「 高麗唐 」 | 【(有)種亀ブログ】私、もなかの皮屋の六代目見習いです。

「 高麗唐 」

前回の続きです。

もうここまで来たらとことん参りましょう。
ここまで掘り下げて駒形由来について書くこともなかなかありませんので。

駒形・浅草関係者の方にはきっと何かの参考になるかと思いますので、
長いですが是非お目通しいただけると嬉しいです。

夏休みの自由研究を早々に終えた気分!




まず、現在提示されている三説について
「なんか解せない・・・」と思うところを述べます。


<<①>説について思うところ>

  隅田川を船で上下しながらこの堂を見ると、
  まるで白駒が馳せているようなので”駒がけ”といった。
  それが”駒がた”に転化した。(江戸名所記説)

浅草寺HPによると、駒形堂が建立されたのは942年だそう。

942年当時、浅草は辺境みたいなところであったと思われますので、
「隅田川を船で上下しながらこの堂を見ると、
 まるで白駒が馳せているようなので”駒がけ”といった。
 それが”駒がた”に転化した。(江戸名所記説)」
なんて風流なことが言われるとは到底思えません。

江戸時代なら考えられますが、
江戸時代に駒形堂と名付けられたわけではないでしょうから、
この説は自ずと時代錯誤じゃないか、と見れなくもありません。

また、この説は「駒ヶ岳」などの名称由来に酷似しています。
山肌の雪渓などが、白い馬が駆けている様に見えることはあると思いますが、
あのお堂を、馬が駆けているように見えたとなると
恐ろしい想像力、いや幻覚を見ているとしか思えません。

おそらく「こまがた」という同じ名称ということで、
由来のいわれを模倣したのが、真実味を帯びたのではないかと考えています。

本尊の馬頭観世音菩薩についても、
この「駒」から連想させる馬の仏様を配置しただけではなかろうか。


<<②>説について思うところ>

  観音様へ寄進する絵馬を掛けたので
  駒掛け堂と名付けたのが訛った。(燕石雑誌説)

そもそも駒形堂が絵馬を奉納するために建立された建物でないことは明らかです。
譲って、絵馬用の堂だとしても、
あの大型の絵馬を何枚も掛けておくには堂の規模が小さすぎます。

「寺に奉納する四角い絵馬」には馬(絵の馬なので)がよく描かれますので、
「駒の絵馬をかける堂」と言えなくもないかもしれませんが、
なんにせよそれには堂自体が小さいと思います。

一般的な五角形の絵馬を奉納させるのであれば、
ここまで本堂から離す必要はないと思います。


<<③>説に関して思うところ>

  駒形神を相州箱根山から観請したのにちなむ。(大日本地名辞書説)

山岳信仰の対象である「駒形神」をこの地(漁村)に奉る理由がありませんし、
浅草寺(仏教)が新しい堂を建てるという際に、
箱根から神様(神道)を勧請するとは思えません。

それに「駒形神」は現在どこにもおらず、「馬頭観音」が祀られています。

神社が寺になったり、寺が神社になったりする例はいくつか在るようですが、
その様なことがこの駒形堂で起きていればもう少ししっかり、
その辺りの伝承は残っていると思われます。




そこで!!!


私が提唱する仮説は「高麗唐(こま・から)」説です。


<まずは"こま"について>

西暦668年に唐・新羅に滅ぼされた高句麗の亡命者が定住していたという説のある
神奈川県大磯にある山を「高麗山(こまやま)」と呼んでいるそうです。

「箱根権現縁起」によると、
大磯に定住していた高句麗人は、開拓の範囲を箱根にまで広げていき、
1,327mの山上に「高麗権現」を祀った。
高麗権現を祀った山が箱根の高麗ヶ岳になり、後に「箱根駒ヶ岳」となったという。

その後、点在していたこの亡命者達は朝廷により716年、
現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる地域に、
武蔵国高麗郡として移住させられました。

