旅行記17 善光寺 | 戦車のブログ

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旅行5日目は長野市で迎えた。

 

この日はいろいろ予定があってスケジュールも詰まっている。

 

長野と言えば善光寺だ。

 

 

善光寺の本堂は国宝だ。

 

現本堂は宝永4年(1707年)の再建。

 

高さ約27メートル、間口約24メートル、奥行約53メートルで、国宝に指定されている木造建築の中で3番目に大きいといわれている。

 

檜の樹皮を用いて施工する檜皮葺(ひわだぶき)、撞木造りの屋根が特徴である。善光寺本堂は1953年(昭和28年)3月、国宝に指定された。

 

「牛に引かれて善光寺参り」という言葉がある。

 

意味は、思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。

 

また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ。

 

昔、長野の善光寺近くに住んでいた不信人で欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追っていくうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入ったという言い伝えからきている。

 

「一生に一度は善光寺参り」というくらい有名なお寺だが、最近はなんかすけべ坊主のニュースで有名になっていたね。

 

善光寺は古来より女性の信仰の対象でもあったのにね・・・。

 

 

善光寺は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。

 

 

日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。

 

 

 

山号は「定額山」で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。

 

 

「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。

 

 

住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。

 

 

 

友人は御土産を買うのに早速お買い物である。

 

友人のテーマは買い食いとか買い物らしい。

 

 

門前町での買い物や買い食いがしたいと言っていたからね。

 

 

まだ朝早く、門前町もぼちぼち開店していたくらいの時間帯であった。

 

車椅子を押しながらゆっくりゆっくり見て周る。

 

お互い善光寺参りするのはこれが最後だろう。

 

善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、扶桑略記では或記(引用した)として、「秦巨勢大夫」とあり、伊呂波字類抄では「信濃国人若麻續東人」と相違がある。

 

 

また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある。

 

 

また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡家隣接寺院、水内郡は金刺舎人)の1つという指摘がある。

 

 

天平勝宝8年(756年)唐の玄宗皇帝は楊貴妃の菩提を弔うため日本に使節を送り、信濃の善光寺に自筆の大般若経を奉納させたという伝承が残る。

 

 

鎌倉幕府の崩壊後は新政権側と反対勢力に地元豪族達が中先代の乱、観応の擾乱などの戦乱において、南北朝に二分して対立し、大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなどの争いが続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。

 

特に戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。

 

この後、善光寺仏は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。

 

通説では、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は善光寺別当の栗田氏と共に武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。

 

 

別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。

 

 

本尊は武田氏が織田信長に滅ぼされると、その嫡男・織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とし、1597年(慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年(慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。

 

 

この間大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが本尊に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。

 

 

江戸時代には、「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった。

 

 

友人の車椅子を押しながらいろいろ見ていたが、ある土産物屋に「孫の手」が売っていた。

 

 

200円と安価であったことから買ったが、私の分まで買ってくれた。

 

今かなり重宝している。

 

ぼちぼち店も開いてきた。

 

朝食もとっていないので買い食いでもしながら行こうということになった。

 

友人の事前りリサーチで「おやき」を食べたいという。

 

「おやき」は北海道にもあるが・・・・・。

 

 

北海道のおやきとはなんか違う。

 

中身も・・・・。

 

「なす?」

 

さっそく注文する。

 

出来合いのおやきを出して来た。

 

 

「なんだ・・・・」と思ったが早合点であった。

 

 

鉄板におやきを置き焼き始めた。

 

 

 

あっつあっつだ。

 

マジ熱い。

 

 

しかも想像していたおやきとは根本的に違う。

 

なすが中に入ってる美味しいよ。

 

これは初めて食べた。

 

 

他にもいろいろ買い食いしたが、黒バニラとか豆腐ミルクとかのソフトクリームも食べる。

 

豆腐ミルク・・・失敗した。

 

黒バニラの方が味が濃くて美味しかったよ。

 

だんだん活気も出て来た。

 

「みそフェスタ」とかいろいろ催し物も多く人出も増えた。

 

 

地元の高校生達による書道のパフォーマンスもあったり。

 

「一生に一度は善光寺参り」もこれで終わり。

 

 

次の目的地へ向かうのであった。