阪神大震災の日~私の防災への思いの原点
14年目の阪神大震災の日です。
被害の要因としては天災半分、人災半分の大災害でした。
人々にもっと備えがあれば、もっとまちづくりに備えがあれば、そして、自衛隊がもっと早く動けていたら・・・。
早朝6時過ぎに大阪の親戚から入った一本の電話。
「大きな地震があった。念のため明石(私の父母が住む町)に電話したら?」
そして、早速電話すると
「二人ともタンスの下敷きになった。しかし、無事だ」
父母の無事のみ確認し、しばらくすると一切電話は不通になりました。
翌日も翌々日も全く電話の通じない中、親戚の無事も確認できません。
数日後、ようやく電話が通じたため会社を休んで実家へ向かいました。
鉄道網はズタズタで、阪神電鉄の青木という駅から先は電車が不通だったため、そこからJR須磨駅までは徒歩でした。
徹底的に破壊された空襲後のような神戸の街をほぼ日中ずっと通して歩きました。
高校生の時、いつもうろうろしていた神戸三宮の街はいたるところが廃墟でした。
なぜか被害の少なかった元町の親戚宅を経て、たどりついた実家は全損(全壊とは違い、簡単に言うとボロボロだけれど立っている状態)でした。
その時に見た様々な光景と実家での経験、父母など親戚の話が、私の防災に関する考え方に大きな影響を及ぼしています。
将棋倒しになった古い木造家屋を見たことから、一軒でも耐震性に問題があると近隣への影響が問題、と考えたり、一本の木によって火の勢いが止まったところを見たことから、防災と樹木との関係(大木の大切さ*)を考えたり…。挙げるときりがありません。
そして、今でも思い出すのは震災後は元気に動き回り、必死で生活再建に努めていた叔父の震災疲れによる死でした。場合によっては彼は死ななくても済んだのではないか、などとも思います。
いつもこの日がやってくると、政治が、自治体が防災について出来ることを突き詰めて考え、施策に生かしていきたい、そんなことを再認識し、決心するのです。
犠牲者や、灰燼に帰した貴重な文化財、大量のゴミとして廃棄された人々の思い出の品々とともに。
いつもこの時期になると思いだす光景があります。
灘区のある通りにあった完全に崩れ去ったアパートと散らばる年賀状。その前のゴミの山にあった人形。本当は家にあって人々の暮らしとともに、思い出として蓄積されたはずのものがあっさりゴミとなってしまう現実(ゴミの山の中の人形は須磨区でも見つけました)。
あの家の人々がどうなったのかはわかりませんが、あの光景は鮮やかすぎていつまでも忘れることができません。
とりあえず、家具の下敷きにならないための備えなど、身近なところから、防災についてご一緒に考えませんか?
*地域の在来の巨木がもっとも延焼を防いだ、との調査報告もあるようですね。