しょうちゃん@KOBE(時々南相馬)のイモッコ日記

しょうちゃん@KOBE(時々南相馬)のイモッコ日記

神戸でイモイモしていた人が、福島県の南相馬に来てからそこそこイキイキと生きれるようになって…また神戸に戻ってきた人の気まぐれ日記。

Amebaでブログを始めよう!

2年前から南相馬の隣町の浪江町(原発事故のあったふくいちから10km圏内)にある新聞屋さんで配達のお手伝いをし始めて、『新聞配達やってた中であったゆるーい出来事とかまた載せて行けたらいいなぁ…』と思ってたのですが、その頃から自分の時間をなかなか持てなくなり(空いてる時間ができれば睡眠不足解消のために寝るだけみたいな、、、汗;)、結果、こちらのアメーバー日記もしばらくご無沙汰してました。。。(新聞配達でのゆるーい出来事もまたイラスト付きとかで書いてみようと思います♪( ´▽`))。

 

さて。


震災復旧・復興イメージも薄らいできた昨今、『自分はこのままここにいていいのか?神戸の親家族の近くにいても出来ることを今はただやってるだけじゃないか?』と日に日に思うようになり、先月9年ぶりに常磐線が全線開通したことで『とりあえず常磐線が全通するまではここにいよう』と当初立てていた時期目標が達成され、いよいよ自分がここにいる意味や将来が見えなくなっていた(何もかもに興味の消えた無気力状態・苦笑)わけだったんですけども…時期を同じくして想定外だった『コロナ』が発生し、報道などで日に日に厳しくなる東京をはじめとする都市型地域の状況や知り合いの多い神戸の状況と比べた時

 

『この先また大きな災害が起きたりしたときに、ここなら生きていけるように感じる…』

 

と、そのまま南相馬への移住を決めたときになんとなく思ったことを思い出し(決めた理由はその他にもあったけど)、なーんか『アメブロでも書いてみっか』となりました。

 

また間が開くかもしれないけど(笑)。

 

(なお、2年前に突如スイッチの入った岡田有希子ちゃん熱はひとまず落ち着き、新聞配達中に歌を聞くくらいのレベルにおさまりました・笑)。

 

 

南相馬の牛乳屋さんの社長さん家族が作った僕デザインのコラボマスク(笑)

前回の記事で下書きだったこちらの『二人のブルー・トレイン』テーマのイラスト。

 

 

 

 

 

 

 

 

デザイン系の仕事がまだちょいと残っているので、また時間が出来たら描きたしたり色塗ったり…しようと思ってたんですが…

 

 

ばーん!

 

 

 

 

あたま詰まったので(笑)息抜きに描きたして塗っちゃいました(`_´)ゞ(仕事しろ!)

 

 

 

ただ、下地の紙に色がついているのでユッコちゃんの衣装の色が沈んじゃって…そんでもって光の表現含めてホワイトを…と思ったのですが、いきなり直に絵の具でホワイトを入れることに戸惑ってしまったので…((((; ゚Д゚)))))))

 

 

 

 

どや!

 

 

 

 

スキャンで取り込んでフォトショでホワイト入れしてみました〜(○´ω`○)ゞ。

 

ビバ文明の利器!(笑)

 

 

 

 

比較イラスト画像。ブルトレ(Love Fair)衣装のユッコちゃんらしくなったでしょ?

 

 

 

 

今回は後ろ姿だったので、今度機会あれば同じテーマで顔の見えるユッコちゃんを描いてみようかと思います(`・ω・´)キリッ

 

(アナログでのホワイト調整も頑張ってみよう…アクリルガッシュの白買わな…)

 

 

 

ちなみに今回これを描いている最中、頭の中でずっとかかっていたのはユッコちゃんの『二人のブルー・トレイン』でなく、彼女が活躍していた時代に流行っていたH2Oの『想い出がいっぱい』でした。

 

 

彼女に対して、“自分で終えてしまったことをいつまでも後悔せずに、次生まれ変わる時のために笑顔で前向きにいてほしいな…”という思いが基本的にあって、ネットから落とした資料写真(今回はYoutbeのスクショが主)を見てくうち…“私、少女だったんだなぁ…”とあの世で当時を振り返ってちょっと後悔しつつも“でも、私、大丈夫だよ!”と笑顔でいてるイメージを思い浮かべて…なんか、そんな妄想しながらカキカキ(笑)。

 

 

 

 

 

