完全受け売り演技論シリーズ♯完結編


最後のテーマは
-特別を目指せ-


最終回に相応しいと思われる内容のものを選んでみました(^^)
これで上手くまとまってくれたなら幸いです♪


俳優沙人(しゃと)の日記


個人的な願いですが、このシリーズが「ワークショップ」の様な感じで受け止めて貰えるといいな~と思います。
業界では様々な講師、形式、内容のWSが数多く開催されていますので、その中のひとつ・・みたいな感じで。
ですので、ここに書かれている事が「すべて正しい!」とか、「これが本当の○○です!」みたいな気持ちは持っていません。「ある演出家のこう言う考え方を見付けました。参考にしてみて下さい」と言うスタンスです♪


さて今回は「あとがき」を先に持ってきます。
ただでさえ長い本文の後に、更にクドクドと持論語ってるんじゃ、いい加減うんざりでしょうから(笑)


~あとがきに変えて~

僕自身、俳優を本格的に志してから、いろんなWSや授業、講義を受けて来ました。
実際の撮影現場での直接指導等を含めれば、結構な場数は踏んでると思います(芸歴だけ見れば20年超なので数だけは・・w)。
その経験から思ったのが、演技というものに「定形」、或いは「絶対」って無いんだな~と言うことでした。
同じ事(感情や思い、状況等)を表現するのに、現場(監督/演出)ごとに違う事が多かったからです。


それを敢えて極論するなら、ひとつの作品に於ける感情表現の演出意図や方法、技術は、あくまでその現場(監督、演出家)のものであって、現場が変われば意図や方法、求められる技術だって変わるのだから、「ひとつの型(演技論、演技術、演出法)に嵌るのは良くないのかも?」と、未だ大した実力や実績は持ち得ないながらも、そんな偉そうな考えだけは漠然とですがあったりします(*^^*ゞ


ただそんな中で「共通している部分」がある事にも気付きました。
それは基礎であり基本であり、或る意味「奥義」とも言えるんじゃないかと。
言葉は人ごとに微妙に違ったりしますが、言わんとしている事は同じなのです。


先日参加したWS講師の明石プロデューサーの言葉を借りるなら
「究極の演技とは、それが演技とは思えない演技」
ついつい忘れがちな事ですが、目指すべきはまさにこれですね(^^)


ついでにこのシリーズの演出家の言葉を借りるなら
「俳優とは自分にこの先起きること(運命)を知らない人物を演じるのが仕事」
これってそっくりそのまま「日常」にも当てはまると思いません?
何が起きるかわからない、起きることを知らない、予測出来ないし、予測通りにいかないのが「日常」
そんな日常を演じるのが俳優ですが、俳優はもう既に先のことを知っちゃっているから、そこが「演技」と言うものをより一層難しく、そして奥深いものにしているんだと思います。



その領域(究極)に少しでも近づきたくて、皆が日々努力を重ねています。

たったひとつでもひと言でもいい、その手助けとなるヒントになってくれたのなら本望です♪


と、あーだこーだ語ってる暇があるなら、台詞のひとつでも覚えろ!話はそれからだ!!(--#)・・と言う声がそろそろ聞こえてきそうなのでこの辺で(笑)


では完結編です。


※本文中に年齢の記述がありますが、このシリーズの原文が書かれたのが2006年ですので、その差分を考慮してお読み下さい。
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「出来る限り本物を見なさい。本物を沢山見ないと、本物と偽物の見分けはつかない」山本嘉次郎


 現在、日本は史上空前といっても良い偽物の時代を迎えている。映画、演劇といった芸術・娯楽ジャンルにおいても、当然のように社会に蔓延する偽物汚染の悪害の強烈な影響を受けている。


 その代表的な物の一つは「嘘だらけの感情表現」だろう。この嘘芝居の具体的な原因は、現在の46歳以下、特に35歳以下の俳優(これから俳優を目指す未経験者含む)の多くに見られる「人間心理」に対する好奇心の低さである。これは「人間心理軽視症候群」とでも呼んでも良いほど深刻なものだ。


 ここまで読んで勘の良い方は気づいたと思うが46歳以下36歳未満というのは新人類世代であり、デスコミュニケーション世代でもある。また、35歳以下はシュミレーション世代、加えて30歳以下はロールプレイング世代だ。更に面白いことを付け加えると、今年でシラケ世代が50代半ばに達しようとしている。
 つまり、若年から壮年に至るまで日本人は感性鈍化世代によってほぼ覆われてしまったという事だ。


 「人間心理」、即ち「人間の心の動き」というものに対する関心・感性が低くなるという事は、「人間心理」に対する無知を当然のように招く結果となる。
 これを俳優に当てはめた場合、演技以前の問題で役の心理について感覚的に理解することが極めて難しくなってしまうという事になる。こうなると、演技というものが実際の人間心理を完全に無視して行うものでは無いという事すら分からなくなる。


 この非常に根本的な事を無視したままで、演技法だ、発声だ、とどれだけ努力しようが全くの無駄だ。努力すればする程、うっとうしいだけの力んだ臭い芝居が出来上がるだけである。


