大和の旅(飛鳥路 前編) | この美しき瑞穂の国

大和の旅(飛鳥路 前編)

2010年9月19日岡寺をお参りした後、レンタサイクルで伝・飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡に行った。


伝・飛鳥板蓋宮跡。

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伝・飛鳥板蓋宮跡には『飛鳥光の回廊』の用意がしてあった。


飛鳥板蓋宮は643年皇極(こうぎょく)天皇が宮を構えた場所であり、645年に中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)による蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺(乙巳の変(おっしのへん))が起きた場所でもある。



第35代皇極天皇は第34代舒明(じょめい)天皇の皇后であり、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(おおあまのみこ:後の天武天皇)の母である。舒明天皇が崩御された後に天皇として即位し、飛鳥板蓋宮に遷宮した。


後に皇位を同母弟の軽皇子(かるのみこ:後の第36代孝徳天皇)に譲る。しかし孝徳天皇が崩御後、再び天皇として即位し(※これを『重祚(ちょうそ)』という)第37代斉明(さいめい)天皇となった。


石の女帝と云われる斉明天皇は、大規模な石造りの土木工事を度々行ったために国を疲弊させ、民から反感を買ったといわれている。


また斉明天皇の治世には阿倍比羅夫(あべのひらふ)を将軍とする蝦夷討伐が三度行なわれ、朝鮮半島で百済(くだら)が唐・新羅に滅ぼされると百済再興を支援するため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、筑紫の朝倉宮に遷って戦争に備えた。しかし661年、朝鮮半島へ遠征軍が発する前に当地にて崩御した。



この日(9月19日)より10日前の2010年9月9日、奈良県高市郡明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳が明日香村教育委員会により斉明天皇陵であるとほぼ特定された。


このニュースは牛の事象として大いに注目し、いずれ行こうと思っていた。

(関連記事)

(2010年9月10日『牛の事象』)


しかし、今回の大和の旅は当初の計画では飛鳥を廻るつもりは全く無かったのだが、奈良近辺の宿を予約出来ず、なぜか明日香村では宿が取れた為、急遽斉明天皇ゆかりの場所を巡ろうと決めたのである。前夜の『飛鳥光の回廊』の歓迎からしても今回は飛鳥に呼ばれたのかもしれない。



伝・飛鳥板蓋宮跡を観た後はレンタサイクルで酒船石(さかふねいし)遺跡に行った。


酒船石。

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酒船石は長さ5.5m、幅2.3m、厚さ1mの花崗岩で出来ている。この石の北側及び南側の一部は欠損しており、近世に切り出してどこかへ運びだされたと考えられている。


酒船石は酒を絞る槽とも、或いは油や薬を作るための道具とも推測されている。また、この石の東方40mのやや高い所からこの石に水を引くための土管や石樋が見つかっていることから庭園の施設とする説もあり、石の女帝・斉明天皇に関係する石造物とも考えられている。



酒船石遺跡には『亀形石』という石造物もある。


亀形石。

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酒船石遺跡は『日本書紀』斉明天皇2年(656年)の条に記載のある『宮の東の山の石垣』にあたる遺跡である。


平成12年に行なわれた発掘調査により亀形石槽を中心とした導水施設をはじめ、石敷き、石垣、石段が発見された。


亀形石にはガイドさんがおり、丁寧な説明をして下さった。ガイドさんの話によるとこの地は元は運動場だったが、観光のために道路工事を行なっていたら亀形石等の遺跡が発見されたのだという。



亀形石は木樋から流れる水を溜めるものであり、おそらく斉明天皇が斎戒沐浴をなさるためにお使いになられたものだろうと語っていた。亀形石の写真は自由に撮影して構わないというので一枚撮影した。



亀形石を観た後は飛鳥坐(あすかにいます)神社にお参りした。


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飛鳥坐神社には飛鳥路巡りの際には必ずといっていいほどお参りしている。


飛鳥坐神社拝殿。

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飛鳥坐神社の御祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、飛鳥神奈備三日女神(あすかかむなびみかめのかみ)。


飛鳥坐神社に関する詳細は以前書いたので今回は省く。

(過去記事)

(2009年4月30日『飛鳥の旅 中編』)


ここにはいつお参りしても神秘的な雰囲気が感じられる。特にいくつかの摂末社が集まっている場所は多くの神々から見られているようで緊張感が漂っている。


この飛鳥坐神社の近くには飛鳥東垣内(あすかひがしがいと)遺跡というものがある。


平成11年東垣内遺跡で7世紀中頃の幅10m、深さ1.3mの南北大溝が発見された。この溝は飛鳥地域最大規模のものであり、物資を輸送する運河であったと考えられている。



『日本書紀』斉明天皇2年(656年)の条に石上山(いそのかみやま:現・天理市の豊田山)の石を運ぶために渠(みぞ)を掘って舟運で運び、宮の東の山に石垣を造り、石の山丘と呼ばれたことが記されている。時の人はこの渠を『狂心渠(たぶれごころのみぞ)』と揶揄した。



『宮の東の山の石垣』とは先に訪れた酒船石遺跡のことであり、飛鳥東垣内遺跡の大溝は『狂心渠』の一部である可能性が高いといわれている。



石上山は『宮の東の山の石垣(酒船石遺跡)』から約12㎞も離れているため、それほどに長大な渠が掘られたということになる。日本書紀によると『狂心渠』を掘るために無駄に費やされた人夫は3万人、『宮の東の山の石垣』を造るために7万人もの人夫が動員されたという。



斉明天皇4年(658年)に天皇が都を留守にした時、留守官の蘇我赤兄(そがのあかえ)は、有間皇子(ありまのみこ)に斉明天皇の政治における三つの大きな失政を挙げた。


一つ目は大きな倉を建て民の財を集めたこと、二つ目は長い運河(狂心渠)を掘って公の糧を費やしたこと、三つ目は舟に石を積んで運び丘を作ったことであるということであった。


日本書紀にこのような話が記載されていることから斉明天皇は周りから良く思われていなかったと考えられている。斉明天皇は民心の分からない為政者だったのかもしれない。



飛鳥坐神社をお参りした後はレンタサイクルで飛鳥水落遺跡に向かった。


(つづく)