((((; ゚Д゚)))))))あ。

 

 

 

そうそう。ユッコちゃんの資料写真で思い出したことが。

 

 

ファンの方にすすめられたのもあって、帰省途中の先日の8月13日にユッコちゃんのお墓に初めて立ち寄ってみました。

 

その道中ネタのような色々なおもしろ展開があったのでその日のことを『ズッコケ旅行記』みたいな感じでまたアメブロに書こうかなと思っているのですが…ファンの方が来られた方に見てもらえるようにとお寺に置いてあったユッコちゃんの生写真が持ち去られていたようで、ちょっと悲しかったです。

 

 

えっとですね、ぼくは『因果応報』という言葉を信じておりまして…多くは言わぬ…

 

ので、この記事を読んだ方の中でもし!

 

持ち帰った方がおられたなら…『ごめんなさい』とちゃんと謝って返しましょう!(`・ω・´)キリッ

 

 

 

 

 

 

 

(いつか…“想い出がいっぱい”をバックにユッコちゃんのなにかしらPV作ってみたいなぁ…(○´ω`○)ゞ)

 

前にも書きましたが、没後30年以上経ってユッコちゃんに急速にハマっていった自分なわけですけども。

 

不思議な引力に引っ張られてくかのように、知らなかったユッコちゃんにのめり込んでく過程で“そういや…wikiか何かで、ブルトレの歌が曲目リストにあったな…”と思い出し、Youtubeで探してみたら…

 

 

おおお!

歌ってる映像があるみたいやないか!!聞こう!!

 

 

と見つけて見てみたこちらの映像(歌)。

 

 

 

 

見た瞬間『((((;゚Д゚)))))))ぬぉぉぉおおおお!!!(なんだこのシュシュポポ踊りはーw)』と、ユッコちゃんにハマってしまう決定打になりました(笑)。

 

 

 

といいますのも。

 

プロフィにも書いてるのですけど元々鉄道の中でも『ブルートレイン』が大好き少年でして(全廃しちゃった今もめっちゃ乗りたい)。

 

そんな大好きなブルトレの歌をユッコちゃんが歌ってたってだけでなく、この時の衣装が以前なんとなく思い描いた“夢列車のカラーリングとほぼ重なっとるやないか━━(゚∀゚)━━!!”

 

5年前に考えてたやつ(一部)

 

…っていうのもありまして(笑)。

 

 

この衣装はカップリング曲A面の『Love Fair』の衣装なのですけど、これ見た瞬間からぼくの中では『二人のブルトレ』衣装に♪( ´▽`)

 

 

 

 

|・ω・`)…

 

 

 

 

…さて、話は戻り。

 

 

ブルトレで旅をしたことがある人なら分かると思うのですが、この歌、寝台列車ならではの旅情感と秘密の旅をする女の子のドキドキ感を表現したカワイイ歌←(クリックしたら歌詞出てきます)なんですね〜。

 

たぶん、ユッコちゃんも嫌いじゃなかったんちゃうかなー…

 

でも、先ほどの映像を見て頂くと分かるのですけど、この時のユッコちゃんはかなり体調不良やったようで(無理して頑張ってる感が彼女らしいというか、なんというか…)、完璧主義者?とても真面目で頑固?(負けず嫌いとかw)…だったという性格から、表現者として悔しくて歌い終わって楽屋で一人こんな感じやったんちゃうかなーってなんとなく…(イチ個人の妄想ですよw)。

 

 

 

そういう悔しい思いもちゃんとリベンジ出来ないままだったんちゃうかなーとか思って(この時の二人のブルトレをリベンジしたかったかどうかはさておきw)、前の記事の『【職】絵の中でイキイキ。』にも書いたのですけど、『じゃ、僕なりに出来ることやってみるか!この思い、届くかわからんけど!』という考えにもつながったわけです。

 

 

そう思いついてふと、南相馬の仕事で作った『スターティングノート』という学生用の進路ノートの表紙絵の見本用としてたまたまブルトレを描いてる途中だったことを思い出し…

 

 

当初、大学進学とかで我が故郷を旅立つ若者のイメージだったわけですけど…

 

 

 

改めて『これを“二人のブルトレ”の世界にしよう!』と少し改変。


 

ホームに立ってた若者が…((((; ゚Д゚)))))))

 

 

二人のブルトレ衣装のユッコちゃんに〜(○´ω`○)

 

 

