(続き)
因みに、劇団☆新感線の「髑髏城の7人」では遊郭「無界の里」をアジールとして描いています。これも網野善彦からの引用です。
さらに因むと、江戸時代以降、幕府公認の縁切り寺は東慶寺と満徳寺だけになってしまいました。(昔はもっとあったらしい)。この両寺は千姫に縁(ゆかり)があるもので、エボシ御前のモデルは千姫でもあるんじゃ無いかと個人的に思ってしまいます。網野善彦自身は「金屋子神」(鍛冶を司る女神)じゃないかと言ってるけど、そういう風に見るのも楽しいと思う。(「ジブリの教科書10もののけ姫」文藝春秋刊 P252より)
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なお、「ジブリの教科書10もののけ姫」P252にて、網野善彦は「シシ神の森自体がその聖性故にアジールである」と言っています。
私は個人的には人間がいない空間をアジールと言ってしまうことには若干抵抗を感じますが、網野先生がそう仰る以上はアジールなのでしょう。(もしシシ神の森に逃げ込んで生活している人間集団がいたら、そこは間違いなくアジールだと思う)
と言う訳で、シシ神の森も(自然の)アジールなのです。
で、あれば、権力者にとってはアジールは邪魔な存在なので、タタラ場とシシ神の森というアジール同士を闘わせ、相打ちにさせて二つのアジールを一挙に排除してしまおうと言う深謀遠慮があったと勘ぐることも出来る訳です。(サンダ対ガイラみたいな話)
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そう言えば、アシタカが住んでいたエミシの里も、距離的に統治権力が及ばない所でコミュニティを形成していると言う意味で、広界の地であり、つまりはアジールと言えます。
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ですから、もののけ姫は、
アジール(エミシの里)から来た少年がアジール(タタラ場)に至り、アジール(タタラ場)とアジール(シシ神の森)の戦いに巻き込まれ、最後はアジール(タタラ場)に留まる物語と言えるのです。
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ここで注意をして欲しいのは、上記のように網野善彦の中世観から想を取っているにせよ、タタラ場、エボシ御前、更に言えばエミシの里を創造したのは宮崎駿だと言うことです。
網野善彦のヒントを基に、ファンタジー世界として構築したのはあくまで宮崎駿であり、「もののけ姫」のタタラ場は、「千と千尋」の油屋のようなファンタジックな存在なのです。
また、東北は坂上田村麻呂に東征され、さらに平安時代後期に奥州藤原氏により平定されているから、室町時代にエミシの里が残存しているとは考え辛い。なのでこれもファンタジーです。
だから、もののけ姫の世界観が日本中世の実像だと思われるのは困るのです。
「千と千尋」や「ハウル」は明らかなファンタジー世界だから良いけど、「もののけ姫」は緻密で宮崎監督の想いがこもった真摯な大力作であるが故に、観客にあたかも現実のように錯覚させてしまう部分があり、そこは困ったトコロなのです。
高畑勲も「もののけ姫は危険な作品だ」と言っていたらしいのですが、そのココロはここにもあると思います(他にもあると思うけど【下注】)。
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網野善彦の歴史論は針小棒大過ぎとか、遊女の評価は間違っている、と言った批判も受けています。(Wikipediaより)
だから、網野善彦を押さえて、網野善彦が批判されていることも承知した上で見ないと、「もののけ姫」はキケンな作品となってしまうのです。
一方、西洋中世論の阿部謹也は一橋大の学長にまで出世してしまうのでありました。
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【下注】
高畑勲がこう言っている本意は、”圧倒的な存在感を持った画面を提示することで、逆に観客の想像力を奪ってしまう危険性”にあると思います。前のブログに書いた通り、高畑勲はイデア論の人なので、高畑作品自体は”イデアの似像”であり、観客はその”似像”から”イデア”に想いを巡らすべきと高畑監督は考えると思います。それで「もののけ姫」の次回作として高畑監督が「山田くん」を放ったのは象徴的な出来事であったと思います。
と、言う訳で、イロイロ書きながらもこの論説は結局「山田くん」に帰着してしまうのであった。
(「もののけ姫」について:その2 社会背景 終わり)