私版 龍馬伝 7 | 明日出来る事は今日やらない!

私版 龍馬伝 7

こんにちは。
















さて、今回は




河田 小龍と、ジョン万次郎について・・・




と思っていましたが、




ここ数回の『龍馬伝』観ていて、少々感じた事を




書きたいと思います。














それは、




非情に脚本家の人の意図を感じてしまうという事です。








例えば、「戦になったら、異人の首を打ち取って帰国する」




という内容の手紙を、龍馬の本心ではないという辺りや、




黒船を見た龍馬が、剣術修行に疑問を持ち、




攘夷=外国を追い払う事をムリだと思ってしまったりとか、






そもそも、自分は何が出来るのか?とか、




日本云々という辺りが、




脚本家が後年の龍馬を意識しすぎている様に感じちゃうんですね。










この時代、 国  と言えば自藩であり、




日本 という意識が出てくるのは、




海外の列強諸国の脅威が




現実味を帯びてからだし、






厳しい身分制度の中での差別や




人よりも劣っていた少年時代の経験から、




何が出来るか悩んでいた龍馬が、




やっと見つけた希望の光が剣術なんですね。




当然、それで身を立てようと思っていたし、




当時、家督を継げない武家の次男は、




他家に養子へ出るか、剣術道場でもやる他なく、




龍馬や家族も、それに賭けていたんです。






また、剣では黒船に勝てないと言うのも、




龍馬は柔軟な考えを持っていた、




と思わせよう、みたいな意図をやはり感じてしまいました。






この当時の一般の武士は、文明の差をモノともせず、




剣で十分に戦えると信じていました。




だからこそ、下関戦争や薩英戦争が起きるのですが、




この時点での龍馬も、やはりそういった侍の1人でした。








龍馬は確かに、柔軟な感性の持ち主だったと思います。




剣で攘夷を果たそうとしていた人間が、




様々な人と出会い、様々な考えを聞き、




そうして、独自の道にたどり着き、歩いたのがすごい所なワケで、






龍馬は、いかにして龍馬になったか?






という、その変化していく様が




龍馬の大きな魅力のひとつだと思うのです。








そう考えると、どうも拡大解釈とか、こんなふうに視聴者を持って行こう、




みたいな意図が見え見えなんですよね~。








前作の『天・地・人』でも、




直江謙継の兜の 愛 という文字を、




人間愛とか博愛みたいな解釈していて




がっかりしたのですが、




『龍馬伝』は1話が良く、メイクや着物などにもこだわりが感じられ、




その分、期待していただけに、






やっぱり来るか!?






とがっかり感も大き目です。












頑張ってほしいなあ~・・・・。