「海が見えた。海が見える。」  林芙美子『放浪記』(新潮文庫、1979年)、254ページ


イスラム原理主義と呼ばれる現象がイスラム世界で広がっている。具体的には政治のイスラム化を志向する運動である。専門家は原理主義という言葉を嫌い復興運動などの表現を好む。その理由には立ち入らない。だが指し示しているのは、同じ現象である。この現象の源流の一つは20世紀の初頭にエジプトのイスマイリアでハサン・アル・バンナーが創設したムスリム同胞団である。個人のイスラムの実践から積み上げて、家庭を地域社会をそして最後には社会全体を純粋なイスラム国家に変革しようとの主張は、多くの人々に受け入れら、20世紀の中盤にはエジプト最大の大衆運動組織に発展する。スエズ運河沿いの都市イスマイリアで起こった復興運動が、急速に発展した背景にはイギリス帝国主義のエジプトへの浸透があった。イスマイリアこそが、イギリスのスエズ運河支配の拠点であった。ムスリム同胞団の発展を、そして復興運動の広がりを、西洋の衝撃に対するイスラム教徒の対応の一つの典型として提示したい。

海と改革


海の風景は改革と結びつく。幕末の日本で明治維新を引き起こす原動力となったのは、薩摩や長州のような海に面した雄藩であった。それは海を渡って欧米からの帝国主義が及んだからであった。鹿児島市は1863年に大英帝国の東洋艦隊の砲撃を受けて炎上したし、翌1864年には下関が米英蘭仏の四カ国連合艦隊に砲撃され、その砲台が占領された。危機意識は、海から高まった。中東においても同じ現象が見られた。たとえばオスマン帝国での改革運動を担い、結局この帝国を解体し、その残存部分をトルコ共和国として再生させたケマル・アタテュルク(1881~1938)は、テサロニケの出身であった。テサロニケはバルカン半島の港町で現在はギリシア領となっている。新約聖書の中に「テサロニケ人への手紙」という章があるくらい古い歴史の街である。後の第10章をこのアタテュルクの改革についての議論に当てよう。


また、この章で取り上げるハサン・アル・バンナー(1906~1949)もスエズ運河沿いのイスマイリアを最初の活動の舞台にしている。イスマイリアは運河を通じて西欧の中東進出を目の当たりにする場所であった。バンナーは現代のイスラム世界で最大規模の組織であるムスリム同胞団の創設者である。ムスリムとは、前の章 でマルコムXを論じた際に説明したがアラビア語でイスラム教徒を意味している。


この二人の、つまりアタテュルクとバンナーの西洋の衝撃への対応は昼と夜のような対比を示している。アタテュルクの対応はトルコのヨーロッパ化であった。具体的にはイスラムの政治からの排除であった。宗教と政治の分離であった。宗教の役割の公的スペースからの排除であった。バンナーの対応は、イスラムへの回帰であった。具体的にはイスラムの実践と純化こそが西洋の衝撃への対応策であった。幕末の日本列島の用語に無理やりに翻訳すれば開国と攘夷であろうか。アタテュルクとバンナーに代表される二つの流れは、水量を増減させながらも現代にまで到っている。


トルコやエジプトの経験をイスラム世界の特殊な例として見れば、アタテュルクやバンナーの生涯を日本人は他人事のように突き放せる。しかし、日本もトルコもエジプトも非西洋であり、西洋の圧倒的な軍事力に直面して、対応を迫られた国々という面では体験を共有している。西洋と言う言葉に、ここではヨーロッパのみならず、アメリカやロシア(ソ連)を、そして中東のイスラム教徒の多くが欧米の飛び地とみなすイスラエルをも含めよう。


共有体験としての西洋の衝撃


西洋の衝撃に、いかに対応するのか。いかに西洋の技術を学ぶのか、しかし同時に、いかにして自己のアイデンティティーを守り抜くのか。西洋の拡大が始って以来の非西洋社会が直面してきた根本的な問題である。日本人もイスラム世界の人々も、その答えを求めて身を焦がすような体験を重ねてきた。イスラム世界の経験を他の世界の事件として見るのではなく、非西洋社会の直面した共通の課題への対応の例としてとらえれば、共感と連帯感を持って日本人もまた本書で取り上げるトルコ人、エジプト人、イラン人の苦悩を共有できるのではないか。これが、筆者の目線であり、歴史における身の置き所である。


西洋の衝撃は、非西洋世界の全てが体験した共通の問題である。そして、その課題に対する「正解」は未だに提出されていない。一つの対応は、西洋の全面的な受け入れである。これは開国であり、脱亜入欧であり、アタテュルクの道である。自己の伝統へ回帰し、西洋を拒絶するとの選択もある。これは攘夷であり、バンナーの道である。全ての非西欧人は、この両者の間を振り子のように揺れながら自らの均衡点を求め続けている。この章では、そうした非西洋人の一人であるバンナーの道を振り返りたい。


高橋和夫の国際政治ブログ
ハサン・アル・バンナー

1906年にカイロの北西のマフムーディーヤで時計職人を父としてハッサン・アル・バンナーは生を受けた。父は、カイロのアル・アズハル神学校で勉強している。信仰心と学問が深かった。アル・アズハルはスンニー派世界ではイスラム研究の最高峰として知られる。バンナーは、その父からイスラムへの手ほどきを受けると共に、精密な仕事ぶりを学んだとされる。長じてカイロに出てイスラムとアラビア語文法を修めた。マフムーディーヤ出身の若者は、コーランを歩きながら読む姿で人目を引き、また博覧強記でも有名であった。学業を終えるとイスマイリアの小学校に赴任した。ここで異教徒の国イギリスが運河地帯を占領している事実を目の当たりにする。運河地帯はエジプトの一部でありながら、エジプトではなかった。当時からイスマイリアは、スエズ運河地帯の中心都市であり、イギリスの中東支配の拠点であった。


イスマイリアはスエズ運河のちょうど中間点に当たる都市である。スエズ運河の北側の即ち地中海側の出入り口であるポート・サイードから約75km、南のつまり紅海のスエズ湾側の出入り口のスエズ市からも約75kmの地点にイスマイリアは位置している。エジプトの首都カイロからなら東北方向に直線で120kmの地点である。スエズ運河沿いの都市の大半は、西岸つまりシナイ半島側ではなくエジプト本体の側に発展しているが、イスマイリアも同様に西岸の都市である。もっとも地中海に面するポート・サイードのみは両岸に発展しているが。現在のイスマイリアの人口は70万人ほどである。このイスマイリアがスエズ運河の運行管理の本拠地となってきた。1956年に運河がナセルによって国有化される前も、そして後も変らぬ事実である。


>>次回、「スエズ運河のほとりで 」に続く


* 放送大学では2009年4月放送開始予定のラジオ科目『異文化の交流と共存』を制作中です。大学院レベルの科目です。高橋は、その中で以下の4章を担当いたします。第2回『アメリカのイスラム:マルコムXの旅』、第3回『ムスリム同胞団:スエズ運河のほとりで生まれたイスラム復興運動』、第9回『西洋の衝撃/イランのジャラール・アーレ=アフマドの『西洋かぶれ』を例として』、第10回「トルコの苦悩/民主主義、民族主義、世俗主義」
これは第3回のラジオ教材を補完するテキスト(印刷教材)の草稿です。