『二人のブルートレイン』は当時の東京駅発の『出雲』号をモチーフに?竹内まりやさんが書いたとのことで、駅の番線もそれに合わせて変更してみました(笑・ヲタのこだわり)。

 

当初、約束の時間に彼をホームで待つユッコちゃんを想定してたのですけど…“さすがにこの衣装で誰にも秘密の旅はないなw”と思い、“秘密の旅をしようとしているどこぞの二人をニコニコ優しく見守る天使的ユッコちゃん設定にしよかいな。なんかそっちの方がユッコちゃんっぽいし!”と、仕事落ち着いて暇出来たら、また描き足したり色塗りとかしよかと!(`・ω・´)キリッ

 

 

そんな隠れた名曲(個人的にユッコちゃんの曲No.1!)の『二人のブルー・トレイン』をよければ聞いたげてくださいね♪( ´▽`)

 

 

 

ちょい前の記事で出てたヤツ

 

 

今日は山が大好きだった親父の69回目の誕生日。

あの世にいくまでの10年ほど躁鬱病で入退院を繰り返してた上、写真に撮られることを得意とせずな人だったので笑顔の写真がほぼなく、唯一見つけた写真がどっかの飲み会で顔の赤くなったみんなとのちょいクソ集合写真だったので(笑)、肌の色を通常モードにして、背景取り除いた代わりに大好きだった夏の富士山を合成して遺影にした10年前。

倒れたところも、『北海道の山道で野垂れタヒにたい』との夢が叶った北海道の幌尻岳で、その後『山の日』という国民の休日になり、なんつーか、『終わりよければ全て良し!』を絵に描いたような人生を歩んだ人でもあるなと。


僕自身『霊が見える』とかではないのですけど、あの世に旅立つ前に夢で知らせてくれたり(当時のリアル日記が今もmixiに♪)、親父を引き取りに北海道へ行った時も色々と奇跡的なことを起こしてくれたり(以下のリンク先から当時のアメブロ日記見れます(`_´)ゞ)、南相馬に来てからも、不思議な縁で人とつながっていくのを驚く地元の方から『カノーさんのお父さんが絶対あの世からカノーさんを操作してるよねーw』と言ってもらえたりしたので、あの世にいった人と会話は出来なくても思いは伝わり合ったりするのかなーと思うようになったのがここ最近のデフォだったり。

 

>>過去記事はこちらから。興味を持った方は是非♪( ´▽`)

オトンとの奇跡の寝台特急カシオペア物語(その1)

オトンとの奇跡の寝台特急カシオペア物語(その2)

オトンとの奇跡の寝台特急カシオペア物語(完結編)

 

 

なので、ここの最近の記事はちょいとスピリチュアルな感じなのですけど(ユッコさん色にだいぶ偏ってますけどww)、そういうのを意識しながら毎日を過ごすことって大事なこと何じゃないかなーって思ったりします。

 

 

声は聞こえなくても、きっと思いは伝え合える。

 

って考えると、いつまでも嘆いでたり悲しんでいたら向こうにいった人もきっと哀しむから、肉体は滅んでしまっていてもその人のことを楽しく愛しく思って、終わるまで精一杯自分の人生を生きてやろう。

 

余力があれば、その人が生きているうちにやり遂げれなかったことを自分なりに出来ることでやってやろう。

 

今『生かされている意味』を自分なりに。

 

(昨日の記事の、南相馬でやってることはそんな意味も含めてやってたり♪)

 



…そんなわけで国民の休日の今日はウチのオトンの祝日なのだと、心の中で盛大に祝いながら過してやります♪( ´▽`)

南相馬ではデザイン・イラスト仕事(絵しごと?絵師ごと??・笑)をやっている僕ですが、時よりその中で職権乱用?(笑)的な遊びをやっています。

 

 

それは“絵の世界の中でイキイキさせる!”という遊び。

 

 

 

(´◉ω◉)ハ? コイツ、ナニユーテマンネン

 

 

 

 

|・ω・`)

 

 

|・ω・`)…(…仕方ねぇなぁ…例を見せるか…)

 

 

|・`)

 

 

|)

 

 

 

 

こちらは以前ウチで飼っていた三毛猫の“カーコ”さん。

 

 

フワフワッ♪の三毛やってん♪

 

 

この“カーコ”さんは、僕が中学を卒業する頃にオカンが妹の誕生日プレゼントにともらってきて、その後15年一緒に過した家族です。

 

その“カーコ”さんを南相馬でのデザイン・イラスト仕事作品の中で時より登場させてます。

 

 

 

 

例えば…

 

先の原発事故の影響により、震災から5年経ってやっと生活が再開出来るようになった南相馬・小高の話の本の中の…

 

『その二』の方のイラストを担当しました!

