南北和合の旅(湊川神社 前編) | この美しき瑞穂の国

南北和合の旅(湊川神社 前編)

2016年12月30日大阪府大阪市阿倍野区の安倍晴明神社をお参りした後、この日宿泊する宿のある神戸へ移動した。そして夕方だったがJR神戸駅近くに鎮座する湊川神社を訪れた。


湊川神社は南北朝時代の歴史において最も人気の高い南朝方の忠臣・楠木正成(くすのきまさしげ)公を祀る神社である。





湊川神社拝殿



湊川神社の御祭神は楠木正成(くすのきまさしげ)公、楠木正季(くすのきまさすえ:正成の弟)、楠木正行(くすのきまさつら:正成の嫡男)公、大楠公夫人(正成の妻)、菊池武吉(きくちたけよし:湊川で楠木兄弟と共に自害した武士)公、他一族十六柱を祀る。




楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。楠木氏は橘氏の後裔とされるが不明である。楠木正成は河内国金剛山の西方にある千早赤阪(ちはやあかさか)村に居館を構える土豪だったといわれている。


楠木正成の伝説はいろいろと面白く、長文となるため今回の記事は前編と後編の二つに分ける。




楠木正成は37歳の時に倒幕の狼煙をあげた後醍醐天皇の元へ馳せ参じたといわれているが、その前半生は分かっていない。


太平記によると後醍醐天皇と楠木正成の出会いのきっかけは後醍醐天皇が御覧になられた神秘的な霊夢に由来するという。


ある日、後醍醐天皇が笠置山でまどろんでいるときに不思議な夢を御覧になったという。


その夢では紫宸殿(ししんでん)の庭先に大きな常盤木(ときわぎ)が現れ、その木の下に百官が居並んでいたが、南側の玉座は空席だった。すると天皇の前に童子が現れて天皇を玉座へ招いたという。


この夢を御覧になられた後醍醐天皇は周りの者に『木へんに南で楠と書く。この辺りに楠という者はいないか。』とお尋ねになられた。するとある者が『この辺りにはいませんが河内国の金剛山に楠木正成という者がおります。』と答えたので天皇は楠木正成を招来したという。


この話が史実かどうかは不明だが、前半生の分からない、氏素性もよく分からない正成が受け入れられたのは余程優れた才覚があったからなのだろう。



正成は幼名を多聞丸(たもんまる:多聞とは多聞天、すなわち毘沙門天のこと)といい、幼少の頃より河内国の観心寺で学問を学んだという。当時の土豪で学問を学ぶということは珍しかったようで、そうした下地によるものか後に武将として非凡の才を発揮することになる。



南朝の忠臣といわれる楠木正成だが、元々鎌倉幕府の御家人だったという説がある。


鎌倉時代末期の元享2年(1322)、楠木正成は鎌倉幕府より紀伊の湯浅氏討伐を命じられている。湯浅氏はかねてより幕府に反抗的だったため、幕府はしばしば討伐しようとするも強勢で手を焼いていたという。そこで正成に白羽の矢が立ったのだ。


そして正成は湯浅氏の半分以下の兵数で奇策を用いて攻略してしまうのである。



この後、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置山で倒幕の兵をあげると楠木正成もこれに乗じて後醍醐天皇の元へ馳せ参じる。それに対して鎌倉幕府は笠置山へ六波羅探題より7万5千の軍を送り、鎌倉からは増援として大仏貞直(おさらぎさだなお:北条貞直)を将とする20万の軍を京に送った。


すると後醍醐天皇は笠置山で籠城し、楠木正成は自身の居城・赤阪城に護良(もりなが・もりよし)親王を招いて籠城する。この時正成の手勢はわずか500ほどであり、幕府の20万の軍勢にとって鎮圧は赤子の手をひねるぐらい容易いことのように思えた。


それゆえ幕府軍は軍功を競って我先にと赤阪城の城壁を登り始めた。この敵の油断こそ正成にとって思う壺であった。



楠木軍は城壁をよじ登る敵兵に対し、糞尿や熱湯を浴びせたり、大きな石を落としたりして激しく抵抗したのである。また城の塀を二重にしておき、敵兵がある程度塀を登ってきたところでフェイクの外側の塀を落として敵兵の侵入を防いだのである。


