現在は物語の主役という意味で使っていますが、
もともとは「禅」の中で使われている言葉で意味も違います。
本来は「自我を主張しないで没頭する」という意味なのです。
例えば蛇という生き物は岩場であろうと木の枝であろうと、
自然界の形に自分を合わせながら進んで行きます。
つまりどんな役にも成りきれることこそが、
主体的な人格であると「禅」では考えられているのです。
俳優の仕事こそまさにこれです。
俳優が自我を主張したのでは、
「役」に成りきることは出来ません。「小我を捨てる」
そして「大きなものに自分を溶け込ませていく」
誰かを羨んだり恨んだりしているときの、
心の状態はとても不自由です。
究極の受け身こそが心を自由にしてくれる。
演技だけでなく人生にも共通した極意のように感じます。