辻井喬『父の肖像』は、現代政治の裏面を垣間見ることができて面白かったし、二代に渡る個性的な男の人生をたどるものとしても興味深かったが、読み終わってみると、私にとっては家族とは何かを改めて考える大きなきっかけになっていた。

主人公の楠次郎(堤康次郎)は自分の出世欲や金銭欲や性欲など欲望のすべてを「楠家」の隆盛のためという大義名分でくくり、自分自身でもそう思い込んでいるだけではなく周囲の女性たちや子どもたちや一族郎党まで巻き込んで、その価値観を押し付けながら自分の欲望を押し通す。
そうして構築された壮大な虚構が現実の中でさまざまの矛盾に追い詰められどのように崩壊して行ったかは、小説の中でも、そのモデルとなった現実の世界でも次第に明らかとなっていった。

彼自身も求めはしなかったかもしれないが、楠次郎にとっていわゆる小市民的で穏やかな暖かい夫婦関係はついに実現できず、長男は離反し、次男は従順でなく後継として指名できず、三男はそのコピーとして一時は彼の作り出した企業体に君臨したが、最後は社会からその経営法の非近代性を指弾されてしまった。
娘も、早々と父の思惑を裏切ってしまっている。

この小説に描かれた家族の姿は、日本人の家族観のある面を極端に肥大化させたものだ。
ありふれたサラリーマンだった私の父の話中に、小説の中で楠次郎がしきりと口にしていた家族観と同じものが何度も垣間見えたことを思い出す。
それは日本人の男たちの多くが共有していた、普遍性のある価値観だった。
そして今、私の周りにあるさまざまの「家族」の姿を見渡すとき、滅び行くものの影が心にある種の感慨を持ってしみてくる。惜しいわけではないが、寂しいという感じだろうか。

私の家では、妻と二人が残っている。
息子と娘は相互に全く独立してささやかな夫婦生活を精一杯送っている。彼らと私たちは、もはや「家族」ではない。私の中に「家」の観念は薄く、彼らにもそれは反映しているようだ。

私のちかしい親族は、娘二人を結婚させた後で離婚した。
その妻は何年も前から交際していた年上の男性の元に行ったがその後の消息は知らない。
夫はその後娘たちとも疎遠になり一人暮らしをしている。私と年に数回の連絡があり元気でいることはわかっているが、同じチームの帽子をかぶり家族四人でひいきのプロ野球チームの応援に出かけていた風景を知っているものには、隔世の感を禁じえない。
初老の域に達した自分の母が父親とは異なる男性の元に行こうとしていることを知ったとき、自分も二子の母親になっていた長女は「お母さんは家族を何だと思っているの」と悲鳴を上げて非難したそうだが、その母親とは今でも行き来があるのだろうか。

幼い子どもが放置されて死に、長い人生を生き抜いてきた老人が野垂れ死にのようにしてその最後を迎えなければならない社会で、それでもそもそも人間は一人では生きられない宿命なのだから、家族という虚構にもう頼れないとしたら、どのように他者とつながる関係を作ればいいのか。
そんなことを改めて考えてしまった。