自分は精一杯逃げたと、一年前を思い浮かべながらキョーコは思う。


徹底的に逃げて逃げて、逃げ捲くったのだけど、もったのはたったの半年とちょっとだった。


蓮はキョーコの心の傷にそっと寄り添い、植え付けられていた猜疑心を丁寧に取り除いてくれた。
そして絡んでいた糸を解きほぐすかのような優しく慎重な手つきで、キョーコの胸の奥にある男の人に対する、愛情に対する不信感を、ゆっくりと覆してくれたのだ。


キョーコが蓮を信じたいと思うようになったのは、かなり早い段階だったと思う。


そして、あなたが好きと、とうとう告げたのは7月の夏の夜で。


こうやってベッドに初めて引き込まれたのも思えば随分と早かったような気がするけれど、それは勿論、キョーコの気持ちをしっかり確認した上のことで、しかも凄く自然な成り行きでだった。


そうなる過程の前に、蓮はキョーコに知り得るはずのなかった秘密をいろいろと打ち明けてもくれた。


自分の本名、本当の外見、その理由と…
キョーコが幼い頃、間違えて覚えて名前を呼んでいた人の、その正体も。


驚いたし、唖然となったけれども、それは、全部キョーコにとっていい方向に向かっていた。


こんなに何度も好きにさせられる人から逃げられるわけがなかったと納得したし、復活の兆しを見せている乙女思考は、『運命の人』、なんて言葉を弾き出していたりした。


外堀は、もうとっくに、何年も前から埋められていたのだ。


一年前のあの頃、実は蓮の中でも心の蟠りが解消されつつあったそうだ。


長年の苦悩を抜けた頃、海外進出の話があり、それを視野に入れて撮影された映画が海外の賞を獲得したのだ。唐突に見えたキョーコへの告白には、そんな背景があったらしい。


今の『敦賀蓮』は国内外含めて引っ張りだこの、超人気俳優だ。


日本と海外を行き来しつつ、キョーコとの時間もちゃんと取ってくれている。


時々、本当に1人でこなしているスケジュールなのかと疑いたくなる心境だけど…

こんな人が他に何人もいたら物凄く困るので、蓮と社の神業に感謝しておくに留まろう。



カーテンの閉められた窓を見ると、薄っすらと明かりが差し始めていた。


時計を見れば、時刻は朝の6時半過ぎ。


キョーコは随分と長い間、蓮の寝顔を眺めて物思いに耽っていたようだ。

いつもの習慣でそろそろ起き出そうかなとも思うけど、隣で眠る人の寝顔をこんなに長く見ていられるのはそうそうない経験だ。


悪戯心が芽生え、指先でそのふっくらとした唇をゆっくりと辿ってから、顔を寄せてそのままそっと唇を重ね合わせた。


自分の行為に1人で照れて、頬を染めたキョーコは身を起こそうとしたのだが…


「ん…キョーコ、もう1回…」


不意に声が上がったかと思うと、身体に回されていた腕が伸び、後頭部を引き寄せられたキョーコは、その柔らかな唇にもう一度くちづけを落とす形になった。


驚いて瞳を瞬かせると、近い距離に楽しげな表情の蓮の顔があって。


「やだ、もう敦賀さんたら!いつから起きてたんですか?」


笑って言うと、蓮の腕が身体に回され抱き締められる。


「丁度、今。目が覚めたら、君があんまり熱心に俺の顔を見てるから…何か、新しい発見があった?」
「ふふ、相変わらず素敵だなあって思ってました。おはようございます、敦賀さん」
「おはよう、キョーコ…君も、相変わらず綺麗だね」


