(続き)
舞台作品は、
・演者と観客の距離の近さや同一空間を共有することによって生じる一種の緊張感、
・舞台という限られた環境で演じられることにより生じる抽象性、
と言った良さがあります。
それを映画化すると、その”舞台ならでは良さ”は失われてしまうので、そこを”映画ならでは良さ”で補完・補強する必要があります。
が、舞台に比べて映画の方が自由度は高いし、クローズアップ【注2】、カットバック・フラッシュバックと言った手法が使える等と、映画ならではの強みは大きいはず。でもそれをちゃんと理解している映画監督はそう多くは無いように思う。
例えば、ジョエル・シューマカーの「オペラ座の怪人」はロイド=ウェーバーの舞台版を極力忠実に再現しようとしており、また”映画ならではの強み”を一部使っては居るのですが、舞台版に比べるとイマイチ感が拭えない。(あくまで「舞台」と比べるとだけど)
「アマデウス」で脚本のピーター・シェーファーが偉いのは、舞台、映画というメディアの違いに合わせて脚本を書き分けていることにあります。それをちゃんと映画化したミロス・フォアマンも偉い。
「ヘアー」も舞台作品の映画版ですが、私は機会に恵まれなかったため、”舞台版”は観ていません。だから、舞台版と映画版の比較は出来ないのですが、映画版「ヘアー」は良かったです。
これは、ミロス・フォアマンが「舞台作品の映画化」ということをちゃんと理解しているからだと思います。
なので、映画版「ヘアー」はお奨め。観てみて下さい。
-----------------------------------------
【注1】
「Wiz」の最大の敗因はやっぱりダイアナ・ロスをドロシーにしちゃった点にあると思う。本家のジュディ・ガーランド版「オズの魔法使い」には、”迷子になっちゃった子供の不安感”が根底にあると思うが、ダイアナ・ロスをドロシーにすると、ダイアナ・ロスは大人だから”子供の不安感”が喪失されてしまう。であれば「大人の物語」として再構築されるべきだったと思います。
とは言え、「オズの魔法使い」をソウルミュージックで表現し、ダイアナ・ロスやマイケル・ジャクソンを出してくる、というコンセプト自体は悪いもので無いので、チャード・プライヤーが気にならないヒトは観て良いと思う。
-----------------------------------------
【注2】
映画・映像で「クローズアップ」が使えるということは、舞台に対する大きなアドバンテージです。
前、新☆感線の「アカドクロ」舞台の映像版オーディオコメンタリー(出演者が映像を見ながらワイワイ話をするというもの)を観ていたら、あるシーンで出演者の顔がクローズアップされて、涙を流して泣いている。これを出演者一同が見て、
「あ、ホントに涙流して泣いてるんだ」、「そうなの。すぐ涙出ちゃうのよ」、「これは舞台じゃ分からないね」、「映像ならではよね」
というやり取りがあり、非常に興味深かった。
(「ヘアー」推し! 終わり)