第七章 人間、このすばらしい可能性を秘めた尊き存在 ②自我は何から生まれ、何に支えられているか  | 心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きよ!―人間は、肉体の死を超えて進化する―

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心の奥には科学的常識を超えるすばらしい可能性がひそんでいます。その可能性に目覚めて生きるなら、人生を希望をもって心ゆたかに強く生きられるようになるのです。このブログはそのことを真剣に論証し、具体的方法を提案するものです。※不許複製・禁無断転載

 自我は経験から生まれ、記憶に支えられている存在なのか

 エックルスらが述べているように、私たちは自分の心の内に、過去のいつにおいても現在と変わらない全一の主体(完全なまとまりのある主体)が存在していると感じています。私たちは、さまざまな体験や、記憶、欲望のすべてが、この主体である自我(自己意識)を核にして生じることを知っています。これが自我(私)という概念を支える内的な体験です。

また、人間は誰しもが自分が独自な存在であることを認識しており、社会生活や法律は、この各人の唯一性の上に成り立つのだと考えられています。
では、この独自の全一の主体である自我は、いったい何から生まれ、何によって支えられているのかを問題にするとき、この問題に対してエックルスは「それぞれ独自の自我も生後の経験の蓄積により形成されているとするもっともらしい説がある」として、この説に以下のように反論します。

 「(自我が生後の経験により形成されたものでないのは)私たちの行動や記憶、というより精神生活の全内容が、これまでの人生の環境にどれほど急激かつ極端な変化があっても、それまでの自我が別の自我につくり変えられるということは、決してないからである。人格の根底をなす自我は生涯を通じてただ一つの存在であり、人生の環境は人格の独自性を修飾するだけであって、それを決定することはないのである。(太字化は筆者)」

このエックルスの主張は誰もがまったく経験的に納得できるものではないでしょうか。
エックルスはまた、自我は記憶によって支えられているとする説を紹介し、その説もつぎような理由から否定します。

「自我は記憶に支えられているのではありません。それは完全な記憶喪失の患者の場合、自分が誰であるかわからなくても、自分がいまここに存在しているということはわかっているということから言えることです。記憶にはまったく依存していないのに、このときの患者は確かに自我を意識しているからです。」

つまり自分についての記憶は消えていても、自分が一人の人間としてここに存在していることはわかっている。そのことから言えば確かに自我を意識していることになります。したがって記憶が自我を支えているのではないのです。

いったい「私」の意識・自我が出生後の経験の蓄積により形成されるものでもなく、記憶により支えられているのでもないとすると、それは必然的に生まれる時点ですでに存在していたということにならざるをえません。実はそれを実証するものとして第四章と第五章を挙げることができると私は思っているのです。すなわち第五章で明らかになったように、胎児はなんと言っても未成熟な身体(脳)であるにもかかわらず、そこにはに科学的常識では考えられない一己の人間としての意識(心)が宿っていたからです。それに加えて臨死体験を扱った第四章で明らかになったように、そもそも「私」の意識・自我は、肉体(脳)の消滅とともに消え去るものではなく、精神実体として存続するという事実です。

 以上のことを踏まえると、意識(心)の核をなす「私」の意識・自我こそが人間の真の本質であるということができ、それはもともと肉体(脳)からは独立した存在である可能性が、ここにきてますます強まってきたと言えます。




 自我は高次な超越的存在から生じた

 さて、「私」の意識・自我がこの世の経験がゼロのはずの出生時にすでに備わっているとなると、その自我はそもそも何から生じたのかということが問題になってきます。その点に関して重視していただきたいのは、先述のエックルスらの主張や、第三章で述べた脳科学者ペンフィールドの実験にもとづく論理的推論が示す内容です。それは、一見脳から派生しているように見える心や自我が非物質的(超越的)であること、そして非物質的でありながら間違いなくこの現実世界に存在しているということ、しかも心(魂)の世界は自我を核にした内的で個性的なまとまりのある在り方をしているということ、こうした実際の在り方が唯物論的自然科学から見ればいかに奇跡的なものであるかという点に気づかせてくれることです。