囁かれる照れ臭い言葉に身を竦めながら、目線を絡めた蓮とそのまま唇を寄せ合って、おはようのキスをして。


キョーコは目覚めた蓮の顔を覗き込む。


「敦賀さん、大丈夫ですか?ちょっと、疲れた顔をしてます。最近あまり寝れてなかったでしょう。今日は、お家でゆっくりしててもいいんですよ?」


心配げに言うと、蓮に苦笑気味に見つめられてしまう。

「それじゃ何の為にこの半年頑張ったか分からなくなるよ、本末転倒じゃないか…て、この使い方で合ってるよね?」
「ふふ、大丈夫。正解です」


昔の会話を思い出して、蓮とキョーコは笑みを零す。


キョーコが『坊』の中にいた頃の話だ。
『坊』を相手に蓮が言った想い人が誰であったのか、キョーコはもう、ちゃんと教えて貰っていたのだ。


2人の間に隠し事は、もう、1つだってなかった。


「誕生日おめでとう、キョーコ。今日は一日楽しもうね」
「…はい…!」


優しい眼差しで言われて、キョーコは表情を綻ばせて大きく頷く。


蓮から誕生日の過ごし方の希望を尋ねられて…
少し恥じらいを覚えつつも、キョーコは『遊園地に行きたい』と、リクエストしていたのだ。


手を繋いで一緒に歩いて、クリスマスムードの漂う園内を2人で楽しみたい。


これまで全く縁がなかったし、考えたこともなかったのだけど、蓮とお付き合いをするようになり、そういうことにそこはかとなく憧れを抱くようになっていたのだ。


キョーコの願いを早速聞き入れてくれた蓮は、『せっかくだから貸切にする?』なんて、冗談とも本気とも付かない顔で言っていた。


あの顔からすると…7割がた本気だったとキョーコは思う。


世の中にはこの日を楽しみにしている人達が他にもたくさんいると言うのに、とんでもない話だ。


大体いくら掛かると思っているのだろうか。
むしろ、そんなことが出来るのかどうかすらキョーコには分からない。


普段は至って常識的な彼なのだが、キョーコに関することになると、途端に感覚を変えるから困ってしまう。


何も大掛かりなことはしなくていいのだ。
ただ、他の一般的な恋人同士がすることをして、楽しい時間を2人で一緒に過ごしたいだけなのだから。


蓮とキョーコは今や、日本中公認のカップルとなっていた。


一緒にいるところを外で見られても案外穏やかに見逃してくれるし、サインや握手を求められても『応援してます』と言われ、嬉しい気持ちにさせられることが多々あった。


あまり顔を晒して歩くわけには行かないだろうけど、人ごみの中に姿を見せても騒動を引き起こす原因にはもうならないだろう。


芸能人とは言えせっかくの日なのだから、こそこそすることなく楽しませて頂きたい。


瞳を細めた蓮は、キョーコを抱き締めたまま喜色の浮かぶその頬に唇を寄せる。


「夜はディナーの席を予約してあるからね。今日は、予定が満載だ」
「はい。でも、そう言えば敦賀さん、今夜はゲストが2人来るって言ってましたよね?それって、誰が来るんですか?」


蓮に身体を引き寄せられ、彼の身体に腕を回したキョーコは疑問に思っていたことを問い掛ける。
25日の夜はゲストが来るからよろしくと、前々から言われていたのだ。


キョーコを見つめる蓮はそんな問い掛けに苦笑を漏らす。


「ああ、君も知ってる人だよ。誰だと思う?ヒントは…君の、大好きな人」
「ええ、敦賀さん以外でですか?んー…だるまやのお2人?モー子さんと社さん?」
「夜まで秘密。考えておいて?それも、楽しみの1つになると思うから」
「ええっ物凄く難しいんですが!」


やっぱりモー子さん?あらでも、そう言えばモー子さんは今日から地方ロケだって言ってたし…と呟くキョーコには、考えることに真剣で蓮の漏らした呟きが耳にうまく届かなかった。


