そして…その奥から姿を現したセツを見て、レンは息を呑みます。
上半身に短衣を纏ったセツは、くびれた白いお腹を上向かせ、短いズボンを履いた白くてすらりとした足を朝の光に晒し…
そのまま、何ごともなかったように穏やかな寝息を漏らしています。
透き通るような白い肌は艶かしく、まるで陶磁器のように滑らかに光ります。
胸からお腹、腰へと繋がるラインは曲線を描き、とても女らしいたおやかさを見せていました。
…レンの前にその姿を見せたセツは醜さなどひとつもない、匂い立つような色香を秘めた、若く美しい娘だったのです。
でも、それより。
何をおいても一番レンを驚かせたものは、露になったセツの白い面差しでした。
小さな輪郭の中には弧を描いた眉、長い睫毛に縁取られた閉じた瞳、通った鼻筋、ふっくらとした薔薇色の唇が綺麗に収まり、可憐な美貌を形作っていました。
どんな楽しい夢を見ているのか、その唇は今にも笑い出しそうに甘く綻んでいます。
…その寝顔には、見覚えがありました。
遊び疲れて眠り込んだ少女を、何度背負って寝台に運んだことでしょう。
見飽きることなくその寝顔を見つめた過去の記憶が、レンの中にありありとよみがえって来ました。
言葉を放てば途端に彼女が消えてしまいそうで、何も言えないまま、レンは震える指先をその艶やかな頬に伸ばします。
その指先が触れた、その、瞬間。
ぱちんと何かが弾けて、全てが入れ替わったような感覚を覚えました。
光りと闇、表と裏、正と負が交代し…
全てが、正しい位置に戻ったのです。
そして、
「きゃ…っ!」
その弾かれた感触に驚いたセツが、飛び起きました。
ぱちりと見開かれた瞳が、真っ直ぐレンを見つめて来ます。
「え…な、何…?」
驚いたように上げられた声は、鈴を転がすような愛らしいもので…
レンに焦点を結んだその瞳が、更に大きく、まん丸くなりました。
「…レン、様…?え、あれ、お、王様…?私、どういうこと…?」
低いアルトの声は記憶の中にあるものに近くなり、栗色に見えた髪は黒髪に、醜いと言っていたその面差しは、華奢な美貌に入れ替わったのです。
レンの震える声は、どちらの名前を呼んでいいのか分かりませんでした。
どちらも、レンにとっては大事で大切な名前だったのです。
そのどちらも、もう失えるものではありませんでした。
「…キョーコ…?セツ…?君は、どっちなの…?」
黒いベールから現れたセツは、記憶の中にある『キョーコ』がそのまま成長した姿だったのです。
やはりセツは、レンの探し続けた『キョーコ』だったのです。
大きな瞳が、呆然とレンを見つめて来ます。
「私は…セツで、キョーコです…どちらの記憶もあるんです、暗闇の中でここで毎晩お会いした記憶も…皆が殺される中、私だけが逃がされた記憶も…!」
…そうしてキョーコは…
堰を切ったように話し始めました。
10年前の、悪夢のような一夜のことを。
襲撃は、全てが寝静まった深夜に突然始まったそうです。
いきなり聞こえた末期の悲鳴を皮切りに、住居内は阿鼻叫喚の嵐に包まれたのです。
その夜、祖母の寝台に潜り込んでいたキョーコは飛び起きました。
祖母が話してくれる昔の出来事を寝物語に聞くことが好きだったキョーコは、その日の夜も大勢いた兄弟から1人離れ、そうやって眠りに就いていたのです。
同じく跳ね起きた祖母が闇夜の中、緊迫した表情を作るのが目に見て取れました。
悲鳴は瞬く間に邸内のあちこちに広がっていきます、子供の心にもそれは、大変な非常事態に陥ったのだと分かりました。
『キョーコ、来なさい』
今から思えば、祖母は既に先のことを、全て見越していたように思われました。
入り乱れながら近付く大勢の足音を上手くかわし、転びそうになるキョーコを抱き上げ、オアシスの一番奥にある一族の墓地にまで逃げ延びました。
そこには墓標に模して作られた、一度閉めたら開けることの出来ない仕組みの隠し通路が作られていたのです。
「…お婆様は…私は王家に望まれた娘だから、もう一族の者じゃないから、逃げろと言ったんです。自分は年老いて逃亡の足手纏いになると、小さな私1人なら、敵の目を盗んで逃げることが出来ると言いました。それから、最後に私に魔術をかけて…全てを忘れて、誰からも身を隠し、レン様にお会いできる日まで絶対に生き延びろと…これまで、私に記憶が全然なかったはずです。後を追わないようにと、記憶を全て、お婆様が私の中に封じたのだから…」
そう淡々と語ったキョーコは、涙を溜めた瞳でレンを見つめます。
「レン様…お婆様は、あの後、どうされたのですか…?」
その声には、覚悟の色が滲んでいました。
レンは哀悼の気持ちを浮かべた瞳でキョーコを見つめ返し、ゆっくりと首を横に振りました。
「お婆様は…その墓地で、自害されたよ。でも、それはもう…10年前に、全てが終わってしまったことなんだよ…」
「…私は…何もかも忘れたまま、この10年を1人、生かされてしまったんですね…」
そう言って項垂れたキョーコを、レンは腕を伸ばしてそっと抱き込みました。
小さくとも誇り高いオアシスの姫君だったキョーコは…
そうして、10年の間忘れさせられていたその涙を、レンの腕の中で静かに流したのでした。