その上にさらに重視していただきたい点は、前掲書『心は脳を超える』の最終章「人間の運命――希望と死」で、エックルスらが次のように述べているところです。

 「本書で意図したのは、現代の様々な人間観、とくに唯物論的、決定論的な考えを解明し批判することであった。このような人間観が誤謬と欠陥に満ちていることを知った読者は、人間が超越的で神的な起源を持つということを著者が改めて確信したといっても驚かないであろう。」

この記述から伝わってくるのは、唯物論的、決定論的人間観が誤謬と欠陥に満ちたものであると知った読者は、人間が物質を超えた高次な(神的な)起源を持つという著者の、改めての確信の表明をも驚くことなく受け止めるであろうという自信です。それほどエックルスらは彼らの超越論的人間観が実体に沿った論理的に確かなものと思えていたということです。この人間の起源が物質を超えた神的な領域にあるとする点は、第二章で述べたユングの「心は時空の外側にあるひとつの存在形態にふれている」とする仮説(洞察)にも結びつくものです。

同じような観点から、心が超越的で高次な在りようをした存在から生じているとの認識をさらに補強するものとして、どうしてもふれておかなければならないと思っているのは、生命の本質の問題です。と言うのも、このあと述べるように生命の物理的原理を超えた叡智に満ちた絶妙な働きは、まさに高次の超越的存在とそこからの作用を抜きにしてはありえないと考えられるからです。しかしながら現代人の多くは、残念ながらこの生命の働きが高次の超越的存在からもたらされるものであるなどとは、考えもしないことのように思われることです。


③生命のホーリスティックな在りよう  

 われわれはさまざまな場面で、生命のすばらしい働きに言及します。にもかかわらず大半の人はその本質認識から遠いところにあるように思われるのです。とは言え、実は少数ながら生命の本質について早くから大きな気付きを得ている人たちがいました。

彼らは、生命の営みの本質がホーリスティクな在りようをしているという点を見抜ていました。彼らは生命の働きが、身体の様々な組織の生理学的作用(物理作用)の総和として生じているのではなく、また各組織の働きもそこだけで完結しているものでもなく、全体の働きと有機的に関連して機能しているという点に驚きの目を注ぎました。

私も、そのような意味での生命のホーリスティックな在りように注目しようと思います。この在りようこそは高次の超越的存在「サムシング・グレート」をイメージするときにとても有効だと思うからです。


 生命については、渡辺久義氏が、前掲書『善く生きる』のなかでその本質に鋭く迫っています。渡辺氏は、そもそも生命は分析的な手法ではとらえることができず、「分析の方向とは正反対の方向、つまりより大きな全体性へ向かう綜合の方向」にこそある、とズバリ生命の本質的特性に言及しています。さらに、「生命とはそもそもホーリスティック(全体論的)なものであり、ホーリスティックにしかとらえることのできないもの」であるとの視点から、科学者が生命研究に向かう際の分析的、還元主義に偏った姿勢を、次のように厳しく批判します。

 「生命に対するアプローチは分析的であると同時に総合的、還元主義的であると同時に全体論的でなくてはならず、たとえ実験室での仕事が分析・還元という方向の作業に終始するしかないとしても、それとはまったく逆の方向へのまなざしがなければならない・・・。
もし、それをしも認めることを潔しとせず、学者として『全体』などというヌエのようなものを認めることはできないという専門家があれば、その人こそ唯物論者の典型なのであって、私はその人に躊躇なく嘲笑を浴びせると同時に、挑戦状を送りたいのである。なぜそこまで過激なことを言うかと言われるであろう。それは・・・唯物論というものは間違いなくこの世界を滅ぼす思想だからである。」

 渡辺氏がこれほどまでに唯物論に対決姿勢をとるのも、全体論を否定する唯物論が生命の本質に近づけないばかりか、世界の在りように破壊的作用を及ぼしかねないとの危ぐからきているように思われます。