 俳優というのは演じることによって人間心理を表現していくのが仕だ。その俳優が人間心理に対して無知だというのは、素手で剣道をやるという事と同じくらい無茶苦茶なことだ。


 人間心理についての造詣を深めていく最初のポイントは日常にある。やたらと心理学の書籍を読み漁って表層の知識を詰込むことでは無い。


 上記の山本嘉次郎の言葉は、黒澤明が助監督時代に聞いたものだ。つまり、今から70年以上前の話だ。その時代に比べると現代は余りにも偽物が蔓延している。つまり、当時より本物を知る為には大きな労力が必要だということである。


 偽物が蔓延している時代なら、偽物だって良いじゃないか、と軽薄に考える馬鹿もいる。断言しておくが偽物は必ず破綻する。社会のあるゆるジャンルで今起きている破綻ラッシュを見れば明白であろう。


 よく考えてみることだ。社会にどれだけ偽物が氾濫しようが、それを100%世の中が甘受することは有り得ない。何故なら本物と偽物の違いはそこに真実か嘘かがあるという事であり、真実を完全否定出来るのであれば全ての自然の摂理も否定出来るということになる。勿論、そんなことは不可能だ。真実を否定出来ないということは嘘に破綻が起きるという事だ。
 つまり、余りに嘘芝居が蔓延すれば映画・演劇というジャンルの需要というのが低くなるという事だ。これは突飛な意見でもなんでもない。現実にテレビドラマ離れは進んでいる。また、邦画はファッションに組み込まれたその場限りの消耗品としての様相をどんどん強めている。飽きが始まるのも時間の問題だ。


 最後にもう一度書く。
 演技とは心理描写である。心理に疎い者は偽物の表情・台詞・動きに終始するだけで終わる事になる。つまり俳優業として破綻するということだ。


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「イングリット、たかが映画じゃないか」 【アルフレッド・ヒッチコック】


 ある映画祭のパーティに出席したイングリット・バーグマンは他の客と談笑していた。アルコールのせいもあり談笑はやがて議論へと変わる。議論は熱を帯び、やがてイングリットの独演会となった。彼女は映画論・演技論について自他共に認める論客たったのだ。止まらない彼女の熱弁に皆がうんざりしてきた瞬間だった。彼女に歩み寄ったアルフレッド・ヒッチコックがそっと囁いた。


 「イングリット、たかが映画じゃないか」
 絶妙なタイミングで俳優の過ぎた熱を上手に抜く。それも、さりげなく。俳優演出術を心得た巨匠ならではの手並みだ。一流の演出家とは一流のジョッキーに例える事が出来る。一流ジョッキーは馬の心理を計り、馬を興奮させず、怖がらせず、落ち着かせて走らせるものだ。多感で気難しく、利発で気性が激しい競争用サラブレットは俳優と共通する物が多い。そして、名馬とは乗り手を選ぶ強い自我を持っているものである。


 さて、少し話がずれたが、ヒッチコックの言葉には非常に興味深い教訓が含まれている。
 その教訓とは、人は考える事に熱中し過ぎると「無理に答えを出したり」「考える行為を持続する為に考えるようになる」という事だ。こうなった時、理論は不毛に発展し続けるだけである。そして、これは俳優が陥り易い落し穴でもある。


 余程いい加減な者で無い限り、俳優は当然のように役作りに励む。そして、多くの者は役作りを行わずにステージやカメラの前に立った場合、観客は自分のことを役の人物とは見てくれないと思い込んでいる。そして、これは俳優の単なる思い込みである。
 余程難解な内容で無い限り、観客は劇中登場した人物のことを役柄通りに受け取ってくれるものである役柄を観客に伝えたいだけなら、ある程度の出来の脚本を演じさえすれば役作りなど全く必要無いと言っても過言では無い。


 アル・パチーノがマイケル・コルレオーネという役を演じた時、劇中の誰かが「アル・パチーノ」と、彼のことを呼ばない限りは演技の出来不出来に全く関わらずパチーノはコルレオーネなのだ。但し、役作りを全くしていないパチーノに観客が感情移入するかどうかは全くの別問題だが・・。


 この事は俳優にとって意外な盲点になり易い。
 役作りはとても大事な事だが、演技論や役作りに考え込みすぎると、「全てを一からやらなければならない」という強迫観念を生み出す。
 それは「何かしなければ役に見えない」という妄想を生み出し、俳優の仕事の量を無限に膨らませていく。膨らんでいくのは無駄な仕事ばかりである。


 俳優は物語(内容が持つ意味も含め)を余す事無く観客に伝える為に役作りに励み、演じる事にベストを尽くさなければならない。この際のベストとは「出来る限り無駄無く効率的に」という意味も含まれるのである。「出来る限り無駄無く効率的に」は心の余裕と遊び心を生み出し、演じる面白さ、楽しさを無限に膨らませていってくれる。


