お待たせ致しました、*くらやみのなかで*後編です。

後編は王様敦賀さんサイドです。
そして何故後編(1)かと言うと…あまりにも長くなりすぎたので分割しました…

レン様いろいろ考えるから長くなるんだよう(人のせい)

ではでは、どうぞ!


*くらやみのなかで*後編(1)

『ねえ、レン様!私は大きくなったら、レン様のお妃様になれるのですか?』

艶やかな黒髪を肩に流した幼い少女は、レンをその大きな瞳でまじまじと見つめてきながら、急にそんなことを言い出しました。

その言葉にレンは瞳を細めます。

今更何を言うのだろうか、この子は。
生まれた時から7歳になったこの歳まで、彼女は毎日のように、レンの許婚としての振る舞いを教え込まれているはずなのに。

そう思ったレンは微笑んで、隣にちょこんと座る小さな姫の頭を愛しむようにゆっくりと撫でました。

『そうだよ、キョーコ。君は私の妃になるんだ。王宮の呪い師が決めた縁談だったけど…君が、私の許婚でよかった。俺の可愛いお姫様』

そうして瞳を覗き込むと、幼いキョーコは嬉しそうにふわりと微笑んで。

『じゃあじゃあ、私は何番目のお妃様ですか?』
『…何番目…?何故?』

幼い少女のその発想にレンが驚いて瞳を瞬かせると、キョーコも不思議そうに首を傾げます。

『だって、私のお父様にもお妃様が何人もいます。レン様も、そうなるのではないですか?』

それは確かに、その通りでした。
たくさんの妻を持ち、その豊かな生活を支えることが、大きなオアシスを統治する部族長であるキョーコの父の威厳に繋がるのです。

そしてそれは、レンの父も同じこと。
レンの母である王妃を深く深く愛している父も、王の仕事として、多数の愛妾をハレムに住まわせておりました。

けれど…

『私は違う。私の妃は、キョーコ1人だけだ。他に妃はいらないんだよ』

レンは頭を横に振って、真っ直ぐな瞳でキョーコを見つめます。

自分の母が王の仕事、王妃の役目として多くの愛妾の存在を受け入れつつも、辛い気持ちを抱えていることをレンは知っていました。
大切なキョーコにまで、そんな思いを味合わせることは絶対にできなかったのです。

けれどそんな思いを知らないキョーコは、更に小さく首を傾げます。

『でも、いいのですか?多数の部族のお姫様をハレムに迎えることが、レン様の治世を支えることになるって教わりました。その度量が、私には必要なのだって』
『…キョーコは難しいことを知っているね…』

当然のようにそんなことを口にするキョーコに、レンは堪らず苦笑してしまいます。
キョーコの優秀な家庭教師は、彼女が幼いからと言って、一切容赦はしていないようでした。

困ったレンは、隣のキョーコを見下ろして囁きます。

『そんな心配をしなくていいんだよ、キョーコ。君は、俺のたった一人の相手なんだから…そんなことより、早く大人になって、早く私のところに嫁いでおいで』

そして、その小さな額に唇をちゅ、と押し当てます。

すると、

『…はい…っ』

幸せそうに微笑んだキョーコが元気よく、レンの言葉に返事を返したのでした。


***


…鳥の囀る声に目を覚ましたレンは、暫くの間、夢と現実の区別がつきませんでした。

瞳に映るのは広い広い寝台の上の、シーツの波。
天蓋を覆う何重もの幕の向こう側には開け放たれたテラスが続き、そのまま緑の生い茂る王宮の庭に出れるようになっていました。

そこから入り込む熱い風に吹かれながら…
今、自分の隣にキョーコの存在がないことを確かめて、レンは深い溜息を漏らします。

全ては夢の中のこと、10年前の出来事を繰り返したものでした。

そんな会話をキョーコと交わしたのは、彼女の父が統治していたオアシスでのことでした。

生い茂る緑、豊富に湧き出る清らかな水を湛えた大きなオアシスは、子供だったレンの大好きな場所でした。
そこを訪れれば、いつだってキョーコが可愛い笑顔でレンを迎え入れてくれていたのです。

