江川全喜様
t-kawkawと申します。勝手にリブログ失礼いたします。
AIの現状は、江川様がブログに書いていらっしゃる通りと思います。
が、私は個人的にはAIには好印象を持っていません。
多分そのうち、或いは既に、ビックデータとAI融合したモノは人間を超えることになると思います。
※以下、ビックデータとAIが融合したものを「モノ」と呼称します。これは、諸星大二郎のマンガ「魔障ヶ岳」からの引用です。”ビックデータとAIが融合したもの”には「魔障ヶ岳」で描かれる「モノ」と共通する要素があると思うからです。
その「モノ」は、遠くない将来、人間にとって制御不能となると思います。
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同様の例は原子力にもあります。
原子力は”何も起こらない限り”制御可能と思われていましたが、”何も起こらない”という前提が崩れると制御不能となってしまうことを、福島第一原発事故が明らかにしてしまいました。(小泉純一郎が言っているのと同じ理屈です。なので私も小泉元首相と同様、原発反対です)
似た例は医学にも当てはまります。「医学」と「倫理」をどう両立させるかは前から大きな問題でした。
なので、「モノ」はそのうち倫理とどう両立させるかが問題になって来ると思うし、そうこうしているうちにも一部の技術者に依って「モノ」は肥大し、最終的に制御不能に至ると思うのです。
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これは、映画やマンガの読み過ぎも影響しています。
「モノ」が行き着く所まで肥大して、人間が「モノ」に頼り切った結果どうなるかは、下記の諸作品が予想しています。
「2001年宇宙の旅」、「ターミネーター」、「マトリックス」、マイケル・クライトン原作の諸作品「ウエストワールド」「ジュラシックパーク」等、手塚治虫の「火の鳥:未来編」
こんな、映画やマンガの影響を多大に受けていることもあり、私は「モノ」には気持ち悪さを感じています。それは、肥大し切った「モノ」は最終的に次のような結論を導き出すと確信しているからです。
『人類は不要である』 『人類の存在は許されない』
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物事を純粋に客観的に、例えば「地球」の立場で考えると、人類は最悪のウイルスのような存在と言わざるを得ないと思います。(資源を使い尽くすまで使ってしまい、他の種を排除して、自分の領域をトコトンまで広げていくという意味で)
こんな人類は神学的に言えば「悪」そのものでしか無い訳で、「悪」は排除されねばならない。
しかし、私自身を含め各々人間は、そんな人類のハシクレですから、否定されては困る。なので、「悪」の一員かもしれないけど細々と自然保護活動をやってみたり、文化・文明に存在理由を求めたりしながらも生きて行かねばならないのです。
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ところが、「モノ」は人ではではありませんから、最終的には冷徹に論理的な判断をするでしょう。『人類の存在は許されない』と。
こう言った事態は避けねばなりません。
だから、如何に「モノ」を人間のコントロール下に置くかを念頭に置く必要があると思います。それは、「技術」の問題だけではありません。
私は「倫理」の問題だと思っています。
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「モノ」が如何に素晴らしいかと言うことは、今のところ「技術的」な側面からしか見られていないと思います。(確かに素晴らしい面があるのは認める)
しかし、「モノ」について「倫理的」な観点からも論じられるべき次期に、もう入っていると思います。
以上です。
江川様のブログに水を差すような内容となってしまい、申し訳ありません。