を立て直したのかを
通天閣経営者に聴いてきました。


「最近では
足を撫でる願掛けが
行われているそうです」とあります。
「そうです」という表現は推定ですね。
どうやら禅僧は
通天閣の展望台にまで登っておられないのでしょう。

「最近では」と取り上げておられます。
そうなんです。
ボクの資料に示しましたように
ある時代から、
旅行ガイドブックが
足を撫でる願掛けを
取り上げるようになったようです。
はたして、いつのことでしょう?

1980(昭和55)年にビリケンさんを
設置(安置?)した頃は
どのような「願掛け」が行われていたのでしょうか?


はがきを材料に論点を挙げますと
まだまだ出て来ます。
まちがいなく
一枚のはがきはボクに刺激を与えます。
続きは次回に廻しましょう。


浦江塾は参加費無料、手続き不要。
毎回、福島区歴史研究会会員の方々はじめ常連で
満席になります。
30名ほどしか資料は用意しませんので
お早めにお越し下さい。
問い合わせは阪俗研まで。
お寺にはしないでください。


究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

前回
宮本又次(1907年生~1991年没)は
阿弥陀池で忍者ごっこをして
遊んでいたことを取り上げました。

「阿弥陀池」という場所は
大正期の町家の子どもたちにとっては
「運動」をする場所なのです。

「生いたちの記」に次の記事があります。
●(阿弥陀池の)東南の隅に墓所があり、
 そこにホンのわずかの空地があったが、
 私たち子供達はそこで三角ベースをして遊んでいた。


墓場で「三角ベース」です。
「三角ベース」を*ウィキペディアで検索しました。
*ウィキペディア:「三角ベース」
   最終更新 2013年7月22日 (月) 08:25
●三角ベースは、子供の遊びの一種。
 ロングベースボールなどとともに
 簡易野球の一種に分類される。
 二塁がなく、
 本塁・一塁・三塁の三角形を設定するのが特徴である。


これならボクの子どもの頃、
公園でよくやっていたものです。
昼のサイレンが工場街に鳴り響きます。
間もなく大人が公園を占拠して
三角ベースを始めます。
それは昭和30年代のことです。

その三角ベースを
大正期の子どもたちは
空き地でやっていたのです。
すでに「簡易」であれ野球をしていたのです。
それも墓場の空き地でです。

写真図1 阿弥陀池・和光寺の墓所
     撮影日:2015年1月20日




三角ベースとはいえ
どこに、そんな空きスペースがあるのでしょう。

今、ボクが驚いている
野球の普及ぶりは
当時のこの町では驚くほどの大したことでも
なかったのでしょう。


拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院では
次のことを書き添えています。
●忍者ごっこ、相撲が、
 当時・大正時代半ばの子供たちの遊びであったのは、
 肯けようが、
 三角ベースをもしているのである。
 全国中等学校優勝野球大会が開始されるのが、
 大正4(1915)年であって、
 宮本少年が小学校3年生の時である。
 彼が大阪府立市岡中学校(港区市岡元町)に入学するのは、
 大正8(1919)年である。
 《第三章 市岡中学校のころ 》には、
 そのころ、市岡中学は野球部の黄金時代であったとある。
 ともかく、商家の子供の世界にも、
 野球は深く浸透していたのである。


前々回、「大正期町家の子供の世界」の
時代について取り上げましたが、
そこに「三角ベース」が子どもの遊戯として
「運動」として行われていたことも
書き込んでおきたいと思います。

大正期町家の子供にとっての
阿弥陀池には
まだ続きがあります。


究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

前回は
宮本又次(1907年生~1991年没)が
阿弥陀池・和光寺で
堀江小学校時代
何をして遊んでいたのかを問いかけて終わりました。

「生いたちの記」に次のように記されています。

●忍者ごっこを阿弥陀池境内でした。
 権太の仁田の順ちゃんなどは、
 ガチャガチャと印を結んだ手をあわせてあばれていた。
 相撲をとることもはやった


忍者ごっこと相撲が挙げられています。
阿弥陀池境内なら屋敷ならぬ堂宇があり
木立もあり
忍者が潜むに相応しい場所が設えられていたでしょう。
写真図

 和光寺境内

撮影日:2015年1月20日



その当時、
堀江の子どもたちに
忍者ごっこが流行ったのには
訳があります。
「生いたちの記」を引用します。


●そのころ大流行の立川文庫や武士道文庫を
 小学生がもう読んでいたし、
 目玉の尾上松之助の活動写真を
 千日前の常盤座や四つ橋の四つ橋クラブで見ては、
 忍者ごっこを校庭や阿弥陀池の境内でやり、
 権太の仁田の順ちゃんなどは、
 ガチャガチャと印を結んだ手をあわせて暴れていた。


