その夜、蓮がリビングのソファーでドラマの台本の台詞を急ピッチで頭に入れていると。


「おめでとうございます!あなたは、1000億人目の、幸運なお客様に選ばれた方です!」


突然そんな声を掛けられて、台本に没頭していた蓮は一瞬間を置いて、慌てて顔を上げた。


「え、何…何だって…??」


顔を上げた先には、1人の女の子が立っていた。


10代と思しきその少女は、満面の笑顔でソファーに座る蓮を見下ろしていて…

真っ白なワンピースに白いブーツ姿のその背中には、嘘みたいなことに真っ白な2枚の羽があったのだ。


台本の世界観に入り込んでいた蓮は、湧いて出たようなその突然の出現に、上手く頭が付いていけない。


…まさか、ファンの浸入…?


ぽかんと少女を暫く見上げ、漸く浮かんだそんな考えを蓮はすぐさま打ち消した。


蓮の自宅マンションは、住所だって所属事務所内でも完全なトップシークレット扱いだし、マンション自体が完璧なセキュリティを誇っていて、外部の人間が蓮の許可なくこんなプライべートな場所にまで入り込むことなんて到底出来るはずがなかった。


だいたい、現れ方が突然過ぎる。


確かに台本には没頭していたけれど、ドアや窓が開けば、蓮だってその音に気付かないわけがない。
そんな音も気配も、少しだってしなかったのだ。


ますます目の前にいる少女の存在が不可解で、眉を顰めてしまう。


すると、彼女はふわりと微笑んで。


「私は最上キョーコと申します。あなたの3つの願いを叶えに来た、天使なんです」


宜しくお願いしますと名刺を差し出され、思わず受け取った蓮は目を瞠る。


『天上界所属 天使課天使部 アジア担当 恋愛キューピット 最上キョーコ』


…何が何だか、全くもって分からない。


訳の分からない状況に立たされたまま、ぽかんとそんな肩書きを眺めていると、彼女は持っていた白くて大きなバッグからファイルを取り出して、


「ええと、まずは簡単なご説明を。あなたは、天界が選ぶ天使が恋を叶える人間の1000億人目の方に選ばれたんです。その特典として、恋を叶える願いの他にも、あなたの希望するお願いをトータルで3つ叶えるという、ビックチャンスが付いて来ます」


滑らかな口調でそう言って、そしてファイルをパラパラと捲り、小首を傾げる。


「あなたは敦賀蓮さん21歳、職業は俳優さんで、ご本名はクオン・ヒズリさんですね。ご両親はハリウッド俳優のクー・ヒズリさんとスーパーモデル兼女優のジュリエナ・ヒズリさん。私、あなたの書類は全部に目を通してきたんですけど、本当のお姿って、金髪碧眼でしたよね?髪も瞳も黒くされてて、てっきり、人違いをしたのかと思ってしまいました」
「な…っ、待った、どうしてそんなことまで知ってるんだ…!?」


住所どころじゃない、極秘も極秘、日本では自分の他には所属事務所の社長しか知らない極秘事項を簡単に口にされて、蓮は驚愕してしまう。


なのに彼女は、驚く蓮をおっとりとした笑顔で見つめ返して、


「ご安心下さい、顧客の情報の他への流出は絶対にございませんから」


まるで保険の外交員みたいな口調でそう言った。
眩暈がして来た蓮は額を押さえる。


「いやいや、そんな問題じゃなくて…いや、そこも大事だけど。君は、何?どうしてそんなことを、知っているの…?」
「? ですから、私は天使ですから。そういう情報はしっかりと天界が管理していますし」


これは、不法侵入として警察に連絡するべきか…?


痛む頭を抱えて蓮はそう考える。


申し訳ないが、今の自分は、こんな訳の分からない相手に関わっている時間がないのだ。
これまでの予定よりずっと先の台本を何話分か、まとめて今夜中に頭へと叩き込まなくてはならない。


けれど、未成年の女の子を警察に突き出すなんて、フェミニストな蓮に出来るはずもなくて。


「…うん、分かった。分かったから、とりあえず今夜はお引取り願いたい。その、秘密に対しての口止め料は…えー、事務所と相談してから、考えさせて頂くから」
「えっそんなのダメです。私、あなたのお願いを3つ叶えるまでは天界に帰れません、職務放棄になっちゃいます。大体何なんですか、そんな脅迫者みたいな扱い。言われなくたって、秘密は絶対に守りますってば」


唇を尖らせ拗ねた顔で見つめられて、蓮は困ってしまう。


確かに人をそんな風に見たくはないのだけど、知られている情報が情報だ。

思わず蓮は『最上キョーコ』と名乗った少女を見つめて。


「じゃあ、俺は何をしたらいいの、最上さん。どうしたら君は、ここから帰ってくれるの?」


困り切って言うと、拗ねた顔がますます膨れっ面になって。


「もう、こんなに幸運なお話なのに、まるで厄介払いするみたいな扱いなんて、酷いわ…願えば『億万長者』も『しゅちにくりん』も、夢じゃないのに」


…『しゅちにくりん』…?