埼玉県日高市には現在も「高麗神社(こまじんじゃ)」が鎮座し、
高麗川が流れ、「高麗山聖天院」という寺院もあるそうです。

(因みに、狛犬も「高麗から渡来した犬」が語源とする説あり)



<"から"について>
群馬県にある赤城山(駒ヶ岳も含まれる)を祀る赤城神社には、
源実朝が詠んだとされるこんな歌があるそうです。

上野の 勢多の赤城の からやしろ やまとにいかで あとをたれけむ[金槐集647]

赤城神社は渡来系の神社と呼ばれており、
「からやしろ」の部分は「唐社」や「漢社」「韓社」と読む見方があるそうです。
いずれにせよ、「やまと(日本)」に対しての「から(異国)」なんだと捉えます。


そうなると「こまから」という響きは当時の人間にとって、
想像を超えた異国を想起させるものとなるでしょう。

見たこともない仏像が引上げられた浜は、まさに異国との接点。
そのことからこの浜を「高麗唐」と呼ぶに至ったのではないか、と言う仮説です。


この仮説のポイントは、
 "駒形堂があったから"駒形という地名になったのではなく、
 "堂が建つ前から、この土地は駒形と呼ばれていた"と
仮定している部分にあります。




ついでに申しつけ加えると、現在伝承されている、
”桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁をしていたところ、
 なぜか網を投げる度に毎回同じ一寸五分くらいの人型の像が網にかかり、
 それが今の浅草寺ご本尊である。”
という言い伝えを私は懐疑的にみています。

なぜ腑に落ちないかというと、
まずこの当時の「網」がそんなに高性能であったのかということです。
一寸五分というと約5.5cm。
長辺が5.5cmなので、短辺はせいぜい2cmくらいの仏像でしょう。
それを毎回釣り上げられる目の細かさの網を、
こんな辺境の漁師が所有していたとは到底思えません。


また、そんな人型の人工物を入手したら一般的には捨てないと思います。

そこには何度も捨てる理由があったはずです。

私はそれを、「極彩色の得体の知れない人型の"なにか"」
であると考えています。


当時、高句麗や唐から渡ってきた仏像は、鮮やかな色彩を保ち、
見たこともない発色をしていたと思います。
しかも、人型です。
川から引上げて極彩色に塗られていれば木製だとは気づかないでしょう。

目を閉じていたら、眠っている"なにか"と思ったかも知れませんし、
起きて暴れるかも知れないと危険を感じるかもしれません。

それであれば、捨てますよね。


現代に置き換えて言えば、
「生命体の様な形をしていて、内側で淡く脈打つように発光している
 地球上のものとは思えない"なにか"を拾った。」
というレベルの出来事です。
現代人でもこれを拾ったら怖くて捨てると思います。


毎回同じものを拾ったというのも解せないです。

豪雨により上流の寺院が流され、数体の観音像が流出。
毎回違う仏像を引上げていたが、あまりに怖くその都度捨て、
何体もかかるので最終的に、安全そうな小さなものを引上げた。

というのが、自然な解釈なんじゃないかなと考えています。


なんにせよ、当時の人々が、
この人型で得体の知れないものが異国人の作った「仏像」だと分かれば、
驚愕もするでしょうし、強烈な憧れを抱くと思います。


そこで示現の地に、「こまから」と名付け、
その日の感動をいつまでも残そうと思ったのではないか。
そしていつしか「こまかた」と訛り、
現在の「こまがた」になったのではないか、
という妄想に至ったのです。

そうであれば、もともと「こまかた」と清く発音するという伝承にも沿えます。



と言うわけで、この分かりにくい妄想を
少しでも皆様にお伝えしたく、小説仕立てにしてみました。


次回、妄想小説:浅草駒形縁起をお送りいたします。

あと1回、どうかお付き合い下さい。

私の今持つ知識の中で作った空想話ですので
間違っている部分もあると思いますが、
「まぁ、確かにそうかもしれないねぇ。。。」と思っていただけるかも知れません。



「 怖いもの見たい年頃唐辛 」