平松禎史 アニメーション画集
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起床してニュースを読んでいたらこんな見出しがあったので読んでみた。
宮古島市議のフェイスブックが炎上 「米軍に訓練された自衛隊が来たら婦女暴行事件が起きる」
http://www.sankei.com/politics/news/170312/plt1703120010-n1.html
「自衛隊全体を批判しているわけでも、個人を批判しているわけでもありません。私が批判しているのは、自衛隊員個々の人格に対してではなく、戦争のための軍隊という仕組みに対してです」「現在の自衛隊という組織が米軍と一体化して、専守防衛の枠を外れつつあることに強い危機感を持っています。海兵隊は人を殺すことに対して感情を殺すように訓練されています」などとして、(「 )海兵隊に訓練を受けた陸上自衛隊が今後、米海兵隊と同質のものになる可能性があります」などと投稿した。
*最近のWebニュースは大手新聞社のものでも誤字脱字が目立ちます。
産経新聞の当該記事では引用した部分後半、市議の投稿部分にカギカッコが抜けていたのでボクの判断で補足しました。()のところ。
さて
「婦女暴行事件が起きる」というのは沖縄米軍基地の米兵が起こした1995年の婦女暴行事件を指していると思われます。現在まで多くの事件が起きています。
沖縄の女性グループ「基地軍隊を許さない行動する女たち」がまとめた【米兵による戦後沖縄の女性に対する犯罪】
http://www.jca.apc.org/~uratchan/gbmarines/henji/jyoseinohigai.html
一昨年2016年にも起きているが、このまとめはそれ以前の作成なのでしょう。
最も多いのは終戦直後で占領軍として米軍が入っていた1940年台後半。沖縄が日本に返還された1972年以降は減っています。
もっとも、占領されて主権を喪失していた頃は日本全国で占領軍による暴行殺人・強姦が起きていた。
沖縄は占領時代が長かったためその被害も多大なものになったのだろう。
このことからわかるのは、米軍だから強姦が起きた、のではなく、国が主権を喪失するとはこういうことなのだ、という現実だと思う。
日本は憲法によって交戦権を放棄し日米安保条約によって米軍が駐留しています。
地位協定によって米兵の日本国内での犯罪を日本国民が主体的に裁けない。
国防においては主権を持っていない、つまり独立できていないのが現実で、沖縄のことは日本全体のことと心得る必要があります。
特に惨たらしかった1995年の事件が社会問題となり、これを契機に普天間基地移転が真剣に議論され、その結果として辺野古への移転が日米で合意された経緯がある。
婦女暴行事件を起こすのは軍人に限りません。
こういうことをする人間が、属する組織環境と因果関係を持つとはっきり証明できるだろうか。
婦女暴行事件を起こす人間を排出した組織は排除すべきだとなれば、かなり多くの分野、企業が対象になると思う。
市議の考えは、暴力を用いるのに慣れた軍事組織の人間だから絶対に婦女暴行を起こす。
最初の投稿でそう書いていた。後に「絶対に」は言いすぎだったと訂正しましたが、おそらく本音では「絶対に」と思っているんでしょう。
この部分にイデオロギー的な狭窄と飛躍がある。
市議個人の考えが濃厚なので婦女暴行の件は留保します。
その上で、この市議の発言をもとに「戦争」とは何か改めて考えてみます。
ボク個人が戦争についてどう思うかより前に、良し悪し…好き嫌い…ではなく、なるべく事実に基づいて書いていくことにします。
市議が書いた「海兵隊は人を殺すことに対して感情を殺すように訓練されています」の部分。
言い方はともかく、当たっていると思います。
クラウゼヴィッツの『戦争論』では、戦争を次のように定義しています。
「戦争とは相手にわが意志を強要するために行う力の行使である」
また、こうも書いています。
「わが方が敵を打倒しない限り、敵がわが方を撃破するであろうと恐れ、わが方が敵に対して与えたように、敵がわが方に掟(行動の制約)を与える」
