第一次エル・アラメインの戦い | 戦車のブログ

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1942年7月1日、第二次世界大戦の北アフリカ戦線、第一次エル・アラメインの戦いが始まつた日。


エル・アラメインの戦いは、第二次世界大戦における枢軸国軍と連合国軍の戦いである。



第一次会戦は1942年7月1日から31日に行われた。





ガザラの戦いでトブルク前面の陣地線(ガザラライン)を突破したドイツ軍は、1942年6月18日にはトブルク要塞を包囲した。



次に控えるエジプト侵攻を考えると、戦車部隊での突破は難しかった。






そこで航空戦力の支援の元、歩兵と砲兵による攻撃を主体とした。



十分な安全が確保された後、戦車隊を突入させた。



英軍に反撃の余力は無く、20日朝に始まった戦闘は21日朝には終結した。





これが英軍に与えた打撃は大きく、英軍はエジプト領内奥部のエル・アラメインに最終決戦陣地を敷いた。



エル・アラメインを占領されると北アフリカの主要な軍港は全て陥落した事となり、これにより輸送船による増援が不可能となるだけでなく、その先にあるエジプトまでもが征服されると、中東の産油地帯はドイツ軍に蹂躙され、同時期にソ連南部コーカサス地方を攻撃していたドイツ軍A軍集団に挟撃され、ソ連の油田まで占領されてしまう恐れがあった。



英軍にとって幸いなことに、エル・アラメイン南方に広がるカッターラ低地は、半ば干上がった湿地帯であった。


半ば干上がっていても湿地帯は湿地帯であり、塩水の沼地と生乾きの泥と泥が乾いた微細で底深い流砂は装甲車両の通行を阻み、ドイツ軍はそれまでの常勝策であった内陸部経由の戦略的な迂回を行えず、エル・アラメインへの攻撃を繰り返すしかなかった。





こうした状況の中でアメリカ軍の本格的な参戦が決定し、レンドリース法(武器貸与法)によってイギリス軍は米国から300輌以上のM4中戦車と大量の航空機の増援を受けた。


対してエルヴィン・ロンメル指揮下のドイツ装甲師団は連戦連勝を収めていたものの、補給の途絶えた中で初期とは見る影もなく消耗しており、戦車はドイツ製のものが90輌、イタリア製の旧式戦車が130輌で残りは鹵獲戦車であった。


アルベルト・ケッセルリンク


ロンメルはせめて弾薬と燃料の欠乏を解決する為に、イタリア軍総司令部と空軍司令アルベルト・ケッセルリンクに戦争継続に必要な物資と1万5000トン以上の燃料を輸送するよう約束させたが、輸送船の到着するベンガジ港から前線まで約900km、最寄のトブルク港からでも約450kmと離れており補給線が延びた為に時間がかかった。



トブルク港への輸送はマルタ島駐留の英軍を主力とする連合軍に制空権を握られていた為に輸送船は途中で撃沈され、東部戦線ではスターリングラード攻防戦が起きドイツはほぼ全軍を投じた為、北アフリカ戦線は二の次三の次とされ補給は一向に届かなかった。


こうした状態で、連合軍の大反攻が開始された。




前哨戦、アラム・ハルファの戦い


アメリカ軍の戦車を大量に陸揚げし、物量に勝る英軍は植民地徴収兵(オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・インドなど)に、エル・アラメイン前面から南へ向けて堅固なボックス陣地(Cf.ガザラの戦い)を敷かせた。






それに対し、ドイツアフリカ軍団(DAK)ほかドイツ・イタリア枢軸軍の司令官エルヴィン・ロンメルは、英軍陣地ラインはイタリア軍と歩兵に任せ主力の第15、21装甲師団をはるか南から長躯迂回(海岸寄りの地域には地雷や戦車用の罠が敷設され、強化された塹壕に兵士が立てこもっていたのでこうせざるをえなかった)させ地中海側から英軍を包囲しようと8月31日進撃を開始する。




英第7機甲師団の前衛にロンメルは猛攻を加えたが、奥行きのある広範囲の地雷原により攻撃の鉾先が鈍り、しばしば予期せぬ地雷に打ちのめされた。




そうして突破に手間取る間に、北からモントゴメリーが満悦の態で差し向けた英第8機甲師団の一部が、東からは第7機甲師団の主力が圧迫してきた。



一方のロンメルは、自分の部隊の燃料が枯渇しそうになるのを眺めていた(真の独立した大国になるには石油が足りないという戦前の不満材料を作戦行動のたびに思い知らされるので、皮肉な成り行きだった)。



そこでロンメルは当初の計画をあきらめ、第21装甲師団が防御しつつ第15装甲師団には、さらに迂回してアラム・ハルファ高地に陣取る英軍本陣を突こうとした。




しかし補給不足の中、必死に進軍する第15装甲師団の前に現れたのは敵本陣ではなかった。



英第22戦車旅団が立ち塞がり、ドイツ装甲師団は敗走した。





この戦いは防御側(英軍)が勝っただけではなく、反攻せずに、反攻を試みるような本気の動きさえせずに、防御のみで勝負を決した戦いだった。