グレート・ギャツビー フィッツジェラルド | ScrapBook

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読んだ本についての感想文と日々の雑感、時々音楽のお話を

僕は気が向くと書棚から「グレート・ギャツビイ」をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。(「ノルウェイの森」)

トムはきっとした目でディジーの方を見た。
「この男と五年間ずっと会っていたのか?」
「会ってはいない」とギャツビーは言った。「会うことはできなかった。でも我々二人はそのあいだも変わることもなく愛し合ってきたんだよ、オールド・スポート。私はときどき大笑いしたくなったよ」、しかし彼の目には笑いの影はなかった。「君が何ひとつご存じないんだと思うとね」
「なんだ、それきりのことか」、トムはまるで牧師のように、その太い指をとんとんと打ち合わせ、椅子の中で身をそらせた。
(「グレート・ギャツビー」)

久しぶりに「グレート・ギャツビー」を本棚から取り出し、適当なページを開き、数ページほど読む。台風の風が網戸を通して、部屋の中を流れる。空気の持つ質感は、秋のものである。どこまでも読みたくなる。だが、子細に読むと、その精巧な作りに驚かされるのである。

「ノルウェイの森」を初めて読んだのは、僕が十九歳から二十歳になる間のことだった。一九八七年の九月のことである。読了後、上にある文章に影響されて、大急ぎで「グレート・ギャツビー」を買いに近所の書店に走った。村上春樹が絶賛するほどにすばらしい小説であるのなら、ぜひとも読んでみたいと思ったからだった。野崎孝訳の新潮文庫を購入して、勢い込んで読み出したまではよかったのだが、僕には物語に登場する人物の関係がいまいちつかめない。あくせくしながらどうにかこうにか読み通したが、一体何処がそんなにすばらしい小説であるのか、まったく分からないまま読み終えてしまったのだ。

その後も、荒地出版から刊行されていた「フィッツジェラルド作品集」を三巻揃え、すべて読んでみた。僕の興味を惹く数編ほどの作品に巡り会った。「バビロン再訪」、「崩壊」。どれも彼の作家としての終焉を迎えつつあった頃に創作されたものである。

しばらくすると、フィッツジェラルドはそのまま僕の中で忘れ去られそうになっていた。

数年前から「村上春樹翻訳ライブラリー」と題されたシリーズが刊行され、久しぶりにフィッツジェラルドの作品をまとめて読んだ。「バビロンに帰る」は、やはり名作である。「マイ・ロスト・シティー」もよい。「アルコールの中で」に漂う、著者の救いようのない絶望感といったものに接すると、この作家の天性の才能に感心する一方で、それを蕩尽してしまったことを誠に惜しいと思わざる得ない。

二〇〇六年十一月。僕は当時勤めていた会社を辞めてしまい、ぷらぷらしていたのだった。することもない僕は近所の書店の中をぶらぶら歩いていた。なにげに視線をやったその先にある書籍のタイトルは、「グレート・ギャツビー」であった。装丁は「村上春樹翻訳ライブラリー」のものである。村上春樹が訳した「グレート・ギャツビー」と出会った瞬間である。瞬時も迷うことなくそれをつかむようにして手に取り、レジに向かい、急いで帰宅して、ページを開く。休む間もなく六時間ほどで読了した。初めて本作を読んでから、十八年経つ。あれ以来本作を読んだことはなかったが、村上春樹訳となったことにより、物語の上にかかっていた霧が綺麗さっぱり取り払われた感がある。すばらしい風景が一点の曇りもなく目の前に広がるといえばいいだろうか。物語の筋が明確である。無駄な描写がまったくがない。もちろん物語に添える、サイドストーリーといったものはある。だが、それすら、読み進めていくうちに、色彩が増してくる印象を受けるのである。移り変わる状況の中で、懸命にあえぐギャツビーの姿が印象的である。もっとも彼には人格らしきものはないのだが。

ギャツビーのディジーに対する一途な愛は彼の幻想の上に築かれたものである。一方、トムとディジーとの関係は、エゴイスティックなまでに堅実な生活人のものであり、そこにはひとかけらの幻想や空想さえない。上に引用した短い文章一つとってみても、トムとギャツビーとの性格の違いが明確に描き尽くされている。

「グレート・ギャツビー」のあとがきに村上さんは次のように記している。
「もし『グレート・ギャツビー』という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がするほどである(あるいは何も書いていなかったかもしれない。そのへんは純粋な仮説の領域の話だから、もちろん正確なところはわからないわけだが)。
いずれにせよ僕はそれくらいこの『グレート・ギャツビー』という作品に夢中になってきた。(「翻訳者として、小説家として——訳者あとがき」)」

二八歳のフィッツジェラルドが持てる才能のすべてを出し切って創作した作品がこの「グレート・ギャツビー」だったのである。出鱈目に「グレート・ギャツビー」のページを開き、その部分を読むことのすばらしさを、自分が体験できるようになるまで、僕は二十数年かかった。長かった。けれど、長い時間をかけなければ分からないことだって、あるのだ。