あの日もそうでした。
キョーコに会うためオアシスを訪れ夕刻までをそこで過ごし、また来ると伝えて王宮に戻った、その夜のこと…

緑にあふれていた部族長の住居は同族の者に襲撃され、一族全てが死に絶えてしまったのです。
そしてキョーコも、遺体が見つからない、その事実だけを残してレンの前から消えてしまいました。

あの日、共に王宮に連れて帰っていたら、せめて、あの小さな姫だけでも助けることができていたのに。

その悔恨の気持ちと、キョーコと交わしたあの約束を胸に、レンはこの10年を過ごしてきたのでした。

自分の妃はキョーコだけ。
それは、変え得ることの出来ない、大事な大事な彼女との約束でした。

「王様、お目覚めですか?声が掛からないと、傍付きの侍女達が心配しておりますよ」

額を抱えたレンに、不意に幕の外から柔らかな声が掛かります。
その声に顔を上げたレンは、言葉を発しました。

「ああ、ヤシロ…悪い、少し考え事をしていた。入っていいと、伝えてくれ」

幕を開けると、声と同じ柔和な顔の男性が立っていました。
レンの側近としてその治世を支えてくれている、ヤシロです。

「朝から考え事なんて珍しいですね?どうかなさいましたか」

寝室にやって来た侍女達がレンの衣装を調える中、ヤシロが不思議そうな顔をします。
僅かに言い淀むレンに、ヤシロの目線が返事を待っていて…

「…久々に、キョーコの夢を見たんだ…」

溜息を漏らしそんな言葉を思わず零すと、途端にヤシロの表情が曇ります。

「そうでしたか…」

2人にとってキョーコの話題は、今も鮮やかなまま血を流す心の傷を、更に抉るようなものでした。

子供の頃からレンの側近として傍に上がっていたヤシロも、キョーコと面識がありました。
人懐こいキョーコはヤシロにも懐き、ヤシロもそんなキョーコを敬いつつ、彼女を妹のように愛しんでくれていました。

レンと同じ後悔を、ヤシロも同じく抱えているのです。

正直に夢の話をしたことへ申し訳ない気持ちになったレンは、もうひとつ、気になっていたことを思い出します。

「そういえば、ヤシロ、聞きたいことがあったんだ。お前最近、新しい下働きの娘を屋敷に迎えたのか?」

そう問い掛けたレンは、昨夜のことを思い返します。

昨夜、眠れぬ夜を持て余していたレンは、ヤシロに与えた王宮内の屋敷に向かっていました。
仕事中毒の嫌いのあるレンは、眠れないのならこの時間を、政策についての話し合いに当てようと考えたのです。

その最中、人気のないはずの森の外れの泉から水の音がして…何かと思わず声を掛けたレンは、その泉の傍で、若い女性の裸の背中を見てしまったのです。

不可抗力とは言え思わず目にしてしまった、月の光に照らし出された白い背中は妙に艶かしくて…
長い栗色の髪に隠れたなだらかな丸みを描く胸元までを目にしてしまいそうになり、慌てたレンはくるりと背中を向けました。

謝罪の言葉を発し、相手の許しを得て振り返ったレンが次に見たのは、暗闇の中ぺたんと座り込む暗い色の衣を纏った女性の姿でした。

『驚かせてすまない。私はレン。ここの敷地に住まうヤシロの元に用事があって来たのだが…君の名前は?女性がこんな夜中に出歩いては、いけないよ。そんなところに座り込んでないで…こちらにおいで。屋敷まで送っていこう』

そう声を掛けたレンが傍に近付こうとすると、その次の瞬間、女性は思いも寄らないことを言いました。

『わ、私に近付いてはいけません!あなた様の身に穢れが移ります…!』

そしてそう言うなり、更に闇の濃い、木々の傍まで後退さってしまったのです。

辺りはただでさえ月が翳り、深い闇が降りていました。しかも、彼女は驚くほどすんなりとその闇に同化してしまったのです。
それはそこに今も人の気配があるのかすら、人の気配に敏いレンにも見分けるのが難しいほどのものでした。