 「たかが映画(演技にも置き換えられる)」という言葉は、映画・舞台製作・演技といったものが、「仕事」と「遊び」が常に同居していることを表した言葉だ。


 芸術・娯楽を創るという事は「戦闘行為と同等の真剣さを持った楽しい遊び」をやるという事だ。演技論は必要ではあるが、あくまで遊びの道具にしか過ぎない。道具によって縛られた時、楽しい遊びは苦役へと変わり、つまらない仕事へと堕していく。その瞬間、演技と作品もつまらない物へと堕ちていくことになる。
 そして、人間が本能(食う、寝る、排泄、繁殖)以外で最も真剣になれる行為とは「遊び」なのである。
 
 名優とは演じる面白さ、遊び心を良く知った者のことだ。
 真面目にやっても演技が向上しない理由の一つは面白さ、遊び心が無いからだ。あったとしても真剣には遊べていないという事だ。だから、本番(稽古含む)やレッスンというものは元来、面白いものでなければならない。面白く無ければ良いキャリアも向上もあり得ない。


 作品創り、演技とは元来甘美なものである。
 俳優は以下の言葉を忘れて、物事を考えては絶対にならない。


 ショウほど素敵な商売はない。


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 「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる」 【司馬遼太郎】


 名演を重ね、名優になりたいと思うなら、アナタは特別になる必要がある。

 演劇(演技)とは誰にでも出来る表現である。演劇に限らず芸術表現とは本人が望むなら誰にでも出来るものだ。だが、「演技を極めていく」「100万の観客を打ち震わせる」ということは誰にでも出来ることでは無い。それを望む俳優は好む好まざるに関わらず「特別な存在」になる必要がある。

 ここで言う特別に「才能」は含まれない。何故なら「才能」とは道具に過ぎず、道具を使う意志を発揮するのはそれを持つ人物であるからだ。勿論、これは才能は関係ないという意味では無い。


 俳優とはスポーツ選手と同じく「実力の世界」の住人である。
 実力の世界で問われることは「特別なこと」、つまり「非普通」「誰にでも出来ない」ことを要求されるということだ。 ところが奇妙なことに日本の俳優の中ではこうした意識は一般的とは言えない。他の芸術・芸能ジャンルの中でも特にこの意識が薄いのではないかと思う。むしろ、俳優とは全く無関係の世間一般の方がこうした意識を持っている程だ。


 「誰だって」「普通は」というこの二つの言葉を演技・俳優に関する事柄で繁盛に使う俳優がいる。こうした俳優は「非普通」の世界での可能性を自らせっせっと閉じているようなものだ。
 また、「プロ意識」「プロとして」という言葉を繁盛に使う俳優もいる。あらゆるジャンルの業界の中で「プロプロ」とことさらのように言い立てる者が多いというのは日本の俳優独特の現象だといってよい。プロなど掃いて捨てるほどいる。また、その中には天と地ほどの実力差も存在する。それにも関わらず「プロ」という言葉にアイデンティティーを求める者が多いというのは奇妙としかいいようが無い。


 余談だが「プロ」イコール「特別に優れている」という事であるなら「不味い料理屋」など存在しないことになる。料理屋の料理人は全てプロの調理士なのだ。また、15年前に知恵無き商売によってバブルを作り、バブルを崩壊させた金融・証券マンたちは全てプロである。


 「普通は」「誰だって」「プロ意識」この三つの言葉に共通するのは、自分(俳優)という存在を確立することへの漠然とした諦めのように思える。作品毎に違う役柄を演じる俳優に「普通は」「誰だって」は無く、俳優としての自意識が強ければ「プロ意識」などという安易な言葉には頼るまい。


 一流と呼ばれるアーティストは「プロとして」などという漠然とした価値観では無く、「アーティストとして」ということを自ら問い続けるものだ。これはスポーツ選手や様々な業種の名匠と呼ばれる職人たちも同じだ。
 
 「特別な存在」になりたいと思う俳優は、自らが納得出来る演技的価値観を持ち、そこから生まれる演技的理想像を掲げ、それを実現する為に何をすれば良いのかを考え、自分を磨くことから全てが始まる。これを続けていけば自分に対する答えは明らかになるだろう。


 自ら納得出来る演技的価値観が間違っていたら、と考える者もいるだろうが、価値観に間違いなどという物は無い。自らが納得出来る価値観が世間と違うなら、違ったというだけの話だ。それはそれで一つの答えであろう。価値観を捨てるという事は自分で判断出来なくなるという事だ。そんな事をしてしまった時点で名演はあり得なくなるばかりか、答えの出ないままに生涯を終える事になるだろう。


 名演を志す俳優よ、特別を目指せ
 これは名作を生み出したいと思う多くの演出家にとって共通の願いであろう。


【沙人追記】
「人は生まれによってバラモン(邪教)ではない。行いによってバラモンなのだ」と言うお釈迦様の言葉が浮かびました。


-以上-



お付き合い頂き誠にありがとうございました!

心より感謝致します<(_ _)>


今後は密かにこっそり地味~に地道に努力精進していきます(笑)



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by:しゃと俳優沙人(しゃと)の日記

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