【好評御礼!】完全受け売り演技論シリーズ第13弾


今回のテーマは

-役作りと反応-


演技を学ぶ場、或いは現場でもしょっちゅう耳にする言葉です。

演技をする上でこのふたつは「両翼」「両輪」の如く連動し直結していなければ・・と言うお話しです。


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「メイキャップをし、コスチュームを身に付け、ティシュペーパーを口に詰めれば一つの役が出来るものではない」 【マーロン・ブランド】


 1980年、映画「レイジング・ブル」に主演したロバート・デ・ニーロは元ボクシング世界ミドル級チャンピオンのジェイク・ラ・モッタを演じてオスカーに輝いた。デ・ニーロは現役時代と引退後のラ・モッタを演じる為に8kgの減量と25kgの増量という狂気じみた体重コントロールに成功。その凄絶な役作りは世界の俳優たちにとって伝説的エピソードの一つとなった。
 「レイジング・ブル」でデ・ニーロが行った役作りは素晴らしい演技を生み出す元となるが、同時に役作りという物に対する誤解を生み出す一つのきっかけとなる。その誤解とは「表層(肉体、仕草、衣装、喋り方)を凝る事がリアルな名演に繋がる」という幻想である。勿論、これはデ・ニーロの責任では無い。彼が行った役作りの中から「体重コントロール」という派手に見える部分のみをクローズアップして騒ぎ立てた一部評論家やマスコミが悪いのである。 以後「レイジング・ブル」のように肉体を変化させる事を役作りの醍醐味だと勘違いした俳優が増えていく。それは「役作り」イコール「表層の操作」という傾向に拍車を駆けていく事になる。この傾向は、やがて役作りの簡略化へと繋がっていく。これは、悪役を演じる場合には「人相を悪くすれば良い」といった子供騙しの発想が増加したという意味である。


 役作りとは何であろうか?
  一言で言えば、役柄の人物に見えるように素の自分を変えるという事である。
 更に分かり易く言えば、演技をスタートさせる前段階に行う役になる為の準備のことだ。但し、演じる事によって役への理解が深まり、役が出来上がっていくこともままあるので「役作りは演技前に終了するモノ」と限定してはならない。製作期間の短い作品にばかり出ている俳優はこのことを誤解しがちになるので気をつける必要があるだろう。


 さて、とても簡単な問いを立ててみよう。
 「役」とは何だろうか?
 答えは簡単。
 作品中に上に表れる「人物」のことである。
 「人物」とは「人格」のことである。


 「役」とは作品中に表れる一つの「人格」の事だ。
 「悪人」「善人」「ボクサー」「医師」「スチュアーデス」等々、こういったものは道徳的カテゴリーや、職業であるに過ぎない。Aという人格が「悪人」に属する。「B」という人格が医師をやっている、というのが正しい。
 表層の役作りという物がいかに愚かであるかが明白だと思う。


 役作りの第一歩とは「役の人格」を掴むという事から始まるのである。そして、役にリアリティを加える為に職業的な物、肉体、仕草といった物が加わっていくことになる。

 これを間違えている俳優は役が警官だった場合は「どうやれば警官に見えるか」という事以外考えなくなる。その結果は「警官の職業的特徴」を掴んだとしても、その俳優自身が警官をやっているというだけになってしまう


「レイジング・ブル」でデ・ニーロが表層的な役作りを行っていたとすれば、ボクサーのラ・モッタでは無く、ボクサーのデ・ニーロになるというわけだ。こうなってしまうと、何を演じても同じな大根役者ということになる。
 また、表層の役作りに走れば表層を強調しようとした演技をするもので、これが過剰演技(クサイ芝居)を生み出す大きな原因の一つになってしまう。
 これは、当たり前のような事に思えて相当に置き去りにされてしまっている事である。この勘違いによってヘタだと評価されたり、自ら役柄の幅を極端に狭めてしまっている俳優というのは無数にいる。


  役作りは演技をする上で欠くことの出来ない作業だが、その意味を間違えると全ての努力は皆無に帰すことになる。


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「俳優になっていなかったら、私は詐欺師になっていたと思う」 【マーロン・ブランド】

 俳優にならなかったブランドが実際に詐欺師になったかどうかは別にして、この言葉は「演技」というもの語る上で実に多くのものを示唆している。


 「役作り」という言葉が在る。
  一言で言えば、役柄の人物に見えるように素の自分を変えるという事である。

 「役作り」を成功させる上で最も重要な事を書く。
 それは「役作り」とは「役の人物に自然(リアル)に見えれば良い」という事だ。


 賢明なる俳優であるならばテキストを読んだ時に、観客としてテキスト上の人物を明確にイメージすることが出来る筈だ。ところが、明確にイメージ出来るその人物を実際に演じてみると、役の感情通りに自分をコントロールする事がなかなか出来ないという経験がある者は多いと思う。物語も役も理解出来るのに演技が上手く行かない。「分かっているのに出来ない」というヤツだ。