『…穢れ…?それは一体、どういうこと…?』

若い女性が口にする言葉とは思えません。

すると僅かの逡巡の後、

『あの…そ、その前に、申し訳ありません、『レン様』とは…まさか、王様…?』

返された低いアルトの声に問われて、レンはそう言えば自分の身分を口にしていないことに気が付きます。
身分の分からない男を相手に、背中とは言え裸の姿を見られてしまえば警戒をするのが当然です。

この深い暗闇の中では互いの容姿すら分かりません。
伝わるのは、互いの声のみなのですから。

レンは相手を安心させようと、穏やかな声音で話すよう心掛けて言葉を発します。

『そうだ、私はこの国の王だ。だから安心していい、私は君に妙な行いをする者ではない。だから、安心して』
『だっ、だったら尚更、近付いてはなりません!!王様の御身に穢れが移ります、何故って、私はそれはそれは醜いのですから!!』
『…え…み、醜い…??』

その途端返された悲鳴みたいな台詞に、蓮は驚いて目を瞠ります。
それこそ、若い女性が言葉にする言葉とはとても思えないものでした。

『まさか…自分をそんなふうに卑下することはない、それに醜くて穢れが移るなんて…そんなことはない』
『いいえ、お言葉を返すようで申し訳ありませんが、そういうことが有り得るほどに私は醜いのです。皆さんそう仰いますもの、間違いありません!』

妙なことを何故か自信満々に言う女性を前に、レンは戸惑いを覚えます。
そんなことを言う女性を前にするのは初めてだったし、本気でそれを言っている様子なのにも、不可解な思いを更に抱いてしまいます。

先ほど目にしてしまった彼女の背中は滑らかで、とても綺麗なものだったとレンは思いました。

女性の肌を盗み見ておきながら、そんな感想まで抱くのは失礼なことかと思いましたが…
その背中から思い浮かぶ女性の容姿が醜いものだとは、レンには思えなかったのです。

『…君、名前は…?』
『セ、セツと、申します…『ヤシロ様』のお屋敷で、下働きをさせて頂いております』

セツ。

それはこの国の古い言葉で『少し足りない』とか『不足している』と言う意味を持つ言葉でした。
人の名前に遣われるようなものでは、決してありません。

結局彼女は、部屋まで送ると申し出たレンの言葉を大慌ての様子で丁重に断り、闇の中を脱兎のように逃げて行ってしまいました。

置いてきぼりを食らった形のレンは、そんな背中を呆然と見送ります。

そして、そのまま勢いに押されたようになってしまい…
目的だったヤシロの屋敷に寄るのも忘れ、王宮の自室に戻って来てしまったのでした。

「新しい下働きの娘…ああ、あの娘ですか。まさか、顔を合わせたのですか?」

レンの問い掛けに、ヤシロは呆れたような顔をします。

「王様…さては、また王宮内をふらふらと出歩きましたね?身分も弁えずどこにでも顔を出すのは、国王として如何なものかと思いますよ」

苦言を呈され、藪から蛇を出してしまったレンは苦笑を零します。
臣下の者が口々に言うのには、レンは王様としては気安すぎるそうなのです。

「名前の縁で召し上げた者です、何か、失礼なことでも?」
「いや、そうではない…名前の縁、とは?」
「…あの娘も『キョーコ』と言う名なのですよ、王様」
「…ッ…!」

焦りの表情を浮かべ身を乗り出したレンにヤシロは何も言わせず、ただただ頭を横に振ります。

「違います、彼女は『キョーコ様』ではありません。年の頃は同じですが…私は、あの娘の顔を見ましたから。愛らしかったキョーコ様とは、残念ながら似ても似つかない娘です」
「…そう、なのか…?」
「はい…若い娘でありながら、自分の容姿を気にして生きていかなくてはならないかと思うと…哀れでなりません」

