悪というものの役割を書いてから、さらに思考が発展しました。
この考察は扱い方によっては少し危険な見地かもしれないので、鵜呑みにして何かを判断する材料には使わないでください。
もし本質的に善悪が存在しないのであれば、善や悪はどのように生まれてくるのでしょうか。
それらが人の心の中にのみ存在するとしたら、どのように心の中で生まれてくるのでしょうか。
こういった疑問が生まれてきました。
それは、多くの人が悪を憎み、それをなくすべき対象として扱っていることから、その方法があるのかという疑問でもあります。
どう生まれるのかが分かれば、生まない方法もなくす方法も分かるかもしれないためです。
善と悪のような対立概念というのは、その双方が有ることによって成立していると考えられます。
つまり、悪があるからこそ善が有り、善があるからこそ悪も有る、ということになります。
それは、一方がなくなれば、もう一方も無くなることを意味するでしょう。
そして、これらが見かけのものであるなら、等量でバランスしている必要があるでしょう。
悪が生み出されたなら同じだけ善も生み出され、善が生み出されたら同じだけ悪も生み出されるということです。
なぜなら、もし相殺できないとすれば、本質的に存在するものであり見かけのものではなくなってしまうためです。
そうであるなら、個人個人の中にある善悪も等量である可能性が考えられるでしょう。
それは、自分を善人と思っているだけ悪人の要素を持っていて、自分を悪人と思っているだけ善人の要素を持っていることを意味します。
そして、その中の自分としたいところを自分としているのかもしれません。
自分を善人と思いたい人は、自分の悪人の側面を意識化せずに、自分が善人であるというアイデンティティを構築しているのかもしれません。
もしそうであるなら、自分の中にある善と悪をすべて自分のものと認めてしまえば、善と悪は自分の中から消えてなくなることになります。
もしくは、自分の善と思っている部分の悪の側面をとらえることで意識化されて、善悪の価値観から解放されるかもしれません。
世にはびこる悪は、自分のものとして認められない悪が現象化したものであり、 多くの人が自分自身の意識化されない悪を知覚することによって減少するのでしょうか。
2013.12.15 16:55 谷孝祐