クールジャパンではなく、ウェットジャパン | 作家・土居豊の批評 その他の文章

クールジャパンではなく、ウェットジャパン

クールジャパンではなく、ウェットジャパン

 

 

※参考

NHKクローズアップ現代プラス

2017年6月7日(水)2兆円↑アニメ産業 加速する“ブラック労働”

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3987/index.html?1496742159

 

 

 

上記の報告を見るにつけても、

クールジャパンは、見事に利権政治を栄えさせただけで、昭和に築かれたアニメ・漫画・サブカル文化の遺産を全て食い尽くしてしまいそうだと感じた。2020年の後、日本には何も残らない、という話になりかねない。

 

だが、

クールジャパンなどと言いながら、今の日本のアニメにせよ小説にせよ、「泣ける」のじゃないとヒットしないみたいだし、ウェットジャパン、だなあ。やっぱり日本の売りは、演歌かな。

 

自分自身は「泣ける」作品はあまり好きじゃない。特に、映画館でみる作品、家でテレビでみる作品で「泣ける」作品は困る。そういうのは、一人こっそり、DVDで見たい。小説も、あまり泣けるものは、読む場所を選ばなきゃいけないから困る。だいたい、「泣ける」と宣伝しているのに限って泣けない。

 

それよりは、本当にクールな作品を観たい。

例えば、アニメなら昔の富野作品、押井作品、のような。あるいはファーストルパンのような。

小説なら、日本では小川国夫のような。欧米ならロス・マクドナルドのような。

 

小説であれアニメであれ、「泣ける」作品の「泣ける」というのが可能の意味ではなく自発の意味なら、素晴らしい。だがそういうのは、万人には通じない。ごく少数の人に、ダイレクトに届く性質の事柄だと思うのだ。自然に泣けるというのは、極めて個人的、私的な心の動きだからだ。お涙頂戴ではない。

 

私の場合、ある作品で「泣ける」(自発)のは、なんでもない場面、なんでもないセリフが自分の記憶を呼び起こしたり、心の奥にすっと入ってきたり、そういう時に泣けるのだ。音楽でも絵でもそうだ。それは狙ってやれることではないと思う。

だから、世間的には「泣ける」という評判ではない作品が、私にとっては宝物のような作品となる。

例えば、

いや、これは言わないでおこう。

 

ところで、育児を体験してから、子供たちの歌う場面(フィクションでもリアルでも)と、ある特定のアニメの場面をみると条件反射的に涙が溢れてしまう。それは自分が子供と共に過ごした時間への感傷。子供が大きくなるにつれて、そういう場面は少なくなる。

そんなわけで、映画館でポケモンやプリキュアを観て泣いているおっさんを見つけても、声をかけないでくださいね。