takam16の本の棚
です。バーチャルですが......


読書週間とは、
出版社、書店、問屋、公共図書館の後ろ盾により
60年近く前から行われている読書普及運動の一環である。

その期間は、10月27日 ~ 11月9日。

よって現在はその真っ最中であるし、それについて合点のいかない
出来事があったということを前回の記事(クリック
)でも触れた。

この読書週間のスタートの日、つまり10月27日は同時に

「文字・活字文化の日」

でもある。文字・活字文化振興法という今年から施行された法により
定められたものだ。第11条にそのことについて述べている。

法律をクリック



11月3日の文化の日に休館する図書館の話を前回したが、10月27日
を休館にする図書館はおそらくないと思われるが、興味があったら調べて
もらいたい。
また、将来にわたり10月27日を休館日にする図書館もないと思われる。
それが定められた曜日であってもだ。例えば月曜日を休館にする図書館が
あった場合、10月27日が月曜日であったとしても休みは禁物ということだ。



さて、10月27日が開始日の読書週間。出版社、書店、問屋、公共図書館
にプラスしてもうひとつその役割を担うところがある。マスコミである。
そして特に新聞は、それ自体が活字であり、また新聞の購読数が冷え込みつつ
ため、力の入りようは尋常ではない。
活字文化の衰退は同時に新聞の部数減につながりかねない。
また、各社出版部門をかかえている。
つまり、死活問題である。

10月27日、つまり読書週間の開始日の新聞をちょっと見てもらいたい。
いくつかの新聞が、読書にまつわる特集を行っている。

その中でも個人的にお気に入りなのは、

毎日新聞による「読書世論調査」 である。
これに関しては10月26日に記事にしている。

ちなみにtakam16はサンケイ新聞購読者だ。しばしの浮気を許してくだされ。


どんな調査をしているかというと、簡単に言えば

「どれだけ読書をしているか」

である。そのついでに新聞やテレビ、ラジオにまつわる調査、そして
おそらくこれが最も力を入れていると思われるのだが、
新聞社が注目しているであろう世間のここ1年の動きをピックアップして
特集として記事にしている。


まずは定番の「どれだけ読書をしているか」だ。

毎月どれだけ読書をしているか、冊数の調査である。

単行本   0.8冊 (昨年は0.7冊)
文庫・新書 0.6冊  (昨年は0.6冊)

なお、1冊も読まなかった人の割合は50%を超える。

ここで言えるのは、冊数の多少にどれほどの意味があるのか、
例えばためにならない、印象に残らない本を月に10冊読むのと
非常に有意義であった本、将来役に立つであろう本を1冊読むのとでは
比較した場合果たしてどうであるかという点である。

よく、目標を月10冊やれ年間100冊やれ決める方を見かけるし、友人にも
多いのだが、冊数で評価されるのであれば、この調査、困り者である。
非常に易しい本なら20冊でも読めるだろうし、新たな知的分野にチャレンジ
するなら1冊読むのに数週間を要する。
数字にはあらわれない中身の方が気になった。


その他のジャンルの調査もあった。

週刊誌      1.4冊 (昨年は1.2冊)
月刊誌      0.7冊 (昨年は0.7冊)
マンガ      1.0冊 (昨年は1.0冊)
ビデオ・DVD  1.5本 (昨年は1.1本)




また、総合読書率という調査があった。これは
書籍・雑誌のいずれかを読む割合なのだが、

読む   71%
読まない 28%  

であった。
年齢別では、70代の読書率49%、20代の86%以外の年齢層では
低下傾向が見られたようだ。

ここで気になる点は、ある程度高い年齢層になると、読書率は下降するという
ことである。これを活字離れの理由のひとつに挙げる例をどこかで見たことが
あるが、高齢化と読書率の低下には自身ではどうしようもない健康上の問題、
特に老眼の問題がある。
どれだけ読書が好きだと言っても、その期限には限りがある。
老眼が始まると、正直あの米粒のように散りばめられた活字には正直うんざり
することであろう。


読書世論調査の話はこの記事では納まりきれないため次回に持ち越すが、
ここで一度考えをまとめておきたい。

現在の日本において、教育分野での凋落をよく耳にする。
実際、諸外国との比較において確実に低下傾向のデータも新聞等で拝見した。
戦前も、そして特に戦後においては

「読み、書き、計算(そろばん)」

の徹底的な教育が日本を支えてきた。
お年寄りにわからない漢字の読み方を尋ねれば、だいたい的を得た答えが
返ってくる。人生経験の蓄積もあるだろうが、教育の力も確実にある。
また、今日の日本がアメリカに次ぎ世界第2位の力を誇るようになった要因の
ひとつは団塊の世代と言われた昭和20年前半に生まれた方による部分が
大きい。彼らももちろん

