殺生石 | この美しき瑞穂の国

殺生石

2010年9月12日那須温泉神社をお参りした後、神社から少し離れた場所にある殺生石(せっしょういし)まで歩いて行った。


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殺生石。

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殺生石には鳥羽上皇が寵愛した玉藻前(たまものまえ)が討伐されて石となったという伝説がある。


玉藻前の正体は美女に化けて天竺(インド)、中国で様々な王、皇帝らを誘惑して取り入り、やがては悪行三昧で国を崩壊させた白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)の狐とされる。


玉藻前は日本へ帰る遣唐使船に少女に化けて乗り込み、日本へ渡ったという。


日本に渡ると子に恵まれない夫婦に拾われて育てられ、美しく成長した。


そして18歳になると宮中に仕え、その美貌と博識から鳥羽上皇に寵愛されるようになった。


そんなある秋の日、宮中での和歌の夕べの時、突然風が吹いて燈火が消え真っ暗になってしまった。その時玉藻の体から玉のような光が発して明るくなった。鳥羽上皇はこの事に感激し、玉藻前と呼ぶようになった。



しかしその後、鳥羽上皇は病に伏せるようになり、医師たちも手の施しようがなかった。


そこで陰陽師の安部泰成(あべのやすなり)が召されて占わせると、玉藻前の邪気が原因であると判じた。

当初、玉藻前を深く寵愛する上皇は信じなかったが、病状が更に悪化したため安部泰成が邪気退散の儀を行ったところ、玉藻前は白面金毛九尾の正体を現して天空へ逃げ去ったという。



行方をくらました玉藻前はその後、那須野に現れて婦女子をさらっているという噂が宮中に伝わり、かねてから那須野の領主・須藤権守貞信(すどうごんのかみさだのぶ)からの玉藻討伐の要請に応え、鳥羽上皇は那須野に三浦介義明(みうらのすけよしあき)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)、上総介広常(かずさのすけひろつね)らを将軍とし、安部泰成を軍師とする総勢八万もの軍を派遣した。



しかし白面金毛九尾の狐と化した玉藻前は様々な術を使い、大軍でも全く太刀打ち出来なかった。そこで三浦介と上総介ら将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射の訓練し、再び玉藻前を攻めた。



訓練の成果のため討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は須藤権守貞信の夢に若い娘の姿で現れ許しを乞うたが、貞信はこれを許さず、九尾の狐が弱っていると見て追撃した。


そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけて、ついに白面金毛九尾の狐は討ち取られたという。


しかし白面金毛九尾の狐は死後毒を吐き出す石と化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになった。そのためこの石は『殺生石』と呼ばれるようになった。


その後、多くの僧侶が白面金毛九尾の狐の鎮魂のため殺生石を訪れたが、その多くが毒によって命を落とした。しかし南北朝時代、玄翁(げんのう)和尚という高僧が金毛九尾の狐の鎮魂祈祷をすると、殺生石は三つに砕け、美作国高田(岡山県真庭市勝山)、越後国高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)または、豊後国高田(大分県豊後高田市)の三ヶ所に飛散したという。金槌を『玄翁(げんのう)』というのはこの伝説に由来する。



今回思うところあり那須の殺生石に再訪した。玉藻前伝説が架空のものだとしても殺生石付近は強い硫黄臭と妖しさが漂っていた。



殺生石に至る殺生河原は石がゴロゴロとしており、まるで賽(さい)の河原のようだ。

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千体地蔵。

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殺風景の中に居並ぶ地蔵群が更に異様な雰囲気を醸し出す。


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盲蛇石(めくらへびいし)。

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昔、五左ェ門という湯守が長く厳しい冬に備えて山に薪を採りに行った帰り道、殺生河原で一休みしていると、2メートルを越える大蛇に出会った。


その大蛇の目は白く濁り、盲目の蛇であった。これをかわいそうに思った五左ェ門は、これでは冬を越せないだろうとススキと小枝で蛇のために小屋を作ってあげた。


その翌年、蛇のことを忘れなかった五左ェ門は湯殿開きの日に蛇の小屋をのぞいてみると、蛇の姿は消えていた。そのかわりにキラキラと輝く湯の花があった。

これは五左ェ門の盲蛇に対する優しい気持ちが神に通じ、神が湯の花の作り方を教えて下さったのである。


その後、湯の花の作り方は村中に広まり、村人たちは盲蛇に対する感謝の気持ちを忘れず、蛇の首の形に似たこの石を盲蛇石と名付けて大事にしたという。



ひととおり殺生河原を巡り、振り返って殺生石を見た。

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殺生石付近から沸き上がる煙が上に漂っていた


殺生河原を歩いた後は那須温泉の元湯・鹿の湯に立ち寄った。

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鹿の湯は第34代舒明天皇の御代、茗荷沢村の住人狩野三郎行広が大きな白鹿を追って発見したという伝説があり、公式には天平10年(738年)の正倉院に収められた駿河国正税帳(しょうぜいちょう)のなかに那須温泉が記されているほどの由緒ある温泉である。


鹿の湯は昔ながらの湯治場の雰囲気の残る温泉だ。男湯には6つの浴槽があり、41℃、42℃、43℃、44℃、46℃、48℃の6種類の温度がある。


風呂場には洗い場がなく、掛け湯をしてから入るのがしきたりだ。その方法は48℃の湯を後頭部から数十回かぶるのが湯あたりしない為の古くからのしきたりだという。


48℃の湯では熱すぎるため、代わりにぬるめの打たせ湯もある。僕は打たせ湯で身を清めた。



最初に41℃の湯に入るとちょうど良い湯加減だった。浴槽は大人4人も入れば一杯になってしまうほど狭い。


41℃から順番にどんどん温度を上げて行き、44℃になるとさすがにのぼせそうになった。そして46℃の湯に浸かると皮膚が痛いほどであった。さすがに48℃は無理だろうと思ったら、平然と48℃の湯に浸かっている人がいた。なんという強者だ・・・とてもじゃないが僕には無理である。ちなみに個人的には42℃が適温だと思う。



鹿の湯から上がり、火照った体を冷やすためしばらく外を歩き回ってから那須を後にした。すると朝から降っていた雨が上がり晴れ上がった。まるで妖気が消え去ったかのようだった。



今回は鹿の湯を訪れて思いの外癒された。またいずれ鹿の湯に浸かるために那須に訪れたいと思う。