手ぶらで通える書道教室 佐久間しょうげつです
昨日のブログのつづきです・・・。
「私と書道1」はこちら です。
高校1年生のときも、毎週土曜・日曜は書道の日でした。
祖父のもとへ、バスで通いました。
日曜日は、祖父と一緒に住んでいる従妹三姉妹も一緒に書きました。
従妹たちには、
「Aちゃん(私)、いつまで書道続けるの?Aちゃんがやめないから私たちまでやめさせてもらえないんだよ!高校生になったら絶対やめてやる!!」
などといつも言われていました(笑)。
高校では、毎週2回、書道の授業があり、いつも楽しみでした。
書道のK先生とも書道の話をよくするようになり、
2年生の秋頃だったでしょうか、大東文化大学への進学を勧められました。
大東文化大学では、書道界で有名な先生たちの授業を受けることができます。
父の影響で教員になりたいと思っていたので、
教育学部や教員の免許がとれる大学を中心に考えていましたが、
小学校にするか中学にするか高校にするかまでは決めていませんでした。
書道のK先生と話をするうちに、大東文化大学に進学して、
高校の書道の先生になりたいと思うようになりました。
そして、その頃になって初めて、
学校の成績が良いと推薦入試を受けることができるということを知りました。
私は、受験勉強はしていましたが、学校の成績はイマイチだったので、
一般入試をめざすことにしました。
両親は、東京で一人暮らしをすることに反対しましたが、
時間をかけて説得して、合格したら行かせてもらえることになりました。
目標ができたので、それまで以上に勉強をがんばりました。
私、第二次ベビーブームの学年で、とにかく人数が多い学年でしたし、
勉強の要領が悪い・・・、頭も良くない・・・。
普通の人の2倍3倍は当たり前だと思い、
まさにトイレに行く時間も惜しみ、睡眠時間も3時間で、とにかく勉強しました。
学校の授業中も、問題集ばかり解いていました。
(先生ごめんなさい!!)
書道に費やしていた土日の時間も、土曜日の午後のみにしました。
書くことで受験勉強のリフレッシュにもなるし、ここで書道をやめてしまったら本末転倒ですからね。
書くとき以外の食事の時間やお茶の時間も勉強していましたが。
そうして、なんとか大東文化大学に合格することができました。
当時は、倍率30倍~60倍は当たり前でしたから、
合格発表の受験番号も、30人くらいずつとんで番号が書いてありました。
ぎりぎりまで、一人暮らしを反対をしていた母ですが、
合格したときには、一緒に涙を流して喜んでくれました。
そうして、私の東京一人暮らしが決まりました。
・・・と思ったら、1、2年生の校舎は、埼玉の奥地だったんですけどね(笑)
高校の3年間は、書魁社のカリキュラムに従い、
真草千字文、造像記数種、橘逸勢など日本の三筆、楽毅論、
祭姪文稿、禮器碑を半年ずつ学び、
大好きな造像記と呉昌碩は、3年間ずっと書いていました。
日本書作院展への出品も始め、入選、入賞。
書魁社では一般の部で十段になっていました。
ほかの書道会二社への出品も始め、一般の部の師範をいただきました。
高校の書道のK先生が出品してくださった書道コンクールで賞をいただき、大きなトロフィーや盾もいただきました。
高校生になってからやっと、「私の特技は書道です」と言えるようになりました。
大学は、中国文学科もあったのですが、
高校で学んだ古典(中古文学)にも興味があったので、日本文学科を選びました。
実は、「大学=書道」というイメージしかなく、
大学に入ったら書道一色の生活を想像していたのですが、
まったく想像をしていないような大学生活になりました。
「絶対書道部に入りたい!!」とずっと夢を見ていたのですが・・・、
どうしたら書道部に入れるのかがわからない!!
そうしているうちに、入学式直後からテニスサークルに勧誘され、軟禁状態に。
「入る」と言わないと帰れなくなってしまったので、
しぶしぶ入ることにして、書道部とのかけもちを許可してもらいました。
そして、サークルの先輩に書道部の先輩を紹介してもらい、書道部にも入部できました。
入部するまでに時間がかかってしまったので、
友達はどんどんテニスサークル内で広がり、
サークルの方が楽しくなってしまいました(笑)。
書道部には入部しましたが、
先生方と接することがほとんどできなかったので、あまり行かなくなってしまいました。
授業も、中国文学科よりは書道の授業が少なく、
それでもできるだけ書道を履修したかったのですが、
教職をとっている私は授業単位がいっぱいいっぱいで、
思うようには履修できませんでした。
大学に入学してからも、私の書道の中心は、やはり祖父でした。
少なくても月に1~2回は祖父のもとへ、片道約4時間かけて通いました。
土曜日の朝、電車に乗って祖父のもとへ向かいます。
祖父が羽鳥駅まで迎えに来てくれて昼食を食べに行きます。
そして、午後から書道をします。
夕方になると、母が、妹と弟を連れて迎えに来ます。
妹と弟も少しだけ書道をしてから一緒に帰りました。
日曜日の朝は、いつもの7時半のバスに乗り、祖父のもとへ行きます。
一日書いて、夕方駅まで送ってもらいます。
そして、電車で埼玉まで戻りました。
母は、「親に会いに帰ってくるんじゃなくて、書道をしに帰ってきていて、
家には寝に帰ってきているだけだね」と言われ、
従妹たちには、「もう何も言わない」と言われました(笑)
祖父は、毎月1回、競書雑誌と手本、小遣いも送ってくれました。
月に1~2回は、添削でも指導してもらいました。
大学の友人にも、「おじいちゃんとのその固いつながりは何??」と奇妙がられていました。
夏休みも冬休みも春休みもぜーんぶ帰省していましたからね。
私の大学生活は、「書道一色」とまではいかず、書道は週末中心、
大学では、サークル、バイト、友人との遊び中心の生活になり、
想像以上に中古文学や卒業論文に夢中になりました。
ラグビーの応援にもはまりました!
(大学三年生のときには、大学日本一に!!)
書道の勉強は、書魁社のカリキュラムに従って、
蜀素帖、張瑞図、げい元ろを学び、そのほかにも、
木簡、薦季直表、ふ山、鄭板橋、実用書道なども学びました。
書魁社では、師範格になっていました。
大学在学中に、師範試験を3回受けましたが、合格はできませんでした。
日本書作院展への出品も続けていました。
大学四年のときには、教育実習がありました。
私は、高校の書道のほかに、
高校の国語と中学校の国語の免許も取得予定だったのですが、
教育実習はどれか1つで良かったので、書道を選びました。
母校で無事教育実習をすることができ、恩師である書道のK先生にお世話になりました。
そこで、教えることの難しさを学びました。
自分では体の感覚でおぼえているものを、どうやって言葉で表現したら良いのか、
ということが一番の課題でした。
大学時代、書道教室でアルバイトをしていましたから、
一対一で教えることは慣れていても、
一度に40名に伝えるにはどうしたら良いのかも課題でしたね。
そうした経験を積みながら、高校の書道の先生になりたいという思いは強くなっていきました。
一方、書道教室でアルバイトをしながら、
いつか、書道教室を経営したいという思いを持つようにもなりました。
そこで、まずは、高校の先生。
そして、老後は書道教室を開こう!と思うようになりました。
・・・と、またまた長くなってしまったので、続きはのちほどにしたいと思います。
つづきは こちら
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日本書作院同人・書魁社師範 佐久間 しょうげつ
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