16.12.30 興国寺城[北条早雲最初の持ち城]@静岡県沼津市 その2 | ぬるま湯に浸かった状態

ぬるま湯に浸かった状態

城巡りを中心にしたブログです。
『ぬるい』ので入られる方はご注意ください。

興国寺城 レポ第2弾です。

その1押左矢印からリンクしています。

 

 

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韮山城押で止まっていた、北条早雲の北条早雲の生涯についてですが、その続きを書いていきます。

 

足利茶々丸を撃ち滅ぼした後、相模方面へ本格的に転進し、関東に進出しようとした北条早雲ですが

茶々丸討伐の名目を失い、この後の軍事行動は困難を極めていきます。

しかし徐々にですが相模に地歩を築いていきます。

永正元年(1504)8月、武蔵立河原の戦いで、扇谷上杉定正の甥で当主の扇谷上杉朝良に味方し

今川氏親と共に出陣した早雲は、関東管領山内上杉顕定に勝利します。

ところが、顕定は弟で越後守護上杉房能越後守護代長尾能景の来援を得て、相模に侵入。

支城を陥落させられ河越城に追い込まれた朝良は、永正2年(1505)に顕定に降伏します。

これにより、早雲は、山内、扇谷両上杉氏との対立を与儀なくされます。

 

永正3年(1506)相模で検地を行っている事が確認されています。

これは戦国大名として初めて実施した検地とされています。

 

永正4年(1507)に上杉房能が、長尾能景の子で越後守護代、長尾為景によって殺されます。

早雲は、為景や長尾景春と手を組み、顕定を牽制します。

永正6年(1509)7月、山内上杉顕定は大軍を率いて為景討伐の為、越後に出陣すると、その隙をついて

扇谷上杉朝良の本拠、江戸城に迫ります。

上野に出陣中だった朝良は兵を取って返し、永正7年(1510)まで武蔵、相模で干戈を交えます。

早雲は権現山城上田正盛を扇谷上杉氏から離反させ攻勢に出ますが、山内上杉氏の援軍を

得た、扇谷上杉氏が反撃に出て権現山城は落城。

三浦義同が早雲方の住吉要害を陥落させて、小田原まで迫ります。

一敗地に塗れた早雲は朝良と和睦します。

 

一方、同年6月10日に、越後に出陣していた顕定は、為景の反撃に遭い敗死。

死後、山内上杉氏で跡目争いが勃発。

同時期にでも内紛が起き、朝良はその調停に追われます。

この一連の動きは永正の乱と呼ばれています。

 

永正9年(1512)8月、早雲は大勢を立て直し、岡崎城を攻略。

義同を住吉城に追い落とし、さらに住吉城を落城させ、義同は息子、三浦義意の守る三崎城

逃げ込みます。

早雲は鎌倉に入り、相模は三浦半島を除いて、ほぼ掌握します。

朝良の甥である扇谷上杉朝興が江戸城より救援に駆けつけますが、早雲はそれを撃退。

同年10月には鎌倉に玉縄城を築き、三浦氏を三浦半島に封じ込めます。

永正13年(1516)8月、朝興が三浦氏救援の為、玉縄城を攻めますが、早雲はそれを打ち破り

逆に三崎城を攻め寄せ、そして義同、義意親子は討死します。

ここに早雲は相模を平定します。

 

その後、早雲は上総真里谷武田氏を支援して、房総半島に渡り、永正14年(1517)まで転戦

しています。

 

永正15年(1518)に嫡男、北条氏綱に家督を譲り、永正16年(1519)に死去しました。

後嗣の氏綱は2年後に早雲寺を開創し、菩提寺としました。

 

 

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 空中写真

 

 

 

現存物 (移築含む)はブルー、再現物 (模擬含む)はパープル、跡地 (櫓跡など)はグリーン

そして見所となる遺構 (土塁や曲輪など)はピンクで表記します。

 

 

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土塁の北側の横堀に降りていきます。

途中の絵なのですが…土塁 を歩ていけるんですよ。

こんなのありえんですよ。

他の城では。

 

 スゴイ光景です。

 

 

 

横堀 に降りてきました。

この空堀の深さは本当に驚愕です。

しかも横矢 が掛かっている!

 

 深い空堀に横矢が掛かるってたまったもんじゃない!!