 自然体で演じようとする俳優たちは特にこの経験を持った者が多い筈だ。

 この「分かっているのに出来ない」という状態の原因は、役に対して観客として理解する事と、俳優として理解する事の違いがまず上げられる。衝動と反応によって自然に演じようとすれば「役の心理」を「自分の心理」とする必要がある。これが俳優としての理解である。当然だが、観客にはこの作業は必要は無い。観客は演じる必要がないので、役の心理を一つの事象として外側から見て理解するだけで良い。これが、観客としての理解である。


 ここで問題なのは役について「俳優としての理解」をやろうとしても、役の内面と俳優個人の内面に共通点が無さ過ぎると、衝動と反応が自然に起きにくくなってしまう。だからといって、型芝居、作り芝居はしたくない。ここで、俳優の葛藤が始まる事になる。


 さて、こうしたケースに対処し、役の心理と自分の心理を同化させようとした時に大事な事は「無理に役の心理を解き明かすことをしない」という事だ。自分の内面と役の内面はこの時点で明確に違うことが分かっている筈なので、それ以上やると不毛の心理分析ゲームが続くだけだからである。


 ではどうすれば良いのか?
 ここからは、技術論というより、俳優としての資質に大きく関わらざる得ない。まず、役に対して観客的理解が出来るという事が前提になる。つまりイメージはしっかり出来るという事だ。
 次にイメージ上の役を自分に対して暗示をかけてしまう。
 この暗示をどの程度出来るか、という事がリアルに演じられる役の幅を決めるといって良い。この作業は俳優としての資質に大きく左右される部分になる。逆に言えば、理論立てた演技法だけに頼って作れる役の幅というのは限界があるという事だ。


 リアルな自然な演技を追求していけば必ずここに突き当たる。
 勿論、暗示さえ上手くいけば役作りは上手くいくのか、というと、そうでは無い。だが、重要な要素である事は間違いない。


 役作りと暗示の関係は多くの名優が口にし、また、現場で多くの演出家が目撃しているにも関わらず、何故か「演技法」という分野で語られることが無いに等しい。一つには「暗示」という言葉に対する嫌悪感が大きいのではないか、と思う。


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 「オーディションをすると、アマチュアであってもその人物が天性のアクターかどうか分かるものだ」 【フランシス・F・コッポラ】


 俳優にとって必要な資質というのは幾つもあり、一つ持っていれば後は何とかなるものではない。
 しかし、数ある資質の中から俳優特有(他のジャンルの人間では持ち得ぬ)のモノをあえて選ぶとすれば「反応」になるだろう。俳優の「反応能力」こそは天性の資質に属するものと言って良い。つまり、これをある程度延ばすことは出来ても、これが全く分からない人間には決して教えることが出来ない物だということだ。


 さて、俳優にとっての「反応」とはどういうものだろうか?
 難易度によって分かり易く分けて説明していくと次のようになる。

【1】台詞に対する反応
 相手の台詞を聞いて、こちらの台詞を返すという事である。
 この際、注意しなければならないのは「相手の台詞終わりをキッカケ」と考えて喋ってはならないという事。あくまで「相手の言葉を理解」して、それに反応して喋らなければ「段取り芝居」となって台詞は死ぬ。この際、自分の意識が台詞を言うべき方向に自然と向いていなければならない。これが出来ていないと誰に喋っているのか分からなくなる。 これは極めて基本的なことなのだが意外に分かっていない者が多い。アイドルが演技をやった場合や、新人の声優にはこの事に対する理解不足が良く見受けられる。

【2】相手の感情に対する反応
 演技の最中に微妙に変化していく相手の感情に対して、反応して動き喋ることである。
 これは【1】以上に難しい。相手の気配、空気を感じてそれに反応していかなければならない。人間同士が絡んで微妙な心理描写を表現する時、これは絶対に欠かせない。 断言しておくが、そうしたシーンではいかに役作りが上手くいっても、相手役のこの反応が駄目なら名演には決してなら無い。勿論、自分も相手役に反応出来なければならない。

【3】内面に対する反応
 自分の感情に反応してそれを表現する事。心の瞬発力といっても良い。
 本物の名優はこの瞬発力が抜群に素晴らしい。内なる感情を表すのが演技の初歩だというのは半分当たりで半分間違いだ。内面に対する瞬発的反応は高度な演技に属する。マーロン・プランド、三船敏郎、若い頃のアラン・ドロンがズバ抜けて優れていたのはこの部分だ。現在では山崎努、三國連太郎、ダニエル・オブラフスキー、ジョン・マルコビッチ、レナ・オリンの瞬発的反応は芸術品といってよい程素晴らしい。

【4】状況に対する反応
 演じるシーン全体の状況に反応して、自分の感情が変化すること。
 これは反応対象が絡む俳優に限定されない。自分が演じるシーンにある物、出来事の全てに反応する。シーンの匂い、空気の変化に反応するといった方が分かり易いかもしれない。


 分かり易く分けると「反応」は以上の四つに分類される。当然だがこの四つは繋がり連動している。この「反応」は必ずしも運動神経、反射神経の良さとは連動しない。それらとは別物と考えても良い。