2〜30年ほど前に「戦争論」を解説した本を読みましたが、うろ覚えなのでこちらから引用させていただきました。
http://www.clausewitz-jp.com/kawamura001/kawa00102.html
つまり
戦争は、相手が対抗できなくなるまで、または対抗する気がなくなるまで、打倒するものです。
軍事力は、相手を打倒するため、または対抗する気をなくさせるために持つものです。
相手に同情していたらこちらがやられてしまう。
人を殺すために感情を殺さないと、結局はこちらが殺されてしまう。
それが「戦争」です。
ボクがクラウゼヴィッツに興味を持ったのは、チェルノブイリ原発事故がきっかけでした。
原子爆弾のような恐ろしい武器を作り出す戦争とは何だろうかと気になったからです。
この頃のボクはいわゆる「左翼」っぽい考えを持っていました。
閑話休題
クラウゼヴィッツは、戦争は個人間の決闘が発展したものだと説いています。
原始的なケンカのように野放図に行うものから、決闘のように立会人の前で「ヤーヤー我こそは」と槍や剣で相手を打倒して一方が主張する権益や秩序を相手に強要させる約束事が生まれ、それが国家間の「戦争」へと発展していった。
暴力が正当化されるのは、親や子のカタキ、隣接する土地の奪い合いといった第三者がどちらかに我慢を強要しかねる問題において、話し合いで決着がつけられないやむを得ない場合に限ると言えます。
闘争の正当性・不当性を判断するために、法律や人権、民主主義の概念が生まれます。
それが世界に波及して国際秩序というものが考えられるようになった。
国際秩序に従うとは、戦争によって決められた(強要された)約束事に従う、ということです。
ちなみに、現在の国際秩序は第二次世界大戦で決められたものです。
市場競争のような経済では、競合する相手を自分に有利な条件を飲ませるため交渉を行い、強いほうが利益を多く得る。
スポーツでも、審判のもと決まった条件で競い合い一位二位…と勝敗を決めるもの。
競争、闘争、戦争
これらは人間が複数いればおのずと生まれてしまう序列をみなが納得できるルールのもとで決めるもの、という意味において共通しています。
このような「ルールに基づく序列」を認めないと、人間は原始的な野放図な状態になり暴力が無制限に拡大しかねない。好き嫌いはともかく、それが(主に西欧的な)人間の知恵なのだと言えます。
ゆえに、戦争を防ぐための努力が重要になる。
「戦争をする国」
クラウゼヴィッツは、戦争とは何の軋轢もない状態で突然起こるものではないと説きます。
戦争は、宗教対立や、土地や権益獲得など経済的な対立要因で起きています。
土地を得ようとするのは、水や海産農工業生産地や労働力を得るためです。
スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダ、ロシア(ソ連)、ドイツ、アメリカ、日本…と大航海時代から20世紀前半まで、世界の主要国が土地を巡って戦争を繰り返しました。
この戦争に一番最後に参加したのが日本です。
戦争は、軋轢を生じる二国または複数国があって初めて起こるものです。
日本とドイツは戦争に破れ、脱落しましたが、経済戦争では勝者となり、一時期日本はGDP世界二位にまで躍り出た。
とはいえ、大戦後の秩序の上では、あくまで平和的な経済活動に徹さざるを得ませんし、日本の領土的野心は歴史的に見てとても弱いものです。
オバマ大統領になって以降、アメリカは外国の戦争に消極的になっています。
「世界の警察国家・アメリカ」をやめた。
トランプ大統領は「アメリカファースト」を掲げて外国への介入および外国からの介入を排除し、保護主義的なアメリカに戻ろうとしている。
…とはいえ「アメリカファースト」のために戦争に介入する可能性は否定できません。その時、日本にアメリカと同等の(武力行使にかかわるような)負担を求めてくる可能性はオバマ大統領の時代より高まったと思う。さらに安倍首相はアメリカには至って従順なので頭が痛い…といったことも想定できます。
GDP上位国のうち、欧州諸国、アメリカ、日本は戦争が合理的でなくなっている。
他に戦争のもとになる軋轢を生じさせる国はあるだろうか?
