悪というものの役割 | 3年前のしこうの楽しみ

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世の中では善悪で物事が判断されることは一般的かもしれません。
しかし、本質的に善悪は存在しないという話もあります。

もしそうであるならば、善悪というものは見かけ上のものということになるでしょう。
もしくは個人的な価値判断の中にのみ存在すると考えられるかもしれません。

通常、善悪の判断の対象となる行為が存在し、その上位概念として存在への善悪の判断があるように思います。
ところが、その行為は意識化されずに存在への善悪の判断にいきがちなことも事実なように思います。

例えば、万引きしている少年を見かけて、その少年を悪だと見なしてしまうようなことです。
罪を憎んで人を憎まずと言われるように、本来は万引きという行為に悪を見るべきかもしれません。
もしくは少年の中にある悪心を悪ととらえることもできるでしょう。

とはいえ、本質的な見地からいけば、これも個人的な価値判断であり見かけ上のものとなります。
ただ、多くの個人がそれを悪と判断する傾向があるというだけです。
それでも、少年の存在そのものを悪としてしまうことは往々にして起こりえます。

それは、多くの人の中にそれを悪と判断する何かがあるということを意味するでしょう。
価値判断というものが自分の内面の投影であるあるならば、 自分自身にそれを悪と言い聞かせて行わないようにさせているかもしれません。

それはある種の自分が作り上げている囚われです。
そして、それを気づかせるために、少年の万引きのような見かけ上の悪が表出してくると考えることもできます。
それは、悪に見える行為を自分が生み出していることにもなりえます。

そして、気づきを与えるという見地において、その万引き行為は善ととらえられなくもないわけです。
この論理を理解できると、自分の世界に悪が存在しなくなり、不合理な現象は気づきを得られる感謝すべき対象となるでしょう。

そうなれば、自分の中にある囚われがなくなっていくのではないでしょうか。

2013.12.14 00:27 谷孝祐