「読み、書き、計算(そろばん)」

という基礎教育を受けて今日に至る。

その中で、「読み」、そして「書き」は漏れなく読書により培われてきたもの
であると多くの人は考えている。

物書きが本業の斉藤美奈子氏の著書、「趣味は読書。」(関連記事はこちら
) 
において、著者は読書をする人のタイプを4つにわけている。

斎藤 美奈子
趣味は読書。
「偏食型の読者」.... 特定のジャンルしか読まないタイプ。 「読書原理主義者」... 本であればなんでもいいし、本なら何でも読めと強要までするタイプ。 「過食型の読者」... 読んだ本についてあれやこれやと論評し、頼まれもしないのにネットで           読書日記を公開するタイプ。 「善良な読者」... 本の質や内容までは問わず、「感動しろ」といわれれば感動するし、 「泣け」といわれれば泣き、「笑え」といわれれば笑うのが欠点で、 趣味の欄にも「読書」と書き、「本を読むのが唯一の楽しみで」と 臆せず自己紹介するタイプ
その中の「読書原理主義者」に当てはまる人物として、まわりくどい記述ながらそれが 齋藤孝氏であると述べている。 ちなみに齋藤孝氏は教育者である。そのため、読書文化の衰退を憂えている。なぜなら 日本の学力低下の原因を活字離れに求めているからだ。 著書「読書力」などはその最たる1冊だ。
齋藤 孝
読書力
一方で、読書は趣味程度にしておけという意見もある。念のため補足しておくが 「趣味は読書。」は決してそういう主張の側に立つものではない。 いろいろと思案するのだが、 読書は本の冊数や、量や読む時間の長さで評価されるべきものではない。 その質や姿勢で読書のあり方は決まる。 特定の作家や評論家の本を続けて読むと、語らうネタが増える。 1つのの事件や出来事についてさまざまな角度から読むべく、いろんな 著者のものを読むと物に対する視野が広がり、それは教養への第一歩となる。 小説、エッセイといった分野にわけて集中して読むと、構成や展開といった 細部に気づき、書き手の特徴を理解し、書き手同士を比較することができる。 これらに映像や実体験と重ね合わせるとその興味の度合いや教養の精度は 確実にUPする。その順番が逆であっても同じである。 また、本の再読は頭に記憶されることがしばしばあり、注目すべき点である。 同じアニメなどを何度も見ていると、確認しなくてもセリフがスラスラ 出てくることがある。音楽もそうだ。本だって同じことである。 誰でも簡単にできるものに限って、格差というものは広がりやすい。 読書はある程度の教育を受けていれば、誰にだってできることである。 問題は、「読書の前」であって、「読書の後」である。 ここにこだわりを持てるか持てないかの違いは非常に大きい。 「読書の前」では、なぜその本を読むことになったかという部分が 大切だ。別の本を読んだからや、人やメディアの紹介もよい。 ふらりと立ち寄った本屋で偶然見つけたという理由も十分大切だ。 「読書の後」とは、本を読んだ後に得るもの、感じるものである。 日記なりブログなりにその足跡を残すのは間違った考えではない。 なぜなら、書くことで脳は活性化するからだ。記録することで引き出しが増え、 もしかしたらそれが役に立つ日がくるかもしれない。最良なのはよい意味で人生の 方向転換が本によってできた場合だ。 「本離れ」、「活字離れ」というものは、数字で語りたくても語りきれない ものがある。 読書週間の目的は「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」 である。 本と共に日本は成長し、一時は停滞しながらも再び成長しようとしている。 それは確かに「教育」としての読書であろう。 しかし、同時に「文化」としての位置づけも読書週間は求めている。 「文化」というものは、例えば読書であり、芸術鑑賞であり、スポーツであり、 料理であり、それらは楽しいものであることが肝心だ。 世論調査で語られる数字は調査の発表日が読書週間の開始日であるにも かかわらず、「教育」「文化」がごちゃまぜになっている。 また、利害の絡む出版社や書店に向けられた印象も強い。 読書週間の期間ぐらい、「文化」としておもしろおかしく読ませる工夫が あってもよさそうだ。いきなり気持ちを暗くさせるのは、「文化」としては ふさわしくない。数字を見せつけられて、「教養」を感じることができるなら まだしも、「強要」を感じさせるようなものであるなら、 文化の定着に支障をきたす。新聞広告の宣伝文句を見ていた方がまだ楽しい。 なんだか記事のタイトルと自分の考えが180度違っている。 次回の更新ではその角度を元に戻す工夫をさせてもらおうではないか。 つづく......