 

 

 

 

最後の見開きページの…

 

 

 

 

さて!どこにいるでしょう!?

 

 

 

 

(; ゚Д゚)…はて?

 

 

 

 

 

 

正解はこちら!

 

 

 

 

 

はい、コタツで家族談義している布団の裾で気持ちよく寝てる子がウチの子です♪

 

 

 

 

 

そしてもうひとつは、上記の事故を起こした原子力発電所からちょうど直線距離20kmくらいのところの国道6号線沿いにある、除染作業で出た汚染土などの仮置き場の壁面にデザインしたイラストの中に。

 

 

 

国道6号線から見た風景。どこにいるかわかりますか?(笑)

 

 

 

 

(; ゚Д゚)…はてはて?

 

 

 

 

 

 

正解はこちら!

(風景写真)左下のコでした!

 

 

こちらは…“この地で様々な苦難を乗り越えてきた先輩達が見守ってるから、君たちも安心して自分のできることからコツコツ頑張っていくんだぞ!”という、ここで生まれ育ったクライアントさんの思いを込めて『時を越えた世代伝承』をテーマに制作しました(この地域は『相馬野馬追』という、いにしえの時代から続く神事を行なっている地域なのであります・(`_´)ゞ)。

 

 

なお僕はここを車で通過するとき、“カーコぉぉおお!!( ´Д`)ノ”と車の中であいさつしたりしています(笑)。

 

 

 

 

 

そして先日。

 

 

『30年以上経って気付かされて、ある種ファンになった女の子(前・前々記事参照)』を、毎度お世話になっている方のところで開催する浴衣の着付け教室のキャラとして…絵描き人生40年ちょい、デザイナー人生20年くらい…で、初めての忠実系で女の子をトレース(トレペとかで写すとかでなく)せずに描きました(`_´)ゞ

 

 

 

 

(注・イベントは終わってます)

 

 

と言っても、首から下の部分はフリーの素材イラストの浴衣の女の子とかをベースにしたんですけどね(大汗;)

 

 

 

 

これまで、似顔絵キャラ程度ならチラッとだけやったことはあるのですが…

 

さらに。

元々人を描くのが苦手で、その中でも特に女の子は描くことを避けていたところがあったのですが…

 

この、色々と気付かせてくれたこの女の子(生まれた順でいくと自分よりお姉さんですけど・汗;)に『夢半ばで途絶えさせてしまった無念を晴らすお手伝いを僕の出来ることで僕なりに…』みたいな思惑が芽生えたことで、そのウォーミングアップとして今回オリジナルで女の子のイラスト制作にチャレンジしてみました(似てるかどうかは一旦おいといてつかーさい…汗;)。

 

イメージは…『晴れ晴れ大人になった…二十歳くらい♪』という設定です。

 

 

 

で、地元印刷屋さんで制作してもらった上のチラシが出来上がり、Facebookでこのことをお知らせしたら…神戸のお友達から『首長っ!』等突っ込まれたので、その後修正したのがこちらです(苦笑)。

 

 

(どこいじったかわかります?)

 

 

指摘された首(長さというより頭の角度)と鼻の下の陰影もちょこっと直してみました(右)。

 

うむ!

最初(左)より自然な感じの身近にいるような存在の女の子になったような気がします!(自画自賛!想像だけで描くのではなく、ちゃんと実際の浴衣やら人物やらを研究して描かないといけませんね…汗;)。

 

 

そんなわけで!

 

“絵の世界の中でイキイキさせてやる!(この女の子さんの場合は…今度生まれ変わった時に叶えたかったもうひとつの夢を実現出来るように!との思いも込めつつ)”ってな考えで、これからも出来る時にコツコツ描いていきたいと思います・(`_´)ゞ

ユッコさんの話題になると、必ず名前の出てくる俳優さんがいる。


峰岸 徹(みねぎし とおる)さん。


ユッコさんが身を投げた原因の人として、当時悪者の様に報道されていた俳優さんです。

当時僕はまだまだユッコさんのファンではなかったけれど、峰岸さんのことは悪者のように思ってしまい、それ以後もテレビで時々見かけると『岡田有希子の…』と、どことなくそのネガティブな目で見ていました。

