「寂しさ」の正体 | 12枚の羽根の歌

12枚の羽根の歌

生きることは踊ること!

ビオダンサ・ウィークエンドから数日。
抑圧から人を解き放つようなワークはみんなそうだけど、
ビオダンサも、たくさんの至福を感じると共に、抑圧されていた感情が表に出てきたりもする。
なぜなら、ビオダンサは人を本来の自然な欲求(命を育む方向)へつなげてくれるものだから。


いつもそうだというわけではないんだけど、
今回は「寂しさ」が、後からすごく出てきた。

それはやむにやまれぬような感覚で、
今すぐ抱きしめてもらいたい、
今すぐそばにいてもらいたい、
みたいな感覚。

10代の頃はそれこそ切実に感じていて、日記に毎日「寂しい」って書いてたような気がする(当時、ブログとかなくてよかった! すごく恥ずかしいものを公開してしまったかもしれない・笑)。


ビオダンサに出会ってわかったことは、
私たちが生きる現代文明は、けっして人と人とのつながりやあたたかさを育む文明ではなかったのだということ。
だから、愛や祝福や肯定感について体験する「教育」が必要で、ビオダンサの創始者ロランド・トーロは生涯をかけて、それに情熱を捧げたんだ。

……てなことを頭では理解しつつ、
じゃあ今のこの「寂しさ」をどうしよう? と、いい年をした大人の私は考えるわけです。


大人になると、
まして、子どもがいて家事も仕事もすることになると、寂しがってるひまがない。
なかった。だって、目の前に、やらなきゃいけないこと、世話をするべき命があるから。

でも、それは、「寂しさ」を感じないようにするために、あえて忙しくしてたのかもしれない。
(いや、すべてがそうだというわけではもちろんないんだけれど、そういう部分があったことは確か!)


きのう一日その「寂しさ」を味わってみて、
夜もまだその感覚があったので、そこでカムイ・アーツの出番になったのです。


いつもの舞をした後で、「寂しさ」の魔法陣に入ってみることにする。

 *カムイ・アーツで扱う「魔法陣」は、図を描いて召喚したり封じたりする種類のものではなく、ブロック感覚(「拒否」の身体現象)を使って、対象を「受け容れる」もの。「虚」の性質を持っていて、私の経験上は、「魔法」としか呼べないような体感・意識の変換が起きたりします。統合へ向かうものです。


 「寂しさ」と設定した魔法陣に入ったとたん、
 身体の中が液状化した。固体だったものが、ゆらゆらになっていく。そして、皮膚の内側が、「満ちた」。

 まさに、ひっくりかえった感覚。

 というのは、「寂しさ」を感じていた時は、自分の中は不安定で空虚で、外に何かを求めていたから。
 自分の中は「虚」だったから。

 それが、身体の中が水で満たされて、にわかに、自分の内部が「実」だっていう意識になった。

 と同時に、土踏まずから揺らぎが伝わってきて、全身に波及しはじめた。


 なぁ~んだ、
 ライト・サーフィンじゃないですか!


 心地よくて、自分でいることが嬉しくて、ひとしきり波に身を任せてた。
 水で満ちた自分の身体を感じながら。



 それでね。
 その状態でいると、人からのあたたかい気持ちも、とっても素直に、伝わってくるんですね。
 ああ、あんなに想っていてくれたんだ、嬉しいな、とか、
 あたたかいなぁ、とか。


 そうか。水は、伝えるんだったっけ。
 身体の中がちゃんと水の状態になっていると、あたたかさや良い想いも、伝わりやすい(感じやすい)んだ。


 「寂しい」時の、あの自分の中が空虚な感じ。
 それは、あえて、いちばん欲しい満ち足りた感覚を、感じにくいようにしていることなんだ。

 満たしてくれるものを外に求めるのではなくて、自分の身体の状態から、取り組むことができるんだ。
 

 ああ、こういう気づきがあるから、カムイ・アーツって大好き!



 ビオダンサのワークショップに出ると、自分が何を(誰を)愛してるかってことが強くはっきりわかってしまうものだけれど、
 「ビオダンサ愛してる!」はもちろん、「カムイ・アーツ愛してる!」も、とてもはっきり感じたんだった。


 ビオダンサは、ダイナミズムの中で至福へと導いてくれる。
 カムイ・アーツは、自分と向き合うための精妙な方法。


 私の人生を豊かにしてくれている2つのものについて、書きました合格