キョーコに掛けられた忘却の魔術は…キョーコが一番安全だと思える相手である、レンに触れた時に解けるものとして術を施されていたのです。
必ずキョーコが追手から逃げ切り、レンの元に辿り着くと信じて。
『物覚えが悪い』と言うことも、『醜い』と人の目に映ることも、彼女の身を守るための目晦ましだったのでしょう。
『頭の足りない娘だ』と人に侮られていれば、注目を浴びることもありません。
そして『醜い』と思われていたことが、キョーコをここまで無事に辿り着かせました。
幼いキョーコは、美貌をうたわれたその祖母の面差しをそのまま受け継いだ、それはそれは愛らしい姫だったのです。
顔を隠し人の目から逃がれて生きてこなければ、きっと今頃どこかの豪族のハレムに囲い込まれ、二度とレンと会うことは叶わなかったはずです。
だからこそ、キョーコは今まで『醜い』と人に謗られてきたのでしょう。
けれど、術を解くきっかけの蓮には、その効力が完璧には及ばなかったのです。
なにせレンの目には最初から、セツは美しい娘だと、ちゃんと映っていたのですから。
違って思えたのは、髪の色とその声ぐらいのものでした。
…やがて太陽が高く登り、その膝の上で泣き疲れたキョーコから嗚咽も出なくなった頃。
レンはキョーコの髪を優しく撫でながら、囁きかけました。
「キョーコ…私の妃に、この国の王妃になってくれるね…?」
すると、レンの膝の上に頬を寄せていたキョーコは慌てて身を起こし、泣き顔のまま眉尻を下げます。
「レン様…それは、いけません。私はこの10年を奴隷として生きてきた者です、王妃様にだなんて…昔とは違うのです、それはもう、無理なお話です」
そしてしゅんと肩を落として、小さく言いました。
この気配には覚えがありました。
セツだったキョーコが、よくベールの下で滲ませていた気配です。
そんな、これまでのセツと変わらぬ態度を見せるキョーコに嬉しくなったレンは、その涙で濡れた目元に唇を落とします。
「何が違う?君は私がこれまでずっと待っていたキョーコだ、欠けているものなどひとつもない。それに…」
言い差したレンはふわりとその顔を笑顔に変えて、
「セツのままの君を、私は妃にしたいと思っていたんだ。君は私を2回も、恋に落とさせた。その責任をちゃんと取って欲しい」
そう言って、キョーコの瞳を真っ直ぐ覗き込みました。
キョーコは10年前の優しい記憶でレンをずっと虜にし、そして成長した今、曇りのない綺麗な心で、レンをまた夢中にさせたのです。
「『王妃になる』って言って、キョーコ。私の相手は君だけだって、昔に約束しただろう…?」
「…レン様…っ」
そしてその身体をぎゅうっと抱え込むと…
戸惑うようにレンを仰ぎ見ていたキョーコは、途端また瞳を涙で大きく潤ませ、ふにゃりと唇を歪めて見せて、
「…ほ、本当は、毎晩ここでお会いできることが、『セツ』だった私の、何よりの幸せだったんです…!ハレムになんて行って欲しくなかったの、身分が違いすぎるって分かっていても、わ、私は、この幸せを離したくなかったんです…っ!だから…お、お傍に、いさせて下さい…これからは、夜だけじゃなくて、お、王妃様として、ずっと…!」
そして強い力でしがみ付いてくるなり、叫ぶようにそう言ったのでした。
「…やっと本音を言ったね、キョーコ…君は、今も昔も意地っ張りだ」
漸く欲しい言葉を貰えたレンは、大きく破顔して。
「ずっと一緒だよ、キョーコ…もう、二度と手放さない。これからは、朝も昼も、ずっとずっと、一緒だ…」
そのまま誓うようにそう言うと…
「…レン様ぁ…」
とうとう幼い子供みたいに泣き出したキョーコを、10年を掛けてやっとこの腕の中に戻って来た愛しい存在を、一生手放すまいと強く強く抱き締めて。
まるで誓いを立てるような面持ちで、その唇に優しくくちづけたのでした。
長い間行方不明であった『キョーコ様』はこうして、王様の下に戻ってこれたのでした。
国中に広がっていた2人の悲恋を知る国民は、漸く帰ってきた悲劇のお姫様の『キョーコ様』を喜びの中で迎え入れました。
何よりも誰よりも一番に喜んだ王様は、『キョーコ様』を、すぐさま王妃様に迎えたのです。
お披露目として国民の前に姿を現した王妃様は、それはそれはお美しい方でした。
金の指輪も金の耳飾も、首元を彩る大きな宝石も、幸せそうに王様を見上げる王妃様の前では、全てが色褪せて見えるほどでした。
王様も、鮮やかな王妃の衣装を纏い隣で微笑む王妃様を見つめ、とてもお幸せそうです。
…だから…
その王妃様と、一時王宮で下働きをしていて姿を消したとても醜いと噂のセツが、実は同一人物だと言うことに気付く者はおりませんでした。
唯一事情を知る側近のヤシロが、どういう仕掛けだったのかと首を傾げるばかりです。
王様と王妃様は大変仲睦まじく互いを想い合い、共に国を支えていきました。
そしてそんな2人は、度々王宮を抜け出すと…
泉のほとりでの特別な逢瀬を、暗闇の中、楽しんだとのことでした。
*END*
*くらやみのなかで*お付き合い頂きましてありがとうございました★
肩透かしの解明編になっていないといいなあ…ドキドキ。
ではでは♪