「役作り」とはあくまで演じる上での準備に過ぎず、「反応」について感覚的に理解出来ていなければ「空回りの力み芝居」が生まれるだけである。
 それにも関わらず「反応」について多分に軽視されている傾向があるのは嘆かわしい限りだ。「反応」への感覚的理解が浅い俳優は断じて上手くなることは無い。また、演出家にとっても俳優の「反応」の見極めが出来なければ、まともな演技指導は絶対に出来ない。名演に導くなど論外だ。
 「反応」への理解の浅さ、演技への即物的な理解が「大根役者の大量生産」の大要因の一つになっているのは間違いないだろう。


 演技とはどのように準備したところで、一人で行う物では無い。特に相手と絡んだ場合には互いの反応による相乗効果が出なければ名演になりようがない。どんな小さな役であっても、これが分からない俳優をキャスティングすると作品は駄目になる。


 俳優にとって天性の資質、そして、俳優特有の資質とは「反応」といって良いだろう。


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私は相手の台詞を聞き流すことと、注意深く聞くことの違いに気がついた。注意深く聞いていると、手や足の動きを考える必要は無かった。相手の台詞に自然に反応するので、手と足は勝手に動いてくれた」 【ローレン・バコール】

 バコールの言う「注意深く聞く」というのは「感じる」ということだ。
 演技というモノの構造を大きく二つに分けるとすれば「役作り」と「反応」になる。


 さて、演劇的反応(演技に於ける反応)とは何だろうか?
 簡単に言えば、相手・状況・内面の変化等に対して自らが起こす行動(台詞・動き含む)ということになる。

 相手に対する反応の最も基本的なモノは台詞を聞いてそれに答えるというものだ。

 A「Bさん」
 B「なんだ」
 上記の台詞ではBはAに自分の名前を呼ばれて「なんだ」と答える。これが基本的な台詞への反応だ。


 次に状況に対する反応である。
 Aという人物(役)が部屋の中に人が居ると思ってドアを開ける。中には誰も居ない。居ると思っていた人が居ない状況にAは戸惑う。この戸惑いが反応だ。


 演技というモノは反応に始まり、反応に終わるといって良い。演じるとは反応し続けるという事である。

 「反応」というモノの難しさは「相手・状況」に対して自分が感じてからアクションを起こさなければならないところにある。あくまでも感じてからである。感じてから「感じたこと」を反応として出すのだ。これが「感じたこと」では無く、用意されたアクション(動き・言葉・表情)を出してしまうとクサイ段取り芝居になってしまう。俳優に徹底して感じる力が求められる理由がここにある。


 この演劇的反応を最も上手くやれる秘訣は「空気」を感じれるかどうかにかかってくる。「空気」というのは相手の気配、状況が醸し出す雰囲気と考えれば分かり易いのではないかと思う。


この「相手の気配を感じる」という行為は武道の上位者の専売特許というわけではない。人間は誰しも多かれ少なかれ、気配、空気というものを感じながら生活している。


 例えば、子供の頃にこういう経験をした人は多いはずだ。
 自分の部屋で机に向かっている。そこに親が勉強しているかどうかを確かめる為にそっと入ってくる。音が全くしなくても親が入って来たことに気づく。 何故親が部屋に入って来たことが分かったかというのはその気配を感じたからだ。


 この例えでも分かるように、物の気配や空気というモノは錯覚や思い込みでは無く、厳然たる事実として存在する。この気配や空気に反応しながら動き喋ることが自然な演技に繋がるのである。演技する上でリラックスする事が絶対に必要なのは、緊張状態では気配・空気を感じる繊細な感覚が麻痺してしまうからだ。


 ところが、近年俳優が空気・気配を感じる感性というのは鈍化傾向にある。
 これは役作りイコール演技という「役作り盲信傾向」と、即物的な理論に頼って理屈で演じようとする「感覚軽視傾向」の二つの演劇的理由と、ファミコンゲーム、インターネット、携帯電話によりデスコミュニケーションが加速化したという社会現象が大きな原因となっている。デスコミュニケーションの加速化が感性の鈍化を促すということについては言わずもがなだ。こうした社会背景を考えた場合、現代日本というのは名優を生み出しにくい土壌にあるのは間違いない。


 反面、俳優を志す者の多くは名演により名優となりたいと思うものだ。
 であるならば気配・空気に対して敏感になることだ。気配に鈍感なまま演じようとすれば、自分の演技がシーンに馴染むことは決して無い。また、気配・空気に反応した時にこそ、演技の真の面白さを実感出来るというものだ。


 演技とは即物的に計算された音(台詞)の高低、体の動きの修正によって作り出される物では無い。生きた反応の連続によって初めて生み出されるモノなのである。


-以上-


結局は「日常」に於ける他人との会話や触れ合いで、人がいつも自然に行っている作業=「反応」ってことなんですが、これが「演じる」って事になると途端に自然じゃなくなるんですよね^_^;


それを無くすためにあるのが稽古。

決して「技術」だけを追求する場では無いと言うことですね。うむ


「究極の演技とは、それが演技には見えない演技」(明石プロデューサー)


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