化学兵器の使用への懲罰として米英仏の北大西洋条約機構諸国によるシリア攻撃が予測されている。ちょうど、この時期にアメリカの『フォーリン・ポリシー』誌が1980年代にレーガン政権がイラクによる大量の化学兵器の使用を黙認したとの記事を掲載した。この事実自体は当時から知られていたのでニュースではないが、その詳細が報道されたのは始めてである。


1980年9月にイラク軍の侵攻で始まったイラン・イラク戦争においては、緒戦では優勢であったイラク軍は、敗退が続き守勢に回った。1982年からはイラン軍がイラク南部の主要都市バスラを脅かすようになった。劣勢に立ったイラク軍は、大量かつ頻繁な化学兵器の使用で何とか防衛ラインを維持した。イラン軍の度重なる攻勢の中でも特にバスラを脅かしたのは、1987年の攻勢であった。この頃イラク軍の防衛戦には弱い部分があった。それをイラン側は察知しており、その部分への攻勢に備えて兵員と装備を集結していた。


8月26日付けのフォーリン・ポリシー誌のインターネット版によれば、アメリカは衛星写真などにより戦局を詳細に掌握しており、イラン軍の攻勢の意図も把握していた。そして、この情報をイラク軍に提供した。この提供された情報を基に、イラク軍は集結したイラン軍を大量のサリンを使って攻撃した。この結果、イランの大攻勢は実現しなかった。アメリカは情報を提供すれば、イラクが、そこで化学兵器を使用するのを知りながら、あえて情報を提供し、イラク軍の防衛線の維持に協力した。同誌は、最近に公開された文書や新たな証言によって、アメリカのイラクの戦争努力への関与を詳細に再構築した。


シリア政府が化学兵器を使ったのは人道に対する罪だと批判し、軍事力の行使にアメリカが踏み切ろうとしている時期に、1980年代にはイラクによる化学兵器の使用をレーガン政権が容認しており、しかも協力さえしていたという事実が公表されたわけだ。これが歴史の用意するアイロニーとでも呼ぶべき偶然だろうか。1980年代にはイラクによる化学兵器の使用が自国の国益にかなうとして容認したアメリカが、現在は化学兵器の使用を人道にもとると声高に批判している現状をどう見るべきであろうか。二重基準の偽善と呼ぶべきだろうか。それともイラン・イラク戦争における化学兵器の使用という人道に対する罪から学んだと評価すべきだろうか。

(8月28日、記)


畑中美樹氏の主宰するオンライン・ニュースレター『中東・エネルギー・フォーラム』に2013年8月30(金)に掲載された文章です。


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