「? 今、何か言いましたか?」
「ん、何も?真剣に悩む君も可愛いなって思ってたところ」
「…何か、誤魔化した気配がありますよ…?」


蓮は綺麗に笑って、キョーコの左手を取ってその指先に唇を寄せて。


「相変わらず疑り深いな、俺の愛しい婚約者は」


蓮のくちづけた指には、昨夜貰った指輪が光っていた。


…恋人としての指輪は、半年前に可愛いピンクゴールドのものをすでに貰っていたのだけど…


新しい指輪には、プラチナの台に大きなハートの形にカットされた大粒のダイヤがはめ込まれていて。

約束の印だと、昨夜、蓮はこのキラキラと光を弾く指輪を指にはめてくれながら言ったのだ。


『君の女優としての未来は、まだ始まったばかりだ。君は、世界が待ち望む一握りの女優になるよ。それを邪魔することは出来ないし…俺が独り占めにするにも、まだ早い』


その時の蓮の顔は酷く不本意なもので…
今思い出しても、ちょっと可笑しい。


だから約束だと、彼は言ったのだ。


『必ず俺のものになるって約束して…後にも先にも、俺だけだって』


そんなの今更だわ、とキョーコは思う。


これだけ夢中にさせておいて、もう、本当に今更だ。
後にも先にも、こんなに好きになる人なんていないし、好きになってくれる人も現れるはずがない。


彼の愛情は深くて一途で、惜しみがないのだ。


その想いに自分の心を返すのに一所懸命で、他の人なんて、考える隙すらなかった。


昨夜、寝室に連れ込まれた後この指輪を渡されて、目の前の恋人を先にベッドに押し倒したのはキョーコの方だった。


プロポーズの、返事として。

…胸に湧き上がる感情から、目が逸らせなくて…


「ふふ。大好きです、敦賀さん。大好き」


指輪を辿る蓮の指先に指を絡めて、耳朶にくちづけ、そう囁くと、蓮は整った美貌に花のような笑みを浮かべる。


「それは奇遇だね。俺も、今そう思ってたところだ。大好きだよ、キョーコ…愛してる」
「ん、んん…敦賀さん…」


舌を絡める深いくちづけをされ、嬉しくなったキョーコは愛しい人の首筋に腕を回す。


「敦賀さん…もっと、して?」


上目遣いで言ったら、蓮に優しくベッドに縫い止められてしまった。
見上げれば、そこには瞳に隠し切れない欲望をひらめかせた、優美でいて野性味溢れる恋人の姿があって。


「こら。そんな可愛い顔をして可愛いことを言うなんて、一体いつ、どこで覚えたの?…せっかくの日なのに、これじゃ、ベッドから出たくなくなりそうだ…」
「だから、それでもいいですってば」
「それはダメ。だから…今は、一回だけ」
「わ、敦賀さんたら…ふふ、くすぐったいです」


額を合わせた2人は、目線を絡めて笑い合うと…


そのまま、縺れるようにベッドに重なり合った。


「愛してるよ…キョーコ…愛してる」
「私も。私も愛しています、敦賀さん…」


吐息交じりの台詞が耳にくすぐったくて、キョーコは身を竦めながら愛しい人の背中を抱き締める。


蓮のベッドで、彼からこんな風に愛を囁かれることになるなんて。

更には、自分がそれに胸を熱くして、泣きたくなるような気持ちを抱えて同じ言葉を囁き返すなんて。


1年前の自分は想像すらしていなかった。



恋なんてしない。



人を好きになるなんて、もう、一生ない。



そう思い決めて、頑なな瞳でずっと世の中を見ていたと言うのに…



1年後の今、全てが覆されている。



人生にはそんな、思いもよらない出来事が待ち構えていることもあるのだと。

信じてもいいと思える人はこの世に必ずいるのだと、キョーコはこの1年で蓮に嫌と言うほど教えられてきた。


人との縁て、運命って…凄く不思議なものだわ…


そんなことを考えながら、優しい腕の中で瞳を閉じた。




最愛の人に、夢中になるために。




クリスマスの朝は、誕生日の1日は、まだまだ始まったばかり。



あまりにも盛りだくさんで、幸せ過ぎる1日を思って…

キョーコは愛する人と抱き合ったまま、笑みを零したのだった。







…だから、キョーコはすっかり忘れていた。



今夜のディナーのゲストを、しっかり推理することを。







「…早く正式に紹介しろって、矢の催促なんだよ…もう『戒律』も無効になったわけだしって。今夜の羽田は、大騒ぎになるかもな…まあ、クリスマスには家族は一緒にいるべきだし、ね」




彼はキョーコが思い悩んでいる横で、そう呟いていたのだ。





「ねえねえ、あなた!クオンのキョーコはどんな女の子なの?優しい子かしら、可愛らしい子かしら!?ああ、会うのが今から、とっても楽しみよ!」
「ああハニー、落ち着いて。彼女はとても素晴らしい子だよ!わたしが保証するし、なんと言ってもわたし達のクオンが選んだ唯一の女性だ!日本に着けばすぐにも会えるよ、楽しみにしていておくれ」




恋人が隠していたサプライズが、自分が結んだ幸せな縁の一端が、同一人物だと言うことを。



多忙な人々が時間を縫ってプライベートジェットで日本に飛んでくると言う可能性を、キョーコは想像すら出来ていなかった。


秘密も全て知っているし、慣れたつもりでいたのだけれど…やっぱり、敵は規格外で。






ディナーの席で抱擁の嵐に会い、キョーコが幸せの悲鳴を上げるのは、あと、12時間ほど先のことだった。









*END*





長いよ…!


ここまでお付き合い頂きまして、ありがとうございました…vv


このディナーの後は、家族してだるまやに行って大騒ぎのご挨拶があったのだと思われます^^