皇族海軍軍令部総長 元帥海軍大将伏見宮博恭王 | 戦車のブログ

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実戦・実務経験豊富な博恭王はお飾りの皇族軍人ではなく、「潮気のある」一流の海軍軍人としての風格ある海軍軍人であったという。


伏見宮 博恭王(ふしみのみや ひろやすおう、1875年(明治8年)10月16日 - 1946年(昭和21年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。

伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢(なるかた)王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改めた。

日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。
また艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。


貞愛親王の第一王子・愛賢王として生まれたものの、貞愛親王の女房であった河野千代子との間に産まれた庶子であったことから、公家では嫡庶の序をより重んじた傾向に加えて明治以降の西洋との関わりにより一夫一妻制の西洋に倣うべきとの考えが広まったことから、伏見宮の継嗣としての対象から外されることになった。

このため、愛賢王の将来は決まっておらず、当時の皇室に関する太政官布告によれば将来的に臣籍降下し華族に列せられる運命にあった。

ところが明治9年(1876年)に愛賢王の伯父にあたる華頂宮博経親王が26歳で薨去、天皇特旨により博経親王の子博厚王が華頂宮家を継承したものの、その博厚王も明治16年(1883年)に僅か8歳で薨去。

明治天皇の特旨を以て華頂宮の存続を決定し、先ず博厚王を猶子・親王宣下により博厚親王とした上で、華頂宮自体の継承に関しては本家に当たる伏見宮から王子を充当し宮家を立てることに、行先の決まっていなかった愛賢王が華頂宮を継承し、同時に名を博恭と改めた。


華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学し海軍軍人としてのスタートを切る。

3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、ドイツ海軍兵学校からドイツ海軍大学校で学び1895年(明治28年)まで滞在した。

この間1894年(明治27年)に海軍少尉に任官され、海軍大卒業後には貴族院議員(皇族議員)に任じられた。

帰国後は巡洋艦や戦艦での艦隊勤務を重ね、このため後述する様に皇族とはかけ離れた行動様式や生活が身につくことになる。

1897年(明治30年)には徳川慶喜の九女・経子と結婚し、1903年(明治36年)に海軍少佐に任官されるが、翌1904年(明治37年)に華頂宮から急遽伏見宮に復籍し、第二王子で僅か2歳の博忠王が華頂宮を継承することとなった。

伏見宮復籍後も艦隊勤務での実績を積み、1913年(大正2年)8月31日に海軍少将に任官されると共に横須賀鎮守府艦隊司令官に就任。

更に海軍大学校長・第2艦隊司令長官などを歴任し、1923年(大正12年)に貞愛親王の死去に伴い伏見宮家を継いだ。


1931年(昭和6年)末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、1932年(昭和7年)2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である軍令部長に就任させた。

海軍軍令部長を、陸軍「参謀総長」と対応させて「軍令部総長」(「海軍」とつけない)と改めたのは伏見軍令部総長宮の時代である。

北原白秋作詞、海軍軍楽隊作曲による国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」も作られている。

海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉、嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進し、ついに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功して軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。

こうして日独伊三国同盟・太平洋戦争(大東亜戦争)と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。

太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。

二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治、真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。

この時昭和天皇の不興を買い、その後叛乱鎮圧に向けて動いている。

1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。

そしてこの対策は、急がなければならない。

戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した。

この「特殊な兵器」は特攻兵器を指したものであるとの主張もある。



1938年10月、長男博義王が急死。

さらに1943年8月、四男伏見博英が戦死。

しばらくして脳出血による右半身麻痺、心臓の病を抱え、熱海別邸で療養生活を送る。

敗戦直後、病躯をおして上京。

戦災で焼失した伏見宮邸近くの旅館で生活を送るも、1946年8月16日死去した。

当時の皇族軍人は実質的権限を発揮しないのが通例になっていたが、実戦・実務経験豊富な博恭王はお飾りの皇族軍人ではなく、「潮気のある」一流の海軍軍人としての風格を持っていた。

自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や、操艦の名手として関門海峡のような「船の難所」でも難無く艦を操るその実力は海軍内でも評価されていた。

皇族風を吹かせない人柄や、軍人としての実力・けじめを持ち合わせていた一方、昭和期の海軍トップとしては強引さや軽率さが目立った。


東郷平八郎とは『宮様と神様(殿下と神様)』と呼ばれ、海軍内で神格化されていた。

博恭王は大艦巨砲主義者であったので、博恭王の威光を利用した艦隊派の台頭を招くことに繋がった。

これについて井上成美は、皇族が総長に就くことで、意見の硬直化を招いたことを「明治の頭で昭和の戦争をした」と称して批判している。

博恭王の総長退任時に及川古志郎海相に意見を求められた井上は「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」「宮様が総長だと次長が総長のような権力を持つことになる」と手厳しく批判している。

これらのことから、海軍内の条約派を追放し、日米開戦の元凶になった一因となったとして、戦後は批判的な評価を受けることが多い。

海軍反省会でも博恭王の戦争責任について問題提起されたが、皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかった。

反面、博恭王自身は日米戦について「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。

ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という『早期決戦・早期和平』の考えを持っていたとされる。

艦隊派の重鎮であった博恭王とは反対の立場であった『欧米協調派・条約派』の山本五十六とは、日米戦について近い考えをしていたといわれる。


軍令部の権限強化を図るべく博恭王が主導した「軍令部令及び省部互渉規定改正案」に対し、井上成美は自らの軍務局第1課長の職を賭して激しく抵抗し、結果更迭された。

さらに横須賀鎮守府付となり、待命・予備役編入の危機にさらされた。

しかし大佐昇進後5年目にして戦艦比叡艦長に補され、艦長の任期通常1年のところを2年務めて少将に昇進している。

これは博恭王が敵であったはずの井上に対し、「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。次は良いポストに就けてやるとよい」と称讃したことによるものである。

海軍での生活や習慣が身に付いていた博恭王には、皇族らしからぬ逸話が残っている。

入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。

下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者から「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。

嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯と漬物という簡易な食事を好み、吉田俊雄「四人の軍令部総長」(文春文庫)によると、海軍省食堂での昼食時における博恭王の好物は天ぷらうどんだったという。

また、軍令部総長の在任が長い事に掛けて、海軍部内では特徴的な長い顔から「長面君(ちょうめんくん)」と渾名を付けられていた。


博恭王の岳父は徳川慶喜であったが、あるとき艦内で士官たちが幕末の議論をしていて誰かが徳川慶喜を激しく批判したことがあった。

博恭王は黙って席を立ったが、後にその士官が謝罪に来たとき、「いや気にすることはない、勉強になった」と声をかけたという。

また臣籍降下した四男伏見博英が1943年に戦死した際、戦死者合同葬で博英の霊位を最上位に置こうとした海軍当局の動きを止め、あくまで海軍の階級順とさせた。


伏見宮家家長として、傍系の宮家にも気をかけた。

久邇宮邦彦王が、その第一王子である久邇宮朝融王と酒井菊子との婚約を私事により一方的に解消させた事件があった。

これ以前に、邦彦王の第一王女である良子女王と昭和天皇との婚姻に関し、周囲の反対を押し切ってそれを成立させただけに(宮中某重大事件)、逆の立場に陥った久邇宮家への風当たりは強かった。

その中で博恭王は自身の娘知子女王を、朝融王の性質を言い含めた上で久邇宮家へ嫁がせ、皇室内の空気の引き締めに一役買ったと言える。

しかしその直後、朝融王は妻を裏切る形で侍女を懐妊させ、博恭王は久邇宮父子の度重なる不貞に強く心を痛めたという。