 

 

 

ここまで深い空堀は、一昨年の滝山城や、シラス台地上の南九州の城などが印象に残っていますが

それらに匹敵するほどのインパクトです。

さらに、そこにここまでハッキリとした横矢が掛かっているのは、この興国寺城が初めてです。

 

 越中増山城の空堀もインパクトあったなぁ~。

 

 

 

では、この横矢の掛かっている横堀の写真を数枚どうぞ!

 

 

 

 

 

 

 

 

切岸 の斜度もなかなかのモノですよ。

 

 ただこの写真は切岸というより横矢を主眼に撮ったと思われますアセアセ

 

 

 

場所を移動します。

本丸の東側には伝東船着場 があります…が完全にヤブアセアセ

しかし、太平洋から遠く離れた興国寺城。

何故に船着場?

 

 湖沼だったのだろうか?

 

 

 

東船着場に行くまでに、竪堀 を通りました。

 

 ただ竪堀というより堀底道の雰囲気。

 

 

 

この竪堀の北側にもう一条竪堀 が見られ、二条の竪堀の間には竪土塁 が見られました。

しかし、北側の一条は少々怪しい感じもしました。

 

 あくまでも感ですけどね。

 

 

 

竪堀を登る途中に見た残念石

矢穴が見られましたが…。

 

 矢穴が写真じゃ判り難いもやもや

 

 

 

さて、北曲輪の切岸から見た、横堀です。

天守台 で横矢を掛けているのがこの図で判ると思います。

ちなみにこの写真は、興国寺城の中では一番のアングル写真だと思っています。

 

 横堀の雄大さを感じますよね(自画自賛)。

 

 

 

北曲輪 に登ってきたのですが…なんもないじゃんもやもや

 

 あったのはヒッツキムシだけでしたもやもや

 

 

 

北曲輪の西への張り出し部

櫓でもあったのではないかと思えるような感じでした。

 

 あくまでも想像ですが。

 

 

 

またもや天守台を。

手前の草がなければ、これもBESTショットだったのにガーン

 

 重厚感半端ない!

 

 

 

横堀に降りて西に向かって歩いていくと、防空壕 が見られました。

あの知覧城押以来ですね。

防空壕が掘られている城は。

 

 防空壕の穴自体は知覧城のそれより小さいですね。

 

 

 

少し陽が傾いてきました。

急いで廻りましょう。

これは本丸西側の土塁 を外側から撮ったものですが…鬱蒼とした森と化していました。

 

 でも土塁ってこうなるんでしょうね。

 

 

 

最後に南側に廻りこんできました。

ここが二の丸 になります。

改変で旧状はよく判らない状態です。

 

 伊勢新九郎祭り、これにて終了です。

 

 

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興国寺城。

韮山城と同じく憧れの地。

ただ、韮山と違うのは、かなり破壊が進んでいるところは残念でした。

それでも、あの高い土塁と、背後の空堀には衝撃を受けました。

勿論、それらは北条早雲の時代のモノではないでしょうが。

整備事業も考えられているようですが、今の時代、かなり厳しいモノがあるでしょう。

ただ最低限、今の状況を保てるようにしてほしいですね。

 

 

興国寺城には駐車場押が完備されていました。

お手洗いは神社の隣に仮設トイレが設置されていますが、できれば先にどこかで済ませておく事を

お勧めします。

探訪時間は45分ほどだったと思います。

 

 

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ここでUさんとはお別れです。

やや絡み辛い2人だったと思いますが、色々と気を遣って頂き、有難うございましたm(_ _)m

どこかで、また一緒に城巡りできれば良いと思ってます。

 

 

Uさんとお別れして蛇左衛悶氏と、一緒に焼津へ戻りました。

宿に車を入れて、再び夜の焼津へ…って殆どの居酒屋が埋まっている状態。

で、カオスな居酒屋さんに入りました。

おばちゃん一人で切り盛りしており、最初は我々を歓迎してくれましたが、お客さんがドンドン来店

し始めるとシンドイとアピールしていました。

それより何より、店内が寒すぎたガーン

この後、ラーメンを食した後、蛇左衛悶氏ともお別れ。

わざわざ一時帰国の時間を割いて、一緒に城巡りしてくれて有難うございましたm(_ _)m

しかも、syunpatsu流の早起きも強要してしまいアセアセ

また帰国する際はご一報ください。

そして本格帰国の際は、豊前、豊後に!