忍者ごっこにも
ネタ本があったのですね。
『広辞苑第六版』の「立川文庫」の項目には
次のように記されています。

●明治末年から大正にかけて、
 大阪の立川文明堂が出版した少年向きの文庫本。
 著者は講談師玉田玉秀斎。
 講談物が多く、「猿飛佐助」は有名。


宮本又次のように大正時代に
少年期を過ごした人びとの語る人物伝には
ボクは気をつけています。
眉唾ではないかと。

「猿飛佐助」「霧隠才蔵」のような架空の人物は大丈夫ですが、
「真田信繁」を「真田幸村」として
「真田十勇士を従えて・・・」となると
やはり「立川文庫」の講談の世界ですね。

実在の人物が脚色して語られ
どこまでホンマか分からないのは
今日の歴史小説や大河ドラマに始まったことではありません。

大正時代当時、
講談が講談本に進化し
古本屋にも出回り
都市に住む職工や女工たちまでも
「巷談」として語られもしました。
このことは拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院の
《7此花「奴隷島」の近代女工の都市生活》にも触れました。

今回は堀江の子どもの話です。

忍者ごっこをする子どもたちの
想像力の問題をもう少し詳しく
考えてみたことがあります。
以下、拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院を
引用します。

●堀江界隈には、寄席などがあった。
 現在のように、テレビのなかった時代の大人の娯楽は、
 芝居を見、浪曲、講談を聞くことであった。
 子供も連れて行かれもしたのだろう。
 「堀江座へはよくいったし、
 中村信濃の芝居で、混雑したのをおぼえている。
 『難波戦記』を見て、
 家康をにくにくしく思い、
 真田幸村をたのもしく思った」とある。
 子供心に、太閤贔屓が教育されていたのだろう。
 町の子供の想像力は、
 囲炉裏傍で育まれるのではない。
 大人の享受する大衆演劇の世界にお付き合いして
 マセてもいった。


堀江の子どもの世界では
このような「巷談」が
パフォーマンスとして演じられてもいたのです。
彼らの遊びは
それだけではありません。
次回、続きを書きます。


究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

テーマ:

今回は宮本又次(1907年生~1991年没)が
学びました大阪市立堀江尋常小学校と
西に隣接します阿弥陀池こと
蓮池山和光寺の界隈のことを書きます。


1月20日(火)、長堀川跡の長堀通を
歩いたのの続きの記事です。
長堀通を西に歩き
あみだ池筋の手前左手(南)に
いかにも小学校らしい建物が見えてきます。
それが大阪市立堀江小学校です。
写真図1 大阪市立堀江小学校正門から南方向
     撮影日:2015年1月20日




前々回に紹介しました
宮本又次の養家のあった宇和島橋筋御池通北の
北西、子どもの足で10分ぐらいでしょうか?


「生いたちの記」に、この界隈を位置関係を
次のように記述しています。
●和光寺の門前を出ると
 堀江小学校と向かい合ってならび、
 阿弥陀池小学校と通称され、
 これから東へ通ずる通りを
 御池通りといった。
 京都はオイケだが、大阪ではミイケドオリである。


