17.03.11 徳倉城[松田氏家臣宇垣氏の城]@岡山県岡山市 その1 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

本日より、数回、岡山に行った際のレポを書いてまいります。

この日は、友人が用事で岡山に行くという事で、それならばついでに僕も…という形で、ちゃっかり

同乗させて頂きました。

最終的には僕がメインだったのでは?と思ってしまうほどでしたが。

そんな岡山行き、まずは岡山空港の近くにある徳倉城 を目指しました。

 

 

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今回からカラーを変更+追加します。

 

見所となる遺構 (土塁など)はブルー、名前のある場所 (本丸など)はパープル

現存建築物 (移築建築物含む)はピンク、再現建築物 (模擬建築物含む)はオレンジ

そして跡地 (櫓跡など)はグリーンで表記します。

 

 

 

 説明&鳥瞰図

 

 

 

日本城郭大系によりますと…。

 

史料上最も古く現れているのは『太平記』で、康安2年(1362)に、備中守護高師秀山名勢に

攻められ、備前徳倉城に退いたとされています。

ただこの件については信憑性に欠けているそうです。

 

史料の信憑性に欠けますが『松田氏系図』におりますと、備前松田氏の家運を再興した、松田元隆

の三男である松田親秀(四男松田元資の説もあり)が文明8年(1476)に居城したと書かれています。

この記事の正否は別として、応仁の乱に際して備前西半を掌握し、実質的守護代にまで台頭した

松田元隆が、松田氏の当時の本拠地であった金川城から富山城に至る経路の抑えにこの城を構え

一族の者を城代にした可能性は非常に高いようです。

元隆の子で、松田家中興の祖と言われる、松田元成の代に、金川城が小戦国大名の居城に整備

された段階で、この城も周辺を固める出城にされ、一族の者が城主を務めたと考えられます。

 

その後、松田氏の重臣で城の谷水田を含めて、宇垣の小平野を掌握していた国人と考えられる

宇垣氏が代々居城としたと考えられます。

天文年間(1532~1555)から永禄5年(1562)頃には、宇垣市郎兵衛が城主でした。

宇垣市郎兵衛は、松田氏政略を画策する、宇喜多直家による弟の暗殺と、主家との離反工作にあい

永禄10年(1567)頃には退去しています。

 

永禄11年(1568)に松田氏を滅ぼし、宇喜多直家が備前西半を支配すると、直家の寵臣

遠藤河内守が徳倉城主になります。

遠藤河内守は『浮田家分限帳』には4,500石を領していたとあります。

宇喜多氏の備前平定=戦国大名としての支配体制を確立に伴って安定期に入ると、岡山城の形成が

始まり、天正末年(1592)には遠藤河内守はこの城に城番を置いて岡山に移住しました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で宇喜多氏が没落し、小早川秀秋が備前国主となると

この城は廃城となります。

 

 

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鳥瞰図の大手登山道から登城開始。

で、しばらくすると削平地が登場しました。

ここが出丸 なのか?

 

 しかしですねぇ~。

 

 

 

この近くに切岸 があり、その上は尾根となっています。

セオリー通りならこの尾根上が曲輪のハズだが…まぁ登らなくてイイでしょ口笛

 

 登る気はサラサラありませんでしたが口笛

 

 

 

でも結局この削平地を進んでいくと、尾根上に出てきました。

確かに削平地 になっていましたが…狭いんですよね。

 

 この後、苦難の道が…。

 

 

 

背の低い木々やシダなどで、道が判然としません。

ただ、尾根上だという事は判っていたので、そのまま進んでいきます。

 

 マシな所で写真を一枚。

 

 

 

痩せ尾根を進んで行くと、堀切 に出くわしました。

ただ、堀切?って感じでしたけどね。

 

 横から見ると、堀切に見えんもやもや

 

 

 上から見た方が、堀切チックだわ。

 

 

 

堀切を超え、さらに痩せ尾根を歩いていきます。

 

 削平地かと思って撮ってるパターンですなアセアセ

 

 

 

出丸郭 にやってまいりました。

でも、出丸があって出丸郭もある。

ややこしくないかもやもや

 

 案内板には出丸長郭となってましたけどね。

 

 

 

またもや堀切 の登場ですが…これは自然地形のように見えましたけどねぇ~。

 

 堀切チックという事でニヤリ

 

 

 

石積 を発見しました!!

ここから階郭が尾根に沿って展開していきます。

 

 忘れていましたが…。

 

 

 

この石積の間は炭焼き窯跡となっていました。

 でも石積の目が行ってしまいました。

 

 

 

この石積がある場所から付近の尾根下には堀切 が見られました。

ただ、降りる勇気はありませんでしたアセアセ

 

 真下に堀切があるの判りますよね。

 

 

 

大手曲輪 と呼ばれる段郭 が始まりました。

尾根を伝って、段々に曲輪が展開していく。

中世山城ではよく見かけられますね。

 

 段郭という事は…。

 

 

 

段郭になっているという事は切岸 も勿論あるという事。

しかも比高があるので、切岸がかなり高い!

 

 切岸マニアの方も喜んでもらえると思います…って見難いけどアセアセ

 

 

 

猫の額程度の広さ(言い過ぎ)の曲輪 もあります。

 

 

 

 こんな曲輪も意味があるハズです。

 

 

 

切岸 も下から撮れない箇所もあります。

 

 城に行けば日常茶飯事ですけどね。

 

 

 

二の丸切岸 下までやってきました。

登山道を進んで行くと何となくではありますが、虎口 っぽくなっている箇所を通過しようとすると…。

 

 少しだけ見えますが…。

 

 

 

石積 が登場しました!

しかも、なかなか良好な状態で!

これには正直、感動しました。

 

 もっと感動するシーンが登場しますが。

 

 

 

周辺にも石積 の残骸が見てとれました。

虎口付近に石積。

権力の誇示などという意味合いでしょうね。

 

 

 

 宇喜多氏時代のモノでしょうね。

 

 

 

二の丸 に到達しました。

ただ、広さは木々が生い茂っているので判りませんガーン

 

 登山道のある場所のみしか…。

 

 

 

二の丸の奥に井戸 がありました。

ただ井戸というか、滴って来る水が溜まる場所なのかもしれません。

 

 綺麗ではありませんが、水が溜まってました。

 

 

 

その1はここまで。

その2に続きますm(_ _)m