…彼女の言う『自分は醜い』と言う言葉は事実なのだと、ヤシロの同情気味の表情はありありと物語っていました。

『キョーコではない』

その落胆は、初めてのものではありませんでした。
何故ならレンはこの10年ですでに、国中の『キョーコ』を探し出し、その全てが彼女ではないことを確かめていたのですから。

けれど、キョーコではないと分かっても、尚…
レンは何故か、『セツ』と名乗るもう1人の『キョーコ』のことが、心に掛かって仕方がありませんでした。


***


その日の夜も、レンは森の端の泉にやって来ていました。
その頭上ではまん丸な月が、煌々と明るい光を辺りに降り注いでおります。

熱い風が木々や花々を揺らしその陰影を躍らせて、見ていて飽きることのない景色を見せてくれます。

そしてそこに、さくさくと言う秘めやかな足音と共に、姿を現す者がいました。
それと同時に月に雲がかかり、辺りを暗闇で包んでいきます。

「まあ、王様。こんばんは、良い夜ですね」
「こんばんは、セツ。君は、またここで水浴びをするつもり?」
「だって、ここのお水はとても綺麗なんですもの。誰もこんな遅くには、ここに来ませんし」

やって来たのは『セツ』でした。
相変わらず暗い色の濃いベールで頭から爪先を隠し、その容貌は少しも窺えません。

何の問題もないようにけろりと言うセツに、レンは顔を大きく顰めます。

「それは、これまでが幸運だったのかもしれないよ。現にこうして、私はここに来ているじゃないか」
「でも王様は覗きなんてしませんし、第一、私みたいな醜い者の肌を見ようとする者なんて、いるわけがありません」

きっぱり言い切るセツを前に、レンはやれやれと頭を横に振ります。
レンとセツとの間で交わされるそんな会話は、実は毎夜のものでした。

セツと出会った初めての夜以降、レンには、どうしても気に掛かることがあったのです。

…まさかあの娘は、あの泉での水浴びを、毎夜の日課にしているのではないだろうか…?

夜とは言え、煌々と月の光が降り注ぐ泉は灯りの下のような明るさなのです。

そんな場所で若い娘が簡単に裸になるなんて…

考えるだけで気が気ではないレンはせめて忠告だけでもと思い、ある夜、王宮を抜け出し泉にやって来たのです。

想像通りと言うか、やっぱりと言うか…泉の淵にはセツの姿がありました。

ただし、水浴び後だったのか、ベールをしっかり身に纏っています。
そして彼女は膝を抱え、天空で輝く月を眺めていました。

『月が好きなの?』

思わず掛けた声に飛び上がったセツは、背後に立つレンを仰いで驚いた声を上げました。

『…王様…!どうしてこちらに!?』
『君がまたここで水浴びをしているのかと思って…どうやら、その通りだったようだね』

セツはレンがそう言って溜息を吐く、そんな僅かの間にも、木々が落とす深い闇の中へと驚くべき素早さで身を隠してしまいました。
そして、そんなセツに驚きつつ、彼女が最前まで座っていた場所の傍らに身体を拭ったと思しき布を見つけたレンは、更に溜息を漏らしました。

『こんな深夜に、しかも1人で外で水浴びなんてやめなさい。使用人の住居には共同の浴室があるだろう?ちゃんと、そこを使えばいい』

当然のことをレンは口にしたのに、なのにセツは、有り得ないことを聞いたように暗闇の中からレンに大きく手と首を振って見せて。

『そんな、まさか!!私みたいな醜い者の姿を皆様の前に晒しては、とんでもないご迷惑になります!私にはここで十分なんです、むしろ勿体無いくらいです!!』

そう大きな声で力一杯、否定して見せたのです。

『いや…王宮内にそんな者はいないと思うが…万が一と言うことがある。若い娘が外で肌を晒すなんて、いいことではないよ』
『? でも、ここなら誰にも見せることはないし…』
『いいや、逆だよ、誰かに見られたらの話をしているんだ』
『…見られたら…??そんな奇特な方、この世にはいらっしゃいませんよ…?』