写真図2 大阪市立堀江小学校と和光寺東門
     西向きに撮影
     撮影日:2015年1月20日



正面に和光寺東門が見えます。

堀江小学校は
目と鼻の先というより和光寺境外といった場所にあります。
和光寺は「阿弥陀池」と称しています。

写真図3 御池通りを東向きに撮影
     撮影日:2015年1月20日




          
左手前に葬儀会社の看板がみえる所が
和光寺の南門の場所です。

以下、拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院に基づきます。

写真図4 拙著チラシ表




阿弥陀池和光寺の本尊伝説は、
聖徳太子の時代の政争が絡む大袈裟な話です。
●それ当時の阿弥陀池は、
 むかし欽明天皇の御時百済国より仏像経巻を渡す。
 帝これを尊信ある事大方ならず。
 しかるに物部守屋大連・尾輿中臣連等奏して曰く、
 我が国は神国なり。
 蕃神を拝したまふ事は天津国津神の御怒あらん。
 その上この頃疫病流行て国民大いに悲しむ。
 早く追ひ放ち候べしとて、
 有司に仰せて寺塔を斫り倒し
 あるいは火を放ちて仏像を焼き喪す事多し。
 その中に弥陀三尊火に焦げず、
 斫れども摧けず。
 つひに難波堀江に棄てしむ(以上『日本紀』大意)。
 その後、本多善光といふ者この所を過るに仏告あれば、
 尊像を肩にして信州へ帰る。
 今の善光寺これなり。
 その古跡なればとて、
 元禄十一年智善上人この地を闢き善光寺同体の本尊を安置し、
 昔よりの常灯を照らして難波の精舎となしぬ。


写真図5 阿弥陀池

       撮影日:2015年1月20日




この伝説につきましては、
信州善光寺(長野県長野市元善町)と
阿弥陀池和光寺との関係の本末転倒の経緯が指摘されています。
近世に造成された「堀江新地」は、
信州善光寺の出開帳の場であり、
物部氏が仏像を棄てさせた「難波堀江」とは
何の関係もありません。


このことを知ってか知らいでか
宮本又次氏の小学校時代について「生いたちの記」には
次の記事があります。
●市井の緑の少ない、
 商家の子供達にとって、
 この阿弥陀池の印象は
 強くいまものこっている。


この伝説のお寺で
100年前、商家の子供達は
いったい、何をして遊んでいたのでしょう。
それが65歳になるボクの子ども時代と
まったく変わらない遊びなのです。
今の子どもたちとは違うようです。
次回に書きます。


究会代表 田野 登

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

テーマ:

前回は、西長堀川の材木浜、
前々回は土佐稲荷と
宮本又次(1907年生~1991年没)の少年時代の
遊び場所を取り上げました。
宮本又次の小学生時代は大正時代の前半にあたります。

ちなみに彼が大阪市立堀江尋常小学校の
4年生から5年生になる1917(大正6)年が
どのような時代であったのかを知りたくて
ウィキペディアで探りました。
今回は堀江の場所から離れ
ボクの気ままに出来事を取り上げます。


国外では
この年の2月、ディキシーランド・ジャズ・バンドが、
ニューヨークにて、商業用レコードがレコーディングされたとのこと。
海の彼方から
陽気なアフリカ系アメリカ人の
奏でる楽音が聞こえてきます。


この年の11月、ロシアでは
ソヴィエト政権が樹立されています。
多くの血を流した20世紀の試みは何だったのでしょう?


日本では
萩原朔太郎『月に吠える』が刊行されます。
日本の近代詩の先駆のひとつです。
「月に吠える」のは「ふしあわせな犬」だったかな?
志賀直哉『城の崎にて』が刊行されます。
病気療養中、さまざまな生き物の生死をみつめました。


大阪では
次の年の1918(大正7)年6月
先代の市役所庁舎(3代目)が着工されています。

「大大阪」の時代を直前に
近代都市・大阪を標榜したのです。


1918(大正7)年は10月31日に

大阪市中央公会堂が竣工しています。

写真図1 現在の大阪市中央公会堂

       撮影日2013年11月



株相場師の岩本栄之助が公会堂建設費として
寄付されたのをきっかけに実現します。

都の中枢・中之島に
公会堂、図書館、市役所、日本銀行が
屹立する「近代大阪」が実現する時代です。
写真図2 現在の大阪府立中之島図書館




本ブログに取り上げます
「大正期町家の子供の世界」は
このような時代なのです。
今からおよそ100年前の
大阪の町の探索を再開することにします。
次回は阿弥陀池のあたりから始めます。


究会代表 田野 登

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。