*天使の降る夜*



*SIDE 蓮*


自宅マンションの専用駐車場に車を停めた蓮は、そのまま直通のエレベーターを使って最上階の自室へと帰宅した。


彼は敦賀蓮、21歳。


大人気の若手実力派俳優で、ドラマに映画にCMにと引っ張りだこの彼は、その顔を日々画面で見ない日はなかった。


そんな彼が、自宅のドアを開くと…


「おかえりなさい、敦賀さん!ご飯にします?お風呂にします?それとも、わ・た・し?」


エプロンをした17・8歳ほどの、明るい色の髪をショートにした女の子が、そんな言葉と共に満面の笑顔で蓮を迎えてくれた。


部屋の中からは夕食のいい匂いが漂ってくる。


大きな瞳に抜けるような白い肌、ほんのり色づく艶やかな頬、花びらのようなピンクの唇。
表情が活発なため元気な印象ばかりが先に立つが、その素顔は美人と呼んで一切問題のない容姿をしている。


そんな可憐な容貌を持つ少女の言葉に瞳を細めた蓮は、そっと唇の端を引き上げた。


そして、


「ただいま、最上さん。それじゃ、先に君を貰おうかな」


世の女性がうっとりと見蕩れる甘やかな笑顔で、艶のある声で、そう囁く。


すると…


「はーい、分かりました!」


快活に返事をした彼女は蓮をリビングに通すなり、ソファーに座らせて、その肩を揉み始めた。


「敦賀さんはお仕事忙しいんですから、1日1日の疲れはその日のうちに取って下さいね!」
「…うん、ありがとう…」


うん。
そんなことだろうと思ってた。


深く納得した蓮は、細い手指に肩を揉まれながら背後を振り仰ぐ。


「いないと思ってたら、先に部屋に帰って来てたの?最上さん」
「はい。だって、5時からスーパーで安売りがあったんですもの」
「安売り、ね」


彼女はいつの間にやらスーパーの特売情報通になっていた。


蓮の日常にほぼ関わりのない情報なのに、常に一緒にいるはずの彼女は、一体どこからどのようにして、その情報を仕入れてくるのだろうか。


しかも、彼女の言うスーパーはマンションの1階にあるスーパーではないらしい。
本人が言うには「物価を調べたら、あそこは有り得ないくらいに高過ぎる」とのことだそうで。


「で、ご飯かお風呂か私って…そんな言葉は、どこで覚えて来たのかな。TV?」


目を細める、と言うより、眇めるが正しい表現の顔付きで彼女を見ると、


「敦賀さんがお仕事をしていた場所の隣で、男の人と女の人がそういう話をしてたんです。私が思うに、あれは帰宅した男の人に女の人が言う日本の風習みたいなものなのではないかと!ただひとつ不思議なのは、女の人の格好をしていた人も、どう見ても男の人にしか見えなかったっていうことなんですけど」


そう言って小さく小首を傾げて見せた。


「ああ、なるほどね」


そんな台詞で大体のことを読み取って蓮は大きく頷く。


キョーコが蓮の側にいた時、蓮はトーク番組への出演中だった。
そして確か、その隣のスタジオではお笑い番組の収録が行われていた気がする。


きっと彼女は、そこでそれを目にして来たのだろう。


その手のネタはもはや古典的過ぎて、そういう芸の中でしか目にしない…と言うか、目にするのも稀だと思う。


むしろ、その大元のネタすら蓮には分からない。


どうしてこういうやりとりが、世間で『夫婦の定番』みたいに知られるようになったのだろう?
こういう会話を本気でする夫婦と言うのは、世の中に存在するのだろうか。


けれど…

そう言われると、男は何故かどきりとなってしまうのは、本能の成せる業なのだろうか。


蓮がそんなことを考えていると。


「それより敦賀さん!今日は、如何でした?私のいない間に、何か願い事か、恋がしたいお相手は見つかったりしましたか?」


彼女は前のめりになってそんなことを聞いてくる。


毎日繰り返されるその催促に苦笑を漏らした蓮は、肩を竦めて。


「願い事もないし、『恋がしたいお相手』なんて、そうそう簡単にいるものじゃないって、毎日言ってるだろう?」


肩を揉む行為を続ける彼女に「ありがとう、もういいよ」と告げて、そのままソファーの隣に座らせる。
すると、隣にやって来た彼女はそっと溜息を漏らして。


「敦賀さんて、本当にそういう欲がないですよねえ…『しゅちにくりん』のチャンスが待っているのに」
「…だから、そう言う言葉を女の子が言っちゃダメだって、何回も言っているだろう…仮にも君は、『天使』なんだろう?」
「どうして言っちゃダメなんですか?せっかく上司に教えて貰って来た言葉なのに…意味を説明してくれたら、遣うのをやめます」


説明なんて出来るか。


深い溜息を漏らした蓮は、まっすぐな瞳で自分を見つめてくる、やや、と言うかかなり、浮世離れした少女をやれやれと見下ろす。


「えーと…最上さん、今日の夕飯は何?随分いい匂いがしてくるね」
「! 今日はロールキャベツです!やだ、敦賀さん、お腹空いてます?すぐ用意しますからねっ」


弾かれたように立ち上がった彼女はそう言うなり、物凄い勢いでキッチンに飛んで行った。

ソファーに残された蓮は、その微笑ましい単純さに苦笑を漏らすしかない。


彼女は最上キョーコ、17歳。

蓮の部屋に住むようになった彼女は、何くれとなく蓮の世話を焼いてくれているのだけど…

同棲とか熱愛とか、そういう艶っぽい関係にあるのではない。


彼女は、蓮に3つの奇跡を与えにやって来た『天使』なのだ。


…信じ難い話なのだけど、事実なのだから仕方がなかった。


その証拠に、エプロン姿の彼女の背中には、純白の羽が畳まれた状態で付いている。


『敦賀さんが私にお願い事を3つ言ってくれるまで、私はここから離れませんからね』


キョーコは屈託のない笑顔でそう言うのだ。


どうしてこのようなことになったのか。
その発端は、今から2週間前に遡ることになる。