DNAは「つねにある生命」が生命体として発言するための物質的条件に過ぎない
 さらに渡辺氏は、科学的世界観を支える分析・還元主義の、とくに生命に向かう際の欠落部分を次のようにわかりやすく指摘しています。

 「何かわからないものに遭遇したとき、『科学のメスを入れる』などという言い方が何の疑念もなしに用いられる。分ければ、つまり分析すればその物の正体をつかむことができる、というのが長年のわれわれの常識であった。これは何によらず、物はその構成要素に全体の秘密が隠されているという信念によるものである。これが物の正体に迫る有力な方法であることは、近代科学が証明してきた。しかし有力とはいえ、これが物の正体に迫る唯一の方法でないという認識に、最近の科学者や哲学者は到達したのである。特に対象が生命である場合、それは当然の認識であると言えるだろう。ちょっと考えてみても、何かわからない対象が生きているらしいとしたら、メスを入れれば死ぬのであり、生命を止めた状態で生命を研究するというのはいかにも不合理だと言えるだろう。」

 このように生命はホーリスティックなものであって、分析・還元主義的手法によるだけではその正体をつかめないばかりか、生命を宿す対象を死にいたらしめてしまうことになるのです。

にもかかわらず、DNAの発見により、科学者は分析的手法によって生命の究極的、根源的構造物をとらえたと信じています。そこには決定的な誤りがあります。DNAの遺伝情報は人間や動物、植物にも共通する四個の塩基文字(A、T、G、C)によって構成されているのですが、それを生命の究極の根源と考えるのは、まったく生命の本質がわかっていない証拠です。渡辺氏は言います。

「DNAというものは、すでに常にある生命が生命体として発現するための物質条件にすぎない」のだと。ズバリDNAの外に「すでに常にある生命」と言いきっている当たり、今日の常識からするとあまりに大胆、勇気ある表現に思いますが、私もそれを真実と受け止める立場です。この点については後にシュタイナーの生命観との関連で改めてふれるつもりですが、DNAの塩基文字の組み合わせとその構造は生命が生命体として発現するための物質条件にすぎないという点を、渡辺氏はさらに次のような見事な比喩で示しています。

 「あたかもそれは人を深い感動に誘う一片のすぐれた詩がアルファベット二十六個の文字を用いており、人の感動の根源はこの二十六文字(の組み合わせ)にこそあると考えるようなものである。・・・もとはインクのシミにすぎない無機物的なものがアルファベットの文字を作り、それらが組み立てられた結果多くの人が感動する詩が構成されるとする(考えに等しい)」

 つまり渡辺氏が言おうとしているのは、詩が人に感動を与えるのはその文字の固まりが示す意味にあるのであって、紙にインクで印字されたアルファベットの固まりではないというのです。当然ながら文字はアルファベットではなくひらがなと漢字交じりの日本語であってもよく、どんな形の文字であれそれは詩の意味を伝える間接的手段であって、それにより伝えられる意味にこそ人の心は感動するのです。

つまりDNAを構成する四つの塩基文字の構成体を生命の本質ととらえるのは、インクのシミである文字のかたまりを詩の本質ととらえる愚に等しいことになります。このように「すでにある生命」が発現するための物質的条件にすぎないDNAを、生命そのものとみてしまうところに分析・還元主義の誤りがあると言えるのです。


ホーリズムから導き出される「不可視の究極的全体」

 さらに渡辺氏は生命についての本質的な深い議論を展開します。

 「還元主義の分析方法に対して、生命あるものは分析するのではなく、それが置かれている全体に組み込むことによってこそ、その正体を知ることができるというのが『全体主義(ホーリズム)』である。」

 と述べ、「全体は部分の総和以上のものである。」という考え方を提起します。したがって、ここにいう「全体」は、本質的には量的全体でなく「質的全体性」であることを意味します。そうした認識のもとに、