最初から、レンとセツの会話は堂々巡りだったのです。

何故か女性としての慎みや危機感が全く無いセツに眩暈を覚えたレンは、それ以来、深夜の泉で起こる事件を想像するといてもたってもいられなくて…

結局こうして毎夜、泉を訪れることを日課にしてしまっていたのです。

…深い深い溜息を漏らしたレンは、今夜もセツを泉に促します。

「私が周囲を見張っているから、水浴びを済ませなさい」
「…そんな、見張りなんていらないのに…」
「いいから、ほら」
「…はあい…」

不承不承と言うように返事を返したセツは、レンが後ろを向いたことを確認すると、その背後で衣類を脱ぎ始めたようです。

…若い娘でありながら、その脱ぎっぷりのよさもどうかと思うと、レンはいつも思います。
しかもそれは、若い男である自分がいるのにもかかわらず、です。

セツの『王様』への深い信頼の表れだとは分かるのですが…何故か、どうにも納得がいきません。

そうして暫くの間、そんな納得のいかない思いを抱えながらレンが1人、夜の闇の中に注意を向けていると…

「ありがとうございます、王様。もう、大丈夫です」

不意に声がレンに掛かり、振り返ると、もうすっかり衣服を纏ったセツがそこには立っていました。

「…その、気配を消す癖も直したほうがいいと思うよ…周りの人間が驚くから」
「気配を消す癖?私、そうなんですか?」

きょとんとした声でそう言ったセツには、その自覚が全く無いようなのですが…
こうも簡単に背後を取られては、武術の達人としても名を馳せているレンの立場がありません。

それに女性でありながら、この水浴びの早さもどうかと思います。

女性と言うものは、もっと長く丁寧に、身体を磨くものなのではないのでしょうか。
セツは、もっと自分に対して気を払うべきです。それはもう、いろいろと。

そんなことを憮然とした顔で思うレンに、濃いベールを纏うセツは首を傾げる素振りを見せてから、手持ちの籠から果物を取り出しました。

熟れた赤い果物は、籠から姿を現すなり甘い香りを闇の中に匂い立たせます。

「私、これからご飯なんです。王様も、如何ですか?」
「ああ、頂くよ…ありがとう、セツ」
「ふふ、お礼を言うのは私です。王様がこちらに来て下さるようになって、たくさんお話ができて嬉しいんです、私」

顔は窺えないながら、セツはベールの奥ではにかんだような笑みを零したようでした。
レンはセツと間隔を空けて座り、並んで果物を口にします。

「うん、美味しい。よく熟してるね」
「住まわせて頂いてるところの裏庭に、たくさんなっているんです。こんなに食べ物が豊富にあるなんて、王宮は素敵なところですね」

嬉しそうにそう言うセツは、ベールの下から覗かせた細い指先で果物を持ちます。
働き者の手だけれど、それは思いの外に白くて綺麗な指先でした。

毎夜顔を合わせるようになったレンとセツは、暗闇の中で、いつの間にか親しい間柄となっていました。

最初はレンの『王様』と言う身分に完全に腰が引けていたセツですが、言葉を交わすうちに、あまり意識をしなくなったよう。
本人が言うには『身分が遠すぎて、逆にその差がよく分からなくなりました』とのことです。

ここに来るようになって、レンはセツの事情のおおよそを知りました。

セツとはこの泉の淵で、たくさんの話をしたのです。

以前は奴隷だったということ、ヤシロに奴隷市場から助け出されたこと、以前の記憶が曖昧だということ。

美しいものが好きで、この泉の傍で月や花、風に流れる雲を眺めることがこれまでの一番の楽しみだったこと。

そして、自分の醜さを周囲に見せないように日中は室内に篭り、外出は夜のみと決めているということも。

『そんな、人目を気にして生活をする必要はない。君は人の為に生きているのではないのだから、好きな時間に好きに行動していいんだよ』

理不尽な行動理由にレンの方が腹ただしくなり、憤慨しながらそう言ったのですが、セツは受け入れません。

『それは、王様が美しい方だから言えることです。私の醜さは人を気味悪がらせるほどなんですよ!隠せるのなら隠して生きていった方が、世のためです』

『自分は醜い』と言うその一点に関してだけは、セツは酷く強情なのです。
王であるレンの言葉さえ、受け入れません。

そして、その上自分は物覚えもとても悪いのだと呆れたように言うセツは、自分の名前も書けないと言うのです。
泉の淵でレンは、水浴びの見張りと共に、彼女へ読み書きを教えることも日課となりました。

