正月早々、もっと笑わせてくれるかと期待していた分、中国には大いに失望した。中国は中学校から高校までの歴史教科書の「抗日戦争」に関する記述について、従来の1937~45年までの8年間を、31~45年へと全面修正を決定したが、たった6年間の延長とはいかにもスケールが小さく、「中国らしさ」を欠いている。

 いっそ、日本人も加わり中国大陸の沿岸部などで海賊行為や密貿易を行った「倭寇と戦った」と定義すれば、「抗日戦争」はウン百年もさかのぼれる。明軍と戈を交えた《文禄・慶長の役》だとすれば、400年以上も日本と戦い続けたことになるのに。

 もっとも、《日清戦争》を起点に「抗日戦争50年」を目指す動きもあるようで、異民族の王朝まで引っ張り出し、歴史の粉飾・ねつ造にふける“歴史観”は伸縮自在の、まるで「日本製パンツのゴム」のよう。イヤ、違う。伸びっぱなしで、縮むことはない、粗悪な「中国製パンツのゴム」そのものだ。ただ、中国人にとって粗悪か否かは意味がない。粗悪なら、他人の下着を盗めばいい。

 「他人のフンドシで相撲を取る」

 抗日戦争の「8年説」は《盧溝橋事件》の1937年を、「14年説」は《柳条湖事件》の1931年を始まりにする。しかし、満州事変(1931年)以降、支那事変(1937年)が大東亜戦争に拡大する中、精強な大日本帝國陸海軍と戦ったのは専ら国民党軍だった。

 共産党軍の役どころは、国民党軍の矛先を帝國陸海軍に向けること。この陰謀の悪臭がプンプンする「汚れたフンドシ戦略」を練ったのは、初代国家主席・毛沢東(1893~1976年)だった。毛沢東の発言録や戦略論は既に世界中に出回っており、中国共産党お得意の粉飾・ねつ造は本来なら不可能。現代の中国共産党が「抗日戦勝利」を主張する度に、毛があの世よりさまよい出て、真実を公表してしまう。

 ロクに戦っていないのに「日本に勝った」と、国内外に言いふらしてもいるが、まさか「相撲」なので「不戦勝がある」などと開き直りもできまい。歴史を「洗浄」しても、歴史にこびりついた臭いは消えないのだ。それにしても、「戦勝国」が自国に有利な歴史を創った先例はままあるが、「傍観国」のケースは寡聞にして知らない。

 

 1万2500キロを逃げまくった共産党軍の健脚

 柳条湖事件が満州事変へとつながると、国民党軍総司令官・蒋介石(1887~1975年)は共産党を「内憂」、帝國陸海軍を「外患」とみなし、共産党を排除した後、帝國陸海軍に対処する《安内攘外》戦略を樹立。国民党軍は共産党軍を潰走させた。共産党軍は《長征》と呼ぶが、中国大陸を西へ北へとグルグルグルグル、2年もの間、1万2500キロを逃げまくった健脚には驚嘆する。

 その後も、国民党軍が共産党軍に軍事的勝利を収め続けたが、帝國陸海軍との戦闘が本格化(=支那事変)すると、国民党軍は深刻な損害を被った。

 国民党軍はたまらず、帝國陸海軍に対抗すべく《第二次国共合作/1937年》を成立させる、過ちを犯した。帝國陸海軍が与えた国民党軍の損害以上に、国民党軍が与えた共産党軍への損害は存亡を左右するほど壊滅的だったからだ。「共産党の謀略」に乗せられ、蒋介石は拉致され、まんまと国共合作を呑まされた。

 国民党の軍費・弾薬援助も手伝い、共産党軍は蘇生。逆に国民(党)政府は合作後も、主要都市を次々に帝國陸軍に占領されていく。毛沢東は帝國陸軍が国民政府の首都・南京を陥落させると祝杯の大酒をあおり、大はしゃぎしている。

 「共産党の謀略」は、国民政府支配下の主要都市が陥落を重ねる中、毛沢東が1938年に主張した《持久戦論》に色濃くにじむ。しかも、共産党系軍が最後まで日本に勝てなかった動かぬ証拠まで歴史に刻んだ。持久戦論は以下の前提に立つ。

 《日本は軍事・経済力ともに東洋一で、中国は速戦速勝できない。だが、日本は国土が小さく、人口も少なく、資源も乏しい。寡兵をもって、広大な中国で大兵力に挑んでいる。一部の大都市/幹線道路を占領しうるに過ぎず、長期戦には耐えられぬ。敵後方で遊撃戦を展開し、内部崩壊を促せば、最後に勝利する》