他にも夜陰に乗じて敵陣近くの高台の上に藁の人形を据え置き、夜明けにその藁人形を見た敵が楠木勢の奇襲だと思い込んで盛んに矢を射かけてきたので、まんまと敵から新しい矢をたくさん手に入れたなどの奇策を用いて圧倒的な幕府軍を翻弄する。


こうした事態に幕府軍は力押しの無駄を悟り、持久戦へと戦法を変える。この時幕府軍に属していた足利高氏(※当時は高氏、後に尊氏に改名)は正成の戦いぶりに大変感心していたという。


そして持久戦の結果、20日目にしてもともと備えの少なかった楠木軍の兵糧が尽きたため、正成は赤阪城に火を放ち、混乱のどさくさ紛れに逃亡する。


その後、落城した赤阪城に入城した幕府軍は折り重なるたくさんの焼死体を見て、楠木正成と一族郎党が自害したものと見て、敵ながら天晴れと称賛したという。


ところがこの折り重なる屍は攻城戦で死んだ幕府軍の兵たちのものであった。正成は敵を欺くためにわざわざ屍を集めておいたのである。転んでもただでは起きない男なのである。


こうして赤阪城からまんまと逃げおおせた正成はしばらく金剛山に身を隠すことになる。


そして赤阪城の戦いから1年2ヶ月後の元弘2年(1332)、楠木正成が再び世に姿を表した。


そして正成は幕府の命で湯浅成仏(ゆあさじょうぶつ)が護る赤阪城を攻めてあっさりと攻略し、赤阪城を奪回すると次の幕府軍との戦に備えて十七の砦を作った。ちなみに敵将湯浅成仏は楠木正成に心服してこの後忠実な家来となる。



それから正成は河内国や和泉国の守護を瞬く間に攻略、すると京の六波羅探題(ろくはらたんだい)は正成討伐のため隅田通治(すだみちはる)と高橋宗康(たかはしむねやす)に5000の兵を与えて摂津の天王寺へ軍を差し向けた。


そして六波羅勢が淀川に掛けられた渡辺橋に集結したところへ正成率いるわずか300の兵が迎撃にやってきた。それを見た六波羅軍は一気に攻め潰そうと怒濤の勢いで渡辺橋を渡って攻めかかってきた。


すると楠木勢は退却するそぶりを見せ、それを追ってくる敵を十分に引き付けたところでいたるところに隠しておいた楠木勢の伏兵が飛び出し、六波羅勢に対して激しく矢を射かけた。そして既に橋を渡ってきていた六波羅勢に対しては騎馬隊で突撃をくらわせたので、その攻撃に面食らった六波羅勢は渡辺橋を引き返そうとしたが、その時すでに橋板が外されていたため、六波羅勢は次々に川へ落ちて大敗した。


この時、六波羅勢を率いていた隅田通治と高橋宗康はほうほうの体で京に逃げ帰ったという。



この情けない敗北に面目を潰された幕府は関東一の弓取りといわれた武勇の誉れ高い宇都宮公綱(うつのみやきんつな)に正成討伐を命じた。


すると宇都宮公綱はわずか主従15騎で正成討伐へと向かう。これを知った六波羅は宇都宮公綱に付けるべく数百の兵を後から追わせる。そして軍勢は最終的に700ほどまで膨れ上がった。


この時正成の軍勢は協力してくれている土豪たちの兵も合わせると2000ほどだったが、武勇の誉れ高き武士が己と刺し違える覚悟で攻め寄せてきたことを察した正成は宇都宮公綱と直接対決することを避けて天王寺から撤退してしまう。こうして宇都宮公綱はいとも簡単に天王寺を占拠することが出来たのだが、これは正成の罠であった。



宇都宮軍が天王寺を占拠した日の夜から毎晩天王寺の周りを数万のかがり火が囲むようになる。それを見た宇都宮勢はいつ夜襲かけられるかという不安に苛まれ、その重圧に堪えかねて四日目についに天王寺から撤退してしまう。こうして正成は戦わずして宇都宮勢に勝利するのである。


連日宇都宮勢を悩ませた謎のかがり火の正体は正成が地元の農民5000人に毎晩かがり火を持って天王寺を囲むように指示しておいたものであり、最初から天王寺に攻めこむつもりなどなかったのである。


歴戦の強者をも手玉に取る正成の兵法恐るべしである。


これに対し幕府は楠木正成の拠点である千早城、赤阪城へ大軍を差し向けたのであった。


(つづく)