しかし、峰岸さんを悪者のような目で見るようになってから20年が過ぎた頃に、峰岸さんの見方が少し変わる出来事がありました。

 

それは『親父の死』『おくりびと』を見たこと で。

たまたま“今日から始まる『おくりびと』見に行こう!”と思ったその日に親父の訃報が届き、親父の件が落ち着いた頃にやっと見に行けたわけですけども、峰岸さんはその『おくりびと』の映画で主人公の本木雅弘(モッくん)さんのお父さん役として出演されていて、その映画の中の峰岸さんと親父がダブり、それまで気付いていなかった親父のことに色々と気付くことが出来たのです。

また峰岸さんは、親父が亡くなってから1ケ月後ぐらいの『おくりびと』公開中に亡くなられたこともあって、余計に。
 

 

………………………………………

以下は『Facebook絵日記』ってのを1年くらい続けていた時に書いた

2012年6月25日の記事からの原文ママの抜粋です

………………………………………
 

 

【絵日記】

2008年9月13日。

『今日から“おくりびと”公開やな。見に行きたいな。人いっぱいか。』

そんなこと思いながら仕事してたら、妹から“お父さんが北海道の難所の山で亡くなったみたい…”と泣きながら電話がかかってきた。

翌日おばあちゃんと三人で確認のために北海道へ直行。

『難所の山で亡くなったし、まだまだ夏場だから損傷とか…』と、色々覚悟していた。

でも、親父の遺体は生きているようにとてもきれいにされていて驚いた。



…それから半年くらい経った後、改めて“おくりびと”を見に行った。

『あぁ…こうやって名も知らぬ誰かが、親父をきれいにしてくれたんだ』と泣いた。



でも、個人的にもっと印象に残ったのは別のシーン。

それは、主人公が幼い頃に父親と交わした“石文”のシーン。

描いたイラストは幼い頃の自分と若い頃の親父をイメージしてなんですけど

映画でもこんな感じのシーンがあったんす。

 


“石文”とは…まだ“言葉”が存在してなかった昔に、誰かに対して自分の考えや思いに近い、川辺とかに転がってる色んな質感やカタチ・重さの石を探し出して、その石を交換して考えや思いを伝えていた…と考えられてるコミュニケーション手法。

このシーンを見てワンワン泣いた。

何故なら、言葉のコミュニケーションのほとんどなかった自分の親子関係だったものの、ひたすら絵を描いてる自分を特に厳しく怒らなかったり、登山に連れて行ったりした時はアケビを取ってきて“食ってみ”と一言言われて食べさせたり、親父の田舎の愛媛に帰った時は家の裏山に行って土をいじらせたり葉っぱの匂いを嗅がせたり…そういうことは色々と教えてくれていたんだと気づかされたから。



今の時代、“コミュニケーション能力”という部分が色んな分野でとても重要視されている。

でも、個人的には“言葉のコミュニケーションに偏りすぎてはしてないか?”と思う。
また、言葉は上手いんだけど“中身あるのそれ?”と疑問に感じる人もいる。

いまだに言葉のコミュニケーションが下手な自分が言うのもなんだが…ノンバーバル(言葉によらない)コミュニケーションを見直していかなあかんのちゃうかな?

 

 

………………………………………

以上

………………………………………



…そんなわけで、その映画を見た時に峰岸さんとモッくんにもの凄く感謝していたのですけど…峰岸さんに対しては『きっとあの後も色々と言われてご苦労されたのだろうな。親父のこと、気付かせてくれてありがとう。どうか安らかに。』…と思いながらも、気持ち的にはまだモヤッとしたものが残っていて、完全クリアにはなっていなかったのです。

それからさらに10年が経って、ここ最近になりユッコさんのことを色々と調べたりしていくうちに、ユッコさんとともに峰岸さんへのネガティブな思い込みも少しずつ消えていき、とあるファンの方が書いていたユッコさんと峰岸さんの記事を見つけ読んで超共感、悪者のような目で見るようになってから30年以上も過ぎてやっとクリアな気持ちになれました。

そんな過程で、『えー!峰岸さんだけじゃなくてモッくんらとかとも仲良かったんすかー!えー!』『絵得意やったんすか!えー!えー!』…その他諸々、共感出来る部分とか自分の人生においての縁がありありすぎて、ユッコさんに急速にのめり込んでいったわけなのです、ええ(笑・ただ『かわいー!!』ってとこだけでなくw)。

 

………………………………………

 