 持久戦論によると、戦争は3つの段階を踏む。

 (1)敵の戦略的進攻⇔自軍の戦略的防御(1937~38年)

 (2)彼我の戦略的対峙 敵の守勢⇔自軍の反攻準備期間(1938~43年)

 (3)自軍の戦略的反攻⇒敵の戦略的退却⇒殲滅(1943~45年)

 ところが、(3)段階に当たる1944~45年にかけ、帝國陸軍は50万の兵力で対中戦争最大の作戦《大陸打通作戦》を実行し、戦略目的達成はともかく、作戦通りの地域を占領した。結局、支那派遣軍は1945年の終戦時点でも100万以上の兵力を有し、極めて優勢だった。第二次世界大戦(1939~45年)における帝國陸海軍の戦死者240万人の内、中国戦線での戦死は46万人。(3)で言うところの「反攻」「殲滅」などは夢物語だった。

 数字や持久戦論が何を示唆するかは歴然としている。

 1937年に勃発した支那事変が大東亜戦争へと拡大する中、精強な帝國陸海軍と戦ったのは国民党軍で、共産党系軍は一部が散発的遊撃(ゲリラ)戦に臨んだが、主要戦闘は回避に回避を重ねた。持久戦論で「防御」「対峙」「反攻準備期間」などと繕ってはいるが、何のことはない「非戦」ならぬ「避戦」に徹していたのである。

 共産党軍は帝國陸海軍と国民党軍の戦闘を可能な限り傍観し、戦力温存に専心。同じく帝國陸海軍から逃げ回った国民党軍の《退嬰的戦法》をはるかに凌駕した。わが国の敗北は、米軍の原爆を含む圧倒的軍事力がもたらしたのだった。

 習近平・国家主席は盧溝橋事件77周年の式典で言い放った。

 「歴史の否定や歪曲、美化を決して許さない」

 「『確固たる史実』を無視している」 

 自己批判だと思ったらさにあらず。いつもながらの日本批判であった。けれども、有り難いことに、『確固たる史実』を、毛沢東は持久戦論以外にも残してくれた。

 

 日本に感謝?した毛沢東

 持久戦論のごとき気取った表現でなくとも、支那事変勃発1カ月半後、毛沢東が中国共産党中央が開催した政治局拡大会議でズバリ本音を公言している。国民党と日本人の殺し合いという共産党の発展にとり絶好機に乗じよ…といった趣旨の檄を飛ばした上で、こう命じた。

 「力の七割はわが党の発展のために使い、二割は(国民党との)妥協のために使う。残りの一割だけを抗日戦争のために使う」 

 ゾッとするのは、以上の毛沢東の命令発出と同じ日、国共合作方針に基づき、国民党軍に共産党軍を編入させている。

 かくして、国民党は大東亜戦争後の国共内戦時、戦力を温存した共産党軍に敗北を喫し、台湾へと追われた。共産党の陰謀に踊らされたのみならず、腐敗した国民党は人民の支持を喪失していた。

 共産党系軍も地主はもちろん、ささやかな自作農の金品も強奪、最後は残酷なやり方で処刑し、支配者が誰かを示す《一村一殺》を行い、天文学的数字の犠牲者を積み上げた。

 が、共産党系軍の方がまだしも、既存の支配者=国民党の圧政に苦しみ、希望にすがる貧者の支持を得たらしい。いずれにせよ、腐敗と残忍性は、時代やイデオロギーに関係なく「中華文明」の一大特性ということだ。

 毛沢東は戦後も、史実を証言した。社会党の国会議員や帝國陸軍の元将軍ら数人との幾つかの会談で、日本と国民党が戦った結果、共産党が勝利した史実に繰り返し「謝意」を示したのだ。中国外務省・中共中央文献研究室などが編纂した、複数の資料が毛発言を拡散している。

 だのに、習氏は《抗日戦争勝利記念日》などで、「偉大な勝利は永遠に中華民族史と人類の平和史に刻まれる」などとブチ上げる。「毛の陰湿な独裁手法」を学ぶ半面、「抗日戦勝利」を看板にする習近平指導部にとって、毛沢東は不都合な存在に違いない。

 中国共産党は今後も「抗日神話」の続編→続々編を創作。回を重ねる毎に奇想天外な展開を繰り広げ、整合性が取れなくなっていく。「もっともらしいウソ」ではなく「ウソとわかるウソ」をつき通せるエネルギー源の一つは、「避戦」という屈辱に向き合えぬ対日コンプレクス。その点、毛は「避戦」をしてやったりと、堂々と語った。習氏は「毛の陰湿な独裁手法」に関する学習が足りないのではないか…

 

引用元:http://www.sankei.com/premium/news/170123/prm1701230009-n1.html