そんな中で…
レンは1人、セツに対する疑念をこっそりと深めていました。

ものを教えるようになって感じたのですが、セツは決して、物覚えの悪い娘ではありませんでした。

むしろかなり聡明で、教えたことをどんどん自分の知識にしていくのです。
その様は、教える側のレンが目を瞠るほどのものでした。

けれど…

朝を超え、また夜を迎える頃になると、セツは前夜の記憶を半分方失ってしまうようなのです。
何度となく繰り返すことによって、知識や記憶を、どうにか自分の中に残せるようになっているようでした。

これは『物覚えが悪い』で、済ませられるものでしょうか。

まるで魔術のようだとレンは思います。
もしかするとセツは、そのせいで記憶を保つことができないのではと思えてしまうのです。

それほど彼女の記憶の消滅は不可思議なものでした。

…彼女は、どこかで術をかけられたのでしょうか?

しかし、魔術は古の技術なのです。
今では王族が抱える呪い師の一族のみがその力を受け継いでいる秘術で、王族に連なる者のみに与えられる恩恵なのです。

だた、実は密かに、唯一の例外がありました。

それは『キョーコ』の祖母に当たる、滅んでしまったオアシスの部族の長老です。

10年前の事件で亡くなった彼女は実は呪い師の一族の出で、その美貌から、どうしてもと望まれて部族の長に嫁いだ人間だったのです。

それを思うと、どうしてもレンは希望を抱えてしまうのです。

…『セツ』と名乗る『キョーコ』は…
もしかすると、自分の『キョーコ』なのではないのだろうか、と。

セツは、決してレンの前でその素顔を晒すことはないのです。
「穢れが移る」と繰り返し言い、レンに触れるどころか、一定の距離を置いてそれ以上近付こうともしません。

これはキョーコに生きていて欲しいと願うレンの、どんなものにも縋りたい願望が見せていることかもしれません。

初めて会った時に見たセツの髪色は栗色でした。
けれど、レンの記憶の中に今も住む幼い『キョーコ』の髪色は、艶やかな黒髪だったのです。

セツの顔を見たというヤシロも「セツはキョーコではない」と言います。
唯一セツから個性を窺えるその声も、キョーコのものと比べると低く感じる気がします。

何より、あの『キョーコ』だったら…なんとしてでも、レンの元に戻ろうとするはずなのです。
セツのように、レンを初めて会う相手のように見ることも無ければ、忘れてしまうはずもありません。

…それでも…
レンの疑念は、どうしても払えません。

何故かと言えば、レンはセツといる時、不意にいなくなってしまったキョーコと共にいる時のような、不思議な安らぎを感じることがあるのです。

子供のような無邪気さや、人の言葉を全て信じているらしい危なっかしい素直さが、小さなレンの『キョーコ』と面影が重なるのです。

濃いベールのその下には、幼い頃の面影を残した大きな瞳が、笑みを零す柔らかな唇が、花のような可憐な面が、隠れているのではないかと夢見てしまうのです。

どんな違いも、その願望の前にはささやかな差としか思えません。

セツは、何者なのだろうか…
彼女には、一体何が起こっているのだろうか?

そんな疑惑が、レンの中にはずっと燻り続けているのでした。




≪後編(2)へ続きます≫


後編(2)は謎の解明編です。

キョーコなセツは何者なの?レン様のキョーコ様はどうなっちゃったの?レン様とセツの噛み合わない関係はどうなるの?を書いていきます。

ではではv