岩國哲人 元出雲市長に泣かされました……(>_<) | 日本元氣計画!! 中村たかし

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 7歳より「世界を平和に出来るのは俺しかいない!」と世直しを志す。日本新党広報部次長(細川護熙首相)、日本創新党選対副委員長など。現在は、日本元氣計画!代表、平成立志社代表、元氣NIPPONプロジェクト事務局長              

岩國哲人 元出雲市長に泣かされました……(>_<)

 10/15の天声人語に私が昔、秘書をさせていただいた岩國哲人さんのことが書かれていました。厳しいけど温かい人…の原点を見た思いがしましたのでご紹介したいと思います。 

朝日新聞「天声人語」10月15日朝刊
『早くに父が亡くなり、家には新聞を購読する余裕がなくなった。好きなのでなんとか読み続けたい。少年は新聞配達を志願した。配った先の家を後で訪問し、読ませてもらおうと考えたのだ▼元島根県出雲市長で衆院議員を務めた岩國哲人(いわくにてつんど)さん(78)の思い出だ。日本新聞協会の新聞配達エッセーコンテストの大学生・社会人部門で今年、最優秀賞になった。題して「おばあさんの新聞」▼小学5年の時から毎朝40軒に配った。読み終わった新聞を見せてくれるおじいさんがいた。その死後も、残されたおばあさんが読ませてくれた。中3の時、彼女も亡くなり、葬儀に出て実は彼女は字が読めなかったと知る。「てっちゃん」が毎日来るのがうれしくてとり続けていたのだ、と。涙が止まらなくなった……▼岩國さんはこれまで新聞配達の経験を語ってこなかった。高校の同級生で長年連れ添った夫人にも。しかし、今回、おばあさんへの感謝の気持ちを表す好機と思い、応募した。「やっとお礼が言えて喜んでいます」。きのう電話口で岩國さんはそう話した▼70年以上、朝日新聞を読んできたという。市長時代には本紙オピニオン面の「私の紙面批評」欄を担当し、当時の政治に関する社説を厳しく批判したこともある。きのうも「思い込みや独善が一つの欠点」と、本紙への苦言を頂戴(ちょうだい)した▼新聞週間がはじまった。失った信頼を取り戻すため、身を切るような出直しに取り組む覚悟を新たにする。岩國さんの叱咤(しった)を肝に銘じつつ。』

その全文を発見しました。
(日本新聞協会は、「新聞配達の日」「第21回新聞配達に関するエッセーコンテスト」=新聞配達に関するちょっといい話、日ごろ感じていること、心温まるエピソード、新聞配達での経験、「こうしたらいいな」と思っていることなどを400字程度にまとめ送ってください。)

『おばあさんの新聞』 岩國 哲人(78歳) 東京都渋谷区
 1942年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。その後、母と2歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。
 小学5年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝40軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。
 学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。
 そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか? おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。
 もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。


私の涙も止まりません……


(古い写真です……)