 「下位のものがその中で生かされている上位の『全体』は階層(ヒエラルキー)をなして次第に高次の全体になっていくだろう。それはどこか程よいところで止まって、そこから下へ降りてくるのだろうか。それはどこか有限の可視的世界から始まってそこから下降すると考えるべきだろうか。そう考えることはできない。それは不可視の世界の究極的全体から始まると考えなければならない。」

 と述べるにいたるのです。
 このように渡辺氏は生命というものを「不可視の世界の究極的全体」が存在しそこに起源をもつと考えなければ、言わばつじつまが合わなないものであることを論理的に明らかにしようとします。
 そして、さらに渡辺氏はこれに続けて、ホーリズムという言葉が内包する奥深い意味を、ギリシャ語の語源から説明します。英語のHolismのギリシャ語はholosから来ていて、wholeのみならず、heal(癒す)、health(健康)、hale(元気盛ん)、holy(神聖な)を内包する概念だというのです。したがって「ホーリズムとは、完全、健全、癒やし、それに神聖さを内包する概念であり、宇宙をそうした意味での『全体』としてとらえる観点だと考えてよい」と述べたのち、以下のように、生命体の個々の部品(器官)と人体とのかかわり、人体とそれが宿している魂(心・人格)とのかかわり、個々人の魂・人格と人間全体とのかかわり、そして人間と人間より上位の「不可視の究極的全体」とのかかわりについて、ホーリズムの観点から以下のような説得力ある論述を展開するのです。

 「生命体の個々の部品や、個々の生命体がより上位の生命的『全体』を構成し、その『全体』のために存在すると同時に、それによって『生かされている』。『生かされている』ということは、生存を保証されている、つまりそこから離れれば死ぬということである。・・・細胞は組織のために生き、組織によって生かされ、組織はそれが構成する器官のために生きそれによって生かされ、器官はそれが構成する系統のために、系統は中枢をもった全体のために生きその中で生かされている。それぞれの存在の意味と価値と目的は、その上位の『全体』からしかこない。しかし人体が最終的『全体』であるわけではない。人体は心あるいは魂を宿し、そのために存在するものとして、つまり人格というより上位のものによって意味を与えられる。しかし個々人の人格はそれ自体で意味を持つだろうか。個々人の人格はより大きな人間全体の中で意味を与えられ、人間のすべてが人間を超えたものによって生命を与えられている以上、人間は自分の存在の意味や価値や目的を自分で決めることはできない。人間存在の意味や価値や目的は、人間を超えた上位のより大きな『全体』からくるよりほかはない。自分という存在の意味は、自分以外のもの、すなわち自分を超えた共同体、さらには人間を超えた大きな生命(ここは『不可視の究極的全体』というべき…筆者)との関連においてしか生まれないのである。
 (したがって)人間が存在のヒエラルキーの終着点であるわけではない。自分が何のために生まれてきたかという問いに対する解答は、自己というレベルの中では与えられていない。人間は自分自身のために生きる存在ではない。もしあくまで自己中心主義を貫くなら、それは結局、自己否定・自己破壊につながるということが、頭で考えた倫理・人の道などでなく、この自然の秩序から導き出される道理であることがわかるであろう。」

 それにしても、生命をその働きのもつホーリスティックな属性のもとに、このような物理学や化学を超えた領域、それも「不可視の世界の究極的全体」とのかかわりにまで踏み込んで説明しているものは他に少なく、そのうえ人間存在の意味と価値の絶対的よりどころまで示し得ているところに渡辺哲学のユニークさ、すごさをみる思いがします。のちにふれますが、生命および自我の起源がそのような「不可視の究極的全体」にあるとする点では、シュタイナーの生命観、人間観にも通じるものです。


 渡辺氏はこの文章のあとに、「全体論(ホーリズム)」の観点から、現代医学の在り方の問題、深刻な病気である癌や青少年の非行問題の本質について刮目すべき論述を続けます。/span>









つぎの記事に続く
第七章 人間、このすばらしい可能性を秘めた尊き存在 ③生命のホーリスティクな在りよう…Part2