選挙のパーティー騒ぎの翌日、スレイマニアから南にあるハラブジャを訪問した。緑豊かな田園風景の中を2時間半ほど走った。このような美しい風景の中でフセイン大統領のイラク軍によるハラブジャに対する化学兵器での攻撃が行われたのかと思いをめぐらす。


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1980年に始まったイラン・イラク戦争の最後の年の1988年3月に悲劇は起こった。イラクの空軍がハラブジャの町を爆撃した。しかも化学兵器を使ってである。その直後に、この街に入ったイラン軍が映像を世界に配信したことで、ハラブジャの悲劇が世界に知られるようになった。外傷のない遺体の散乱する姿は化学兵器の恐ろしさを示した。子供を守ろうと抱きかかえる父親が、子供と共に倒れた姿は、クルド人の記憶から決して消えることはないだろう。


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途中で運転手がハラブジャへの道を聞くと、新しいハラブジャか、殉教のハラブジャかと答が返ってきた。化学兵器を受けたハラブジャが「殉教(シャヒード)のハラブジャ」と呼ばれているのが分かる。新しいハラブジャは、戦後に、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争といういくつもの戦後に立ち上がった街だろう。

指示された方向に進むと記念碑が見えた。手が何かを包むようなデザインである。子供と父親の倒れる像もある。

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記念館の中には亡くなった三千名の名前が壁に書いてある。これは確認できた数字で実際には五千名くらいが亡くなったとの解説を受ける。悲劇の様子を示すジオラマがある。そして当時の映像を見せながら担当者が解説してくれた。遺体となっているのは担当者の一族だそうで、解説しながら目を潤ませていた。

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