彼女のひらがな発音に首を傾げ、数秒後、意味を把握した蓮は愕然となる。


「なっ…き、君は、意味が分かってて言ってるの!?女の子が、そういう言葉を言うものじゃない」


蓮だってその意味をしっかり理解しているかは微妙なところだ。

でも、若い女の子が男の前で、簡単に口にしていい言葉ではないことは十分に分かる。


そんな蓮にきょとんとした彼女は首を傾げて。


「ここに来る前、私の上司が言ってたんです、『若い男性の願いは『億万長者』か『しゅちにくりん』だ』って。意味はよく分からないんですけど、幸せなことなんですよね?どういう状況なんでしょう」
「知らなくていいと思う」
「皆さん、そう仰るんですよねえ。上司だって、自分で言っておきながら赤い顔して逃げて行くし」


名刺まで用意して『天使』と名乗る、背中に羽をつけた女の子には『上司』がいると言う。

上司がそんな言葉を口にするなんて、思っていたよりも、『天使』の世界は砕けた場所のようだ。


…一体、どこからどこまでが、本当の話なのか。


「敦賀さんはお願い事はないんですか?私キューピットなので、恋愛絡みのお手伝いは得意ですよ。この矢でどんなお相手も一発です」


にっこり笑った彼女はいつの間にか、その手に金の矢と、同じく金の弓を持っていた。


装飾過多なその弓と矢は、どんな仕組みなのか、自らが光を放っているかのように眩いくらいに輝いてる。


…これは、銃刀法違反に引っ掛からないのだろうか?


弓の場合は軽犯罪法?
狩りをする気なら、狩猟法違反ではないのだろうか。


「お好きな方はいらっしゃいますか?その方の胸をこの矢で射れば、その方はもう、あっという間に敦賀さんにメロメロです!」


蓮の内心の疑問を他所に彼女はうきうきと言ったが、そこで、でも…と眉根を寄せる。


「…敦賀さんにはそう言うお手伝いは必要ないかも…自力でメロメロに出来そうですし、しゅちにくりんも、夢じゃないみたい」
「だから、そう言う言葉は口にしないの」


残念そうに、そしてまじまじと自分の顔を覗き込まれて、蓮はやれやれと苦笑を漏らす。


確かに、そう言う手助けは『敦賀蓮』には全く必要がなかった。


いつの間にか『抱かれたい男NO.1』とか『芸能界一イイ男』と言う言葉が代名詞になってしまった『敦賀蓮』の周囲には、放って置いても女性が群がって来る。


と言ってもそもそも、蓮自身にはメロメロにしたい特定の女性もいないし、『しゅちにくりん』を夢に見ることもないのだけど。


今の蓮は、何よりも仕事を最優先にしたいのだ。


「今、何か叶えたい願い事はありませんか?あ、言っておきますが、私がいなくなることとかお願いをキャンセルしたいとかは、なしですからね?」


それは残念。
言おうとした言葉の先を越されてしまった気分だった。


「…今、残念だって思いませんでしたか?」
「そんな、まさか」


可愛らしい外見に似合わず、彼女は随分と察しがいいようだ。


そんな彼女…キョーコに上目遣いで見つめられて、蓮は頭を捻る。


「願い事、ねえ…それは勿論あるけど…でも、それは、自分で叶えてこそのものだから。手助けをして貰って叶えるものじゃない」
「それは…全くもって正論なのですが、そこをなんとか」


粘られて、更に蓮は頭を捻る。
そして手元の台本を眺めて、蓮には珍しく、弱りきった表情をその顔に浮かべて。


「それなら…明日までに共演している主演女優の、泣きの演技を完璧にしてくれてると、助かるかな…」


そう、ぽつりと言葉を零した。


現在進行中のドラマの撮影が、見事に躓いてしまっている理由を口にした蓮は、軽く吐息を漏らす。


今、蓮が撮影に入っているドラマはラブサスペンスものだった。


記憶を全て失ったヒロインが『自分の過去のせいで重症を負った主人公を想い、彼のために姿を消す覚悟を決め、決意の表情で涙を流す』と言うワンシーンがどうにも上手くいかず、撮影が滞っていた。


現場はピリピリとしてしまっているし、演じる本人もその空気に呑まれて、蓮がいくら助言をしても上手くはいかなかった。


結局明日もう一度そのシーンを撮って、ダメならその先のシーンを撮るようになり、その女優は暫し休みに入って貰うこととなっていた。


噂では、最悪、降板と言う話まで出ているそうだ。


セットの維持などの金銭的なものも絡んで、現場の雰囲気がいいものとは決して言えなかった。
スケジュールを思えば仕方のないことなのかもしれないし、実力が全てのこの世界で安い同情なんて本人のためにもよくはないと分かっているのだが、どちらの状況も分かる蓮としては、どうにも気の毒で仕方がない。


だから思わず、そんな本音が漏れたのだが…


「え、そんなことでいいんですか?敦賀さん本人のことじゃないのに…1個目のお願いになっちゃいますよ、本当に、いいんですか?」


簡単なことのように言ったキョーコは、きょとんとした顔で不思議そうに蓮を見てくる。


そんなキョーコに、蓮は瞳を瞬かせた。


「え?あ、ああ、出来ることなら、それが一番だけど…」
「分かりました、じゃあ、ちょっと行って来ます。共演の主役の女性は…遠藤麻里さんですね。住所は…はいはい、OKです」


例のファイルを捲ったキョーコはひとつ頷き、


「じゃ、その間に敦賀さんは2個目の願い事を考えていて下さいね?」


そしてそう言うなり、目の前でいきなり煙のように姿を消したのだ。


もともとその場に誰もいなかったかのように、リビングの広い空間は静寂に包まれた。

残された蓮は、ソファーに座ったまま、唖然とその空間を眺めてしまった。


…そうして蓮は、彼女の『天使』だとか『願い事を叶える』とか言う言葉が本当のことなのだと、無理矢理強引に、理解させられたのだ。