中国です。
日本を抜いてGDP第二位になり軍事費を増大させ続けている中国。
共産党一党独裁で民主国家ではない中国。
チベットや東トルキスタンを武力制圧し弾圧を繰り返している中国。
東南アジアへ権益を伸ばし、ベトナムやフィリピンが領有権を主張する南シナ海を一方的に軍事拠点化する中国。
一帯一路構想でユーラシア大陸で覇権を得るため金融政策ふくめ着々と拡大している中国。
…これ全て事実ですよ。
現在、領土的野心と軍事力を増大させ軋轢を生じさせる大国は中国くらいなものでしょう。
シリアを拠点にするいわゆる「イスラム国」ISISは国ではありませんが、彼らも独自の論理で勢力を拡大しようとし膨大な死者と難民を生み出し、欧州諸国の悩みのタネになっています。その原因を作ったのは欧米ですけどね。
中国が現在最も巨大な「戦争をする国」だ。
戦争は、経済力…つまり軍事力のバランスが崩れることによって起こります。
力のバランスが釣り合っていれば、クラウゼヴィッツの論理で言えば「相手が対抗する気をなくす」状態が保たれ、戦争は起きにくい。
バランスが崩れ、スキができると攻め込まれます。
戦争の歴史、事実を観察すればバランスをとることが重要だとわかるはず。
さてさて
宮古島市議の投稿に戻りましょう。
自衛隊を戦争する組織だと定義することはできません。
憲法上、自衛隊の行動は市議が言うように「専守防衛」に限ります。
戦争が石を投げあって決着するものなら「専守防衛」でも構いませんが、クラウゼヴィッツの時代でも鉄砲や大砲がありました。撃たれて死人が出てから動き出したのでは遅いのです。
さらに、彼が死んで200年余り経ったころ、原子爆弾が作られた。
クラウゼヴィッツが想定しなかった大量破壊兵器が開発され戦争の概念は一変した。
彼の時代では、始まった戦争をどうするか論じる意味が大いにあった。
しかし、国民のほとんどが殺される総力戦や、土地も使い物にならなくなる核兵器の相互確証破壊を想定していませんでした。あたりまえですが。
つまり、古式ゆかしい「専守防衛」は最初の一手で国を滅ぼされる可能性を考慮していない。
件の市議が言う「戦争のための軍隊」という認識も当たっています。
しかし、撃たれてから対処する「専守防衛」では遅すぎるという現実を無視している。
戦争観が古すぎます。
日本が軍事的にアメリカの庇護を受けている現実は否定できません。
外国の軍隊ですから日本国民の意志は二の次になる。
日本国民の主権のもと存在する日本軍であれば、その武力行使も犯罪行為も、私達の意志によって判断し裁くことができ、抑制することができる。
国が戦争しようとするのを止められるのか!?という疑問があるでしょうが、繰り返しますが戦争は相手があってのこと。
軍事力を放棄して自らバランスを崩し中国に飲み込まれて民主主義国でなくなるのは石垣島、宮古島が最初でしょう。
チベット、東トルキスタンですでに起きている事実です。
市議の、「私の娘を危険な目にあわせたくない。宮古島に暮らす女性たち、女の子たちも」という意見は極めてまっとうですが、事実から目をそらし現実を見誤っているため、本末転倒になっている。
複数の人間がいれば競争が生じます。
さらに多くの人間がひしめく小さな地球ではさまざまな闘争が起きています。
その闘争を戦争に発展させないためには、経済的に強大な国の責任は大きくなります。
周辺の中小国は大国に依存していますから、その責任は自国民にとどまりません。
軍隊は自国民を守るためにありますが、「人」を殺す組織であることは否定しません。
この場合の「人」をどう定義するか?
家族や地域の人々を殺しに来る「人」だったら?
軍人が犯罪行為を行うことを否定しません。
それを主体的に裁けない日本国憲法と日米安保は今のままで良い?
軍事バランスをとる、と言ってもボクは核武装はしなくて良いと考えます。
しかし、それは十分議論された上でのことなのか。
戦争や軍事というものは、好き嫌いや感情で判断してはいけないことだと思う。
それこそ、戦争を起こす(誘引する)危険なことだ。
歴史的事実と現実をよく見てよく考えて判断する必要があります。