神幸
本日は静岡県掛川市にある平将門公とその家来18名の計19名の首が埋葬されているという十九首塚(じゅうくしょづか)を訪れた。
十九首塚はJR掛川駅より徒歩十数分の下俣川沿いにある。十九首塚のそばには将門橋が掛かる。
将門橋。
将門橋を渡って階段を下ると突き当たりに十九首塚がある。
十九首塚。
平将門は、平安時代中期の関東の豪族である。臣籍降下して『平』の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の三男平良将(たいらのよしまさ)の子で桓武天皇5世孫である。下総国、常陸国で親戚の平氏一族と抗争を繰り広げ、やがては坂東八ヵ国の国衙(こくが)を襲撃して印鑰(いんやく)を奪い、朝廷から派遣された国司らを追放して関東一円に独自勢力を作り上げた。
そして巫女の神託により『新皇(新しく即位した天皇のこと)』を自称したことによって朝敵となり、天慶3年(940年)2月14日平貞盛(たいらのさだもり)と下野国の押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らにより討伐された。そして平将門とその郎党はことごとく討ち取られた。
藤原秀郷は平将門をはじめ一門の家来19人の首級と将門の念持仏の薬師如来、犬の掛け軸、刀等を持って京へ上る途中に掛川宿に立ち寄った。
すると京都の貴族たちは逆臣の首級を禁裏(きんり)に近づけてはならないとのことで掛川に朝廷からの検視の勅使(てし)が派遣されたという。その際に血洗川(現在の下俣川)で首級を洗い、橋の欄干に19人の首を並べて首実検が行なわれたという。一説にはこのことが掛川の地名の由来だといわれている。
首実検の後、検視の勅使は将門の怨念を忌み嫌い『首を京に持ち入るべからず。この地にて打ち捨てるべし。』と命じたと云う。
しかし藤原秀郷は『将門は逆臣なりとも名門の出である。その罪重しといえども今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』といって里人たちと19の首を埋葬して懇(ねんご)ろの供養したという。以来、地元の人々が供養してきたという。
十九首塚の前で観音経を唱え、平将門公とその一門18名が恨みをはなれて安らかな御仏の元へ召されますように祈った。すると一陣の風が吹いた。十九首塚は地元の方々の日々の供養の賜物か、穏やかな雰囲気が感じられた。いずれまた訪れることを誓って十九首塚を後にした。
その後掛川駅に戻り、一気に東京都千代田区外神田の神田明神(神田神社)に向かった。
神田明神は神社仏閣巡りを始めたばかりの頃によくお参りした神社だ。しかしこのところお参りを欠かしており実に久しぶりだった。
神田明神拝殿。
神田明神の御祭神、由緒等は過去記事があるので省略する。
(過去記事)
(2009年1月31日『神田明神』)
神田明神の三ノ宮の御祭神は平将門公だ。そのため十九首塚をお参りして神田明神へまるで神幸(じんこう・みゆき)のごとく直行したのである。
拝殿内では御神事中だったので静かにお参りし、平将門公の一層の神上がりを祈願した。
しばらく来ないうちに神田明神にはなんと神馬がいた。
過去に何度も神田明神にお参りしているが馬を見たのは初めてだ。この神馬は11月1日に神田明神にやってきた神幸号(みゆきごう)である。
神幸号は信州佐久高原で平成22年5月15日に生まれた牝馬で毛並みは葦毛であり、歳をとるごとに白毛が増え白馬になるという。
神幸号の愛称は神田明神の『明』の字をとって『明(あかり)』という。明るく平和な世の中を願う名前だという。
明ちゃんは今は黒っぽい色だが将来は白馬になるのだそうだが、ここでふと星を追う旅の金刀比羅宮で厩舎の馬が黒馬から白馬に変わった出来事を思い出した。
(関連記事)
(2011年10月22日『星を追う旅(金刀比羅宮)』)
まさかあの時の出来事が平将門公に繋がっているとは・・・明ちゃんを見て驚いた。明ちゃんはとてもおとなしくてかわいい子馬なのでチビッ子たちに大人気だった。
しばし明ちゃんを愛でた後、神田明神資料館を拝観して将門公自刻の妙見菩薩像をお参りした。久しぶりのご対面でとても懐かしかった。
久々の神田明神のお参りはとても清々しい気持ちになれた。新たに神馬・明ちゃんがやってきたことは瑞兆のように感じた。
また明ちゃんの成長を楽しみに神田明神に足を運ぼうと思う。
