●善意のインフラ


日本の中東における貢献で、目立たないものもある。それは社会・経済インフラ(基盤)整備である。まさに縁の下の力持ち的な貢献である。たとえば、イランの通信インフラを建設したのは日本企業である。これは革命以前の王制の時代であった。また隣国のイラクでも、サダム・フセインの時代に日本企業が同国のインフラ整備で活躍した。1970年代、サダム・フセインという政治家が独裁者への道を歩み始めたのと呼応するかのように石油価格が上昇した。急増した石油収入の多くをインフラ整備に投入してサダム・フセインは国民の支持を集めた。道路、病院、発電所、大学、博物館などが建設された。フセインの時代にイラクは一変した。


松本清張が1960年代に発表した小説に『砂漠の塩』がある。71年には『愛と死の砂漠』というタイトルでテレビ化されている。許されぬ仲になった日本人のカップルがイラクへ旅し、一人が病に倒れるというストーリーである。その中で描かれるイラクでは、首都のバグダッド以外には十分な医療の行き届いていない。サダム・フセイン以前の状況が描かれている。こうした状況をフセインは石油収入を使って変えたわけだ。地方都市にまで及ぶ近代的な病院のネットワークが建設された。


イラクで何度か病院を見学した経験がある。サダム・フセイン時代の末期には、病院は国連の経済制裁がいかにイラク国民を苦しめているかという状況を世界に訴えるための場所となっていた。イラクを訪問すると情報省の役人が病院を案内し、そこで空っぽの医薬品の棚を見せられていた。湾岸戦争の際に誤爆で多数の民間人が殺害された防空壕などとセットのお決まりのコースであった。


2002年の夏、アメリカがイラクに侵攻する前の年にバクダッドを訪問した際に、そうした病院に案内された。小児癌を扱う病院で子どもたちの姿が痛ましかった。アメリカ軍が1991年の湾岸戦争で劣化ウラン弾を大量に使用した結果と考えられる小児癌の犠牲者たちを見せられた。そして薬局の空っぽの薬棚も。


その際に、「おやっと」思った。以前にもこの病院をどこかで見たことがあるような気がしたのである。それも、そのハズである。イラクの病院のネットワークの建設を請け負ったのは日本の商社とゼネコンのグループであった。日本の病院のようにイラクの病院も建設したのだろう。完成するまでパスポートをイラク側が管理して、建設工事にやってきた日本人の自由な出国を許さなかった例もあったという。イラクでの工事は決して安易な仕事ではなかったと伝えられる。しかし、日本人はきびしい環境下でも工事を立派に完成させた。湾岸戦争やイラク戦争にもかかわらず、今でも役に立っているインフラは多いようだ。


少なくともイラク人の記憶には、日本人は良い仕事をして帰国したとの印象が残っているようだ。イラクを訪問した際にイラクの外交関係者向けに講演をした経験がある。スライドの準備などをイラク人の担当者が手伝ってくれた。その打ち合わせの時、突然「ワカッタ」と日本語で話した。日本人の技術者に指導を受ける際に何回も耳にして、それが記憶に残っていて口をついたのだろう。もしかしたら、一度で良いから日本人に「ワカッタ」と言ってみたかったのかも知れない。


イラクがインフラ整備をすすめた時代は、日本人が数多く働いていた時期である。フセインの独裁下で政治的な自由はなかったにしろ、国が安定し繁栄していた良い時代との印象を一部のイラク人はいまだに抱いている。つまり日本人がイラクにいた頃は良い時代だった。


日本人がインフラ建設でがんばったのはイランやイラクばかりではない。トルコのイスタンブールの架橋も日本企業が完成させた。また、エジプトでは1980年代にスエズ運河の拡張工事を担当したのも日本の企業であった。もっとも、エジプトの首都カイロには日本の援助で建設されたオペラ・ハウスなどもあるが。



スエズ運河 左岸がエジプト本土 右岸がシナイ半島(筆者撮影)

なぜ、日本国民の税金でエジプトの金持ちのためにオペラ・ハウスを建設したのだろうか。日本の関係者の見識を疑う。そもそもエジプト側は技術研修センターの建設を求めたのだが、当時の駐エジプトの日本大使の趣味がオペラだったので、技術研修センターがオペラ・ハウスに化けたという内輪話が流布している。こうした日本国民の税金の無駄使いの例はあるが、それでも全体でみれば、日本がインフラ建設で尽力してきたという構図が成り立つ。


インフラというのは基盤という意味である。つまり、中東イスラム世界には日本人に対する善意の基盤が存在している。幸いにも日本は中東に植民地を持ったことがない。世界の大国は中東に兵器を持ち込んで殺し合いを助長するが、日本人の作った武器で死んだ人間は中東イスラム世界には一人もいない。あるアフガニスタン人の言葉である。


>>次回 につづく



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