そんな昨日。

 

『せっかく購入したCDのジャケットをしまうのはなぁ…どっか…あ。ええとこあった!』と思って若い頃(1985年頃)の親父の写真の空いてる所に置いてみました。

 

( ゚Д゚)…

 

オトン、こころなし嬉しそうに見えるw

 

ファンになりまして…

 

このGWにYouTubeで見てるうちに(笑)。



この人の印象は、あの衝撃的な出来事があった時(自分、小学6年生になった頃でした(`_´)ゞ)直近のイメージしかなくて、それ以来この人の名前を出すこともタブーなような気がずっとしていたのですけど…YouTubeで歌を歌っていない時の彼女の姿を見つけて、『あれ?この人こんなにフワッとした感じの人だったの?』と驚き。

 

フワッというか、あの当時は『岡田有希子=キレイな大人の女性』の様に思っていたのですけど…歌を歌っていない時の彼女はそれと違ってとても幼い純粋な人のように感じ、『そっかー。よくよく考えたら18歳って、姪っ子(二十歳)より歳下だもんなー。』と改めて思い、他の映像はどうだろう?もっと知りたい…と興味を持ち、デビュー当時からの映像を時系列で見つないだりしていくうち…当時のマスメディアの情報とかその後の都市伝説で言われてたようなところとは違うところに原因があったのか…と今頃になって気付かされたような気持ちになって、あの衝撃的な出来事以来ずーっと誤解してネガティブに思っていたことが申し訳なく感じて。

 

また、そもそもの好きなタイプの『笑顔美人(ってか、笑顔が半端なくかわえーw)』というのもあるのですけど(照)、絵描きになりたかったとか考え方とかに共感する部分も多かったりで、『43歳になってどうしちゃったの俺ww』と自分で心配しつつも、ほんと急激にハマってしまいました(笑;)。

 

 

 

そのハマってく過程の中で、印象に残ったYoutubeの2本。

どちらも、ここから2年もしないうちに自ら命を絶った人と同じ人とはどうしても思えず…(汗;今でも違和感)

 

ABCおはよう朝日出演時の『恋、はじめまして』。(スクショ:冒頭の照れの入った笑い方がもう、、)

 

 

 


スーパージョッキー出演時の『リトルプリンセス』。(スクショ:冒頭の眩しい笑顔の天使感がモゥ、、)

 

 

 

 

 

 

 

…そんなわけで、ここ最近沸々と涌いてきている思いを久々にブログに書き留めていこうかな(『☆ ユッコ(岡田有希子)さん関連』テーマカテゴリーを追加)と思っていますので、もしよければ!(`_´)ゞ

 

 

 

 

 

そんなわけで俺氏、こっぱずかしいタイトルのCDを購入ww

【しつこいようやけど昨日のブログ記事に続き・汗;】

 

[1995年1月17日]

阪神淡路大震災が起こる。

 

[1995年12月31日]

恩師が『震災に遭った人たちを元気にしたい!諦めんかったら夢は叶えることが出来るんやと!』と、明石天文科学館から子午線上にレーザー光線を飛ばすイベントをやり、それ以降、明石の年末海岸イベントとして年々拡大してく。

 

[2001年7月]

明石歩道橋の将棋倒しの事故が起こって、年末イベントがなくなる。

 

[2001年秋]

神戸の音屋(だったかな?)でファッションの専門学校でないのに学生たちの勢いでファッションショーをする。

 

[2002年夏]

ファッションショーに出てたモデルの学生が音楽デビューして時の人になる。

 

[2002年秋]

野外でショーをしたいということになり、あまり利用されてない東遊園地で学生ら企画運営で“神戸から若者の元気発信と感謝”をテーマにストリートショーを開催。

以降毎年5年ほど続く。

 

[2003年末・2004年末]

JR西日本の若手職員さん達と明石駅のコンコースでクリスマスイベントを開催。ファッションショーと地元の人たちの音楽会をして、その後、月イチ開催の明石市の駅のイベントとして発展。

 

[2005年4月]

尼崎で大事故が発生、JR西日本の職員さん達との取組・駅イベントが出来なくなる。

 

★その頃、東遊園地無料フェス(ゴーイングコウベ05)をやるとのことでボランティアの依頼があり、考えに賛同し誘導版とかの制作でしたけど、当時の学生がSTAFFとして参加。

連日慣れないPCでひとりコツコツ頑張って作ってて、忙しくてほとんどサポート出来ず、フェス当日も体験入学の仕事があって、参加出来ず…色々と申し訳なかったな。。

 

[2006年5月]

ゴーイングコウベ06に初参加。メインステージのメインゲストに卒業生・ストリートステージにも卒業生らが出演。

自分や学生たちと同じ考え・同じ東遊園地からはじまったイベントに卒業生らがゲストとして参加したことは嬉しかったけど、異様に開催場所を拡大したことと、対面型のステージを我先にと大移動するお客さんに恐怖と疑問を感じ、それ以降、行く気を無くす。

そして、卒業生のファンの子がゴーイングコウベに来れてなかった理由に、尼崎の事故(2両目で被災)に巻き込まれていたからということを後に知る。

 

 

…自分が学生たちと関わってきた震災関連系の地域イベントのうち2つは、間接的な人為的大事故の影響でなくなった。

振り返ればそれぞれ事故に繋がる、主催者とか一人のせいでなく、そこに関わる・応援する、その人その人の『油断』『慢心に近い雰囲気』というのがあったなと痛感してきたつもり。

 

そして、STAFFとは言え元気な若者世代をコントロールすることの難しさ、裏方の大変さもそれなりに承知済みのつもり。

 

直接的に関わった訳ではないけど、間接的に縁を感じているし、神戸からの震災・防災メッセージ性の強いイベントだからこそ、直接的な事故を起こして欲しくない。

続けるのなら、問題点をスルーせずちゃんと向き合って、今まで大きな事故が起こらなかったことを奇跡と思うくらいの意識でやっていって欲しい。

不確かでもそれなりに情報は入ってるはずなのに、『無事、大成功で終える事が出来ました!』という恥ずかしい結果報告は辞めて欲しい。

それと、僕が働いてた学校の姉妹校ですけど、現役学生さんたちがSTAFFで関わっているのもあるんで。

 

(個人的には、神戸の街の人たちと一体になって大成功している音楽フェス的イベントは、新開地音楽祭やと思ってます)

昨日からずっと頭から離れないのが…15年ほど前、生前親父が半分震えながら“このまま行くと近いうちに大事故を起こす…”と語った時のこと。

その数年後に“まさしく”と言った大事故が起きた。

親父の現場や社風話を振り返れば、事故につながる予兆やニュースになってない小さな事故はいくつもあった。
民営化後のこともあり、費用を抑えるために、建材を安価なものにしたり工事時期をあえてずらしたりというのもあったと聞いたこともある。
そのようなことから現場からは危険性を何度も訴えたが、聞き入れられなかったと言っていた。
(もちろん今は改善されていると思います)


僕ら家族は親父からその話を聞いてたから、テレビ見ながらとても申し訳ない気持ちになった。
事故直後当時の会見で、上層部は“置き石の形跡があった”と報じた。
“何故こんな時にも他人のせいにするんや!なんやその腐ったプライド…”と、怒り悲しくなった。


そりゃ、社としてちゃんと安全管理もしていただろう。でもそれは当たり前のことで。

なにより、事業拡大・高速化に向けて主らは麻痺してた。
あの事故は、小さな恐怖を感じていたお客さんやそういうことに疑問を感じていた現場の小さな声(指摘)を無視した結果の人災だと今でも思ってます。


イベントの開催を辞めろと言っているのではない。
主催者の頑張りや思い・チャリティー活動をバカにしてる訳でもない。

やるなら安全管理・安全確保をもっと徹底して欲しい。

自分たちの感覚だけでなくもっと外の声を。

 

お金をかけるべきところはしっかりとかけて欲しい。

そのための徴収なら文句もないでしょう。

(どこぞで見た“毎回似たようなことは起こってる”と平然と言ってるコメントにはゾッとしました)


なにより、イベント応援者側が、ネット荒らしと決めつけて、今回の将棋倒しの巻き添え食らったファンの人たち・お客さんをバカにするような発言は最悪です。


事故が起こってからでは、ほんと、遅いんです。

誇りに思ってた親父の会社が、世間から悪者扱いされてた時はほんと辛く悔しかった。

 

(親父はあの時どんな気持ちだったろう…結局聞けてないままです)

事故が起こり、回り回って故郷がそんなイメージに思われて欲しくない。
それと起こってしまったら、それこそ応援しているこれまで頑張ってきた主催者が苦しみ、叩かれかねないんだよ。

『減災・防災・そして震災からひとりでも多くの方に“気付き”の“きっかけ”を作る。』とうたってるのならなおさら。

『ハインリッヒの法則』にはまらないよう願います。

↑↑朝の小高駅描いてみた(も少し手直しします)↑↑

 

 

 

 

みなさんこんばんみ。

静なる鉄男です。旅鉄な人です。

 

明日2016年12月10日(土)は常磐線の北側(小高駅から北側)の営業運転が5年9ケ月ぶりに再開するということで、『鉄路』という視点で考えると僕が今いる南相馬はやっと『陸の孤島』でなくなります。

 

2013年の4月に南相馬に来た当初は、3ケ月くらい震災復旧・復興のお手伝いをしてから神戸に帰って新しい仕事を模索するつもりだったのですが、しばらくして『常磐線が全通するまでは神戸に帰れない…』と思い…かれこれ3年と9ケ月。

 

 

 

 

当時…

 

今となっては、神戸は震災からたった2ケ月半で全通(JR)出来たんだもの。

 

それまで孤独で全国から取り残された感覚だったんだもの。

 

そして全通再開した日、身近な人・全国の人に支えられて全通出来たんだとありがたくって感極まってワンワン泣いたもの。

 

ここの街のことを知ってしまったら帰れる訳がなかろう。

 

当時の感覚知ってるんだから、神戸に戻って普通の生活が出来る訳がなかろう。

 

自分は鉄道員でないけど、命を削ってその鉄路を繋いだ親を持つ子としては、ここの鉄路の再開を見守りつつ、自分の出来ることでお手伝いする!

 

 

…みたいな正義感のような思いが湧いてきたのが残ろうと思ったきっかけだったんですけど…今となっては神戸にいた頃より静かにイキイキテカテカしてるよなんかスミマセンあれれ(笑

 

 

 

 

この3年9ケ月を振り返って思うことは…『いい歳のおっさんなのに想定外に南相馬のみなさんから色々と学び、みなさんに育ててもらった。』ってこと(笑

 

バイト+αで最低限を稼ぎつつ、授業料を払わずに実践でとても意味ある大学生活をさせてもらってた感じです。

 

そう考えると2017年4月が卒業時期になるので、就職活動をして次行くとこが決まってなきゃなんですけど…どっちかって言うと『院生になって学生起業家目指すべく研究します!』ってな感じ(笑

 

そしてなにより、生まれてからずーっと抱えていた闇のような『この先どうやって生きていこう…』という将来への不安を消してもらえたことも大きいです。

 

 

 

 

常磐線が全通するのは2020年度の東京オリンピック開催前を予定してるそうです(神戸の時の感覚を考えると、も少し早くなるような気もするけど…)。

 

そう考えると今はちょうど折り返し。

 

2020年はどこでどんな生き方をしてるのだろう。

ちゃんと稼げているのだろうかw

 

でも『間違いない』と思えることは、『自分にしか出来ないような仕事をしている』ということ。

 

誰かに雇われているというカタチでなく、自分独自の感性とコツコツ磨いた技で仕事している本当の意味での『就職実現』が出来ていると言うか(いい歳のおっさんなのになにいう)。

 

今現在の仕事感覚は『きっと自分にしか出来ない仕事を頂いてる。けれど実の部分はまだまだ荒削り。』って感じ。

 

そう考えれるようになれたのも、この街の風土や考え方と自分の中に昔からあったブレないなにかしらとが、上手〜く馴染み合ったからこそと思います。

 

そして、その荒削りな部分をコツコツ確実なものにしていくのが残り後半戦と思ってます。

 

『たぶん…こういう考えの生き方が自分らしくて、また、自分にとって幸せな生き方なのかもな〜』と最近思います。

 

 

 

 

 

 

そんなわけで明日から、行こうと思えば鉄路だけで故郷の神戸や全国へ行けるようになります。

 

とても嬉しい!

 

…でも明日は再開セレモニーを見に行くでもなく、明日は明日の時間を…上手い具合に仕事が休みになったので、以前からお声がけ頂いてるところで過ごします(落ち着いた頃にチラッと駅を見に行くかなぁ)。

 

なぜなら、ぼくの中での大切な区切りはやはり『鉄路全通再開』なので。

 

そんなわけで、その日が来るのを楽しみに明日からもコツコツ静かに頑張って生きていきたいと思います!(`_´)ゞ

 

南相馬のみなさま!相双地区のみなさま!

しばらくまたよろしくお願いします!(`_´)ゞ