十九首塚はJR掛川駅より徒歩十数分の下俣川沿いにある。十九首塚のそばには将門橋が掛かる。
将門橋。
将門橋を渡って階段を下ると突き当たりに十九首塚がある。
十九首塚。
平将門は、平安時代中期の関東の豪族である。臣籍降下して『平』の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の三男平良将(たいらのよしまさ)の子で桓武天皇5世孫である。下総国、常陸国で親戚の平氏一族と抗争を繰り広げ、やがては坂東八ヵ国の国衙(こくが)を襲撃して印鑰(いんやく)を奪い、朝廷から派遣された国司らを追放して関東一円に独自勢力を作り上げた。
そして巫女の神託により『新皇(新しく即位した天皇のこと)』を自称したことによって朝敵となり、天慶3年(940年)2月14日平貞盛(たいらのさだもり)と下野国の押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らにより討伐された。そして平将門とその郎党はことごとく討ち取られた。
藤原秀郷は平将門をはじめ一門の家来19人の首級と将門の念持仏の薬師如来、犬の掛け軸、刀等を持って京へ上る途中に掛川宿に立ち寄った。
すると京都の貴族たちは逆臣の首級を禁裏(きんり)に近づけてはならないとのことで掛川に朝廷からの検視の勅使(てし)が派遣されたという。その際に血洗川(現在の下俣川)で首級を洗い、橋の欄干に19人の首を並べて首実検が行なわれたという。一説にはこのことが掛川の地名の由来だといわれている。
首実検の後、検視の勅使は将門の怨念を忌み嫌い『首を京に持ち入るべからず。この地にて打ち捨てるべし。』と命じたと云う。
しかし藤原秀郷は『将門は逆臣なりとも名門の出である。その罪重しといえども今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』といって里人たちと19の首を埋葬して懇(ねんご)ろの供養したという。以来、地元の人々が供養してきたという。
十九首塚の前で観音経を唱え、平将門公とその一門18名が恨みをはなれて安らかな御仏の元へ召されますように祈った。すると一陣の風が吹いた。十九首塚は地元の方々の日々の供養の賜物か、穏やかな雰囲気が感じられた。いずれまた訪れることを誓って十九首塚を後にした。
その後掛川駅に戻り、一気に東京都千代田区外神田の神田明神(神田神社)に向かった。
神田明神は神社仏閣巡りを始めたばかりの頃によくお参りした神社だ。しかしこのところお参りを欠かしており実に久しぶりだった。
神田明神拝殿。
神田明神の御祭神、由緒等は過去記事があるので省略する。
(過去記事)
(2009年1月31日『神田明神』)
神田明神の三ノ宮の御祭神は平将門公だ。そのため十九首塚をお参りして神田明神へまるで神幸(じんこう・みゆき)のごとく直行したのである。
拝殿内では御神事中だったので静かにお参りし、平将門公の一層の神上がりを祈願した。
しばらく来ないうちに神田明神にはなんと神馬がいた。
過去に何度も神田明神にお参りしているが馬を見たのは初めてだ。この神馬は11月1日に神田明神にやってきた神幸号(みゆきごう)である。
神幸号は信州佐久高原で平成22年5月15日に生まれた牝馬で毛並みは葦毛であり、歳をとるごとに白毛が増え白馬になるという。
神幸号の愛称は神田明神の『明』の字をとって『明(あかり)』という。明るく平和な世の中を願う名前だという。
明ちゃんは今は黒っぽい色だが将来は白馬になるのだそうだが、ここでふと星を追う旅の金刀比羅宮で厩舎の馬が黒馬から白馬に変わった出来事を思い出した。
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(2011年10月22日『星を追う旅(金刀比羅宮)』)
まさかあの時の出来事が平将門公に繋がっているとは・・・明ちゃんを見て驚いた。明ちゃんはとてもおとなしくてかわいい子馬なのでチビッ子たちに大人気だった。
しばし明ちゃんを愛でた後、神田明神資料館を拝観して将門公自刻の妙見菩薩像をお参りした。久しぶりのご対面でとても懐かしかった。
久々の神田明神のお参りはとても清々しい気持ちになれた。新たに神馬・明ちゃんがやってきたことは瑞兆のように感じた。
また明ちゃんの成長を楽